景観を穿つ(あるいは大嘗宮前に並ぶ傘について)
左手に鳩バスの群れ、だだっぴろい広場にやたら整った松の木と高層ビルの遠景。バグったパソコンの壁紙みたいな景色に人間がずらずらと大人しく列をなして、警察官の待ち構えたテントへ吸われていく。小雨の降る平日の真昼だというのに、開かれた傘の数はなかなかどうして少なくない。
まずは景観から疑わねばならない。われらの身体の内側には、すでに巨大な暴力の牙城が築かれている。
politics
2021/05/14
執筆者 |
高島鈴
(たかしま・りん)

ライター。1995年生まれ。アナーカ・フェミニスト。『ele-king』にてコラム「There are many many alternatives. 道なら腐るほどある」連載中。『シモーヌ』(現代書館)にてコラム「シスター、狂っているのか?」連載中。ほか山下壮起+二木信編『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社、2021)、『文藝』(河出書房新社)などに寄稿。

 

左手に鳩バスの群れ、だだっぴろい広場にやたら整った松の木と高層ビルの遠景。バグったパソコンの壁紙みたいな景色に人間がずらずらと大人しく列をなして、警察官の待ち構えたテントへ吸われていく。小雨の降る平日の真昼だというのに、開かれた傘の数はなかなかどうして少なくない。

 

2019年の秋だ。私は大嘗宮一般公開に足を運んでいた。天皇制のすべてを否定している身でここへ来るのはそれなりに抵抗があったが、一方で研究の都合上批判対象として見ておかねばならず、数人で連れ立って千代田区1-1へ向かったのである。

 

まあ、身構えていた。自分は逮捕はおろか職務質問もされたことのない、ひとつの特権的立場にいる人間であるが、それでも数少ない経験のなかで間近に見た警察というものはたいていこちらを睨みつけ、怒号を飛ばしていたし、デモ参加中に目の前にいた人が難癖をつけられて逮捕されたのも見たことがある。やつらは気に入らない人間の排除に余念がないから、何をしてくるかわからない。大嘗宮見物の日、私はカバンにパソコンだの筆記用具だのを一式抱えていたのだけれど、最悪パソコンやノートの中身までまさぐられるのではないか、そうなったらどう抵抗すべきか、などと一人で考えをめぐらせていた。

 

しかし、実際はどうだ。やつらは〈おまわりさん〉の笑みでそこに立っていた。そりゃあもう、信じられないぐらい朗らかな笑顔でやんわり金属探知機を当ててきて、「すいません、パソコン入ってるんですけど」「は〜い、大丈夫ですよ〜」だけであっさり終了した……マジで? ポケットの裏地も見ずに、お前たちはそれでいいのか? いや、私が「それでいいのか」と言うのもおかしいのだが……。

 

中へ入ると、警備も想像以上に甘かった。建物の大きさに比して、見張りの人数が少ない。そのわりに大嘗宮の前は大盛況で、老いたカップルがにこにことお互いの記念写真を撮りあっていたりする。この人たちはこの写真を遺影にするんじゃないだろうか、と反射的に思った。本当に、みんな笑顔なのだ。トレッキング用のちょっと洒落たマウンテンパーカーを着て「今日平田さんも来れたらよかったよね」「そうだよねえ」と話し合うグループとすれ違うと、なんだかもう、建物を見る気力はすっかり失せてしまう。この人たちはきっと友人同士で、今日の楽しいピクニックに平田さんが欠けていることを本気で残念がっているのだろう。ここがただの気持ちいい川べりであれば、別に何ともない会話である。しかしここは皇居で、ここに屹立しているのは大嘗宮なのだ。家父長制の、国家権力の、戦争責任の、人間を支配する暴力の象徴であり、同時にそれらの暴力を無批判に温存・継承する営みの象徴なのである。

 

「グロいねえ、本当に……」「早く天皇制もなくなればいいのにねえ」

 

多少周囲に聞こえるようにそう口にしたのが精いっぱいで、私は結局すぐに皇居を立ち去った。逃げるように滑り込んだ地下鉄の中で、傘の先から垂れる水滴をじっと見ていた。私は楽観していたのかもしれない。誰も叫んでいなかった。誰もプラカードを持っていなかった。誰も暴れていなかった。みんな家の近くを散歩するように、そこにいた。私だってほとんど何もできなかったけれど、あんなに誰も何も言わないなんて、想像していなかった。

 

 

ここで景観を疑わねばならない。

 

われらは日常的に景観に触れている。景観とは日常である。そしてここでいう景観とは、けっして視覚だけで説明しうるものではない。

 

社会学者の川端浩平は、地域社会において不可視化される他者性を追求する議論を展開するなかで、小学生の頃に父親から告げられた「あそこの峠の下り坂の辺は面倒なんが多いけえ、気いつけーよ」★1というセリフを、自身の部落差別の原体験として位置付けている。実際には「下り坂の辺」からは被差別部落を視認できないうえ、視認できる地点から臨んだ被差別部落の様子も、小学生であった著者の目には郊外の風景としか映らなかったにもかかわらず、父は子に「面倒なん」に対する警戒を伝えたのであった。つまり部落差別の根拠は地域住民の空間認識において自然化された観念であり★2、それすなわち景観なのだ。暴力が景観として処理されるとき、暴力に対して持たねばならない疑いは放棄されてしまう。われらが真に警戒すべきは、自らが自明だと考えている景観そのものである。景観を受け入れることで暴力を見逃してはいないか。その見落としが暴力の進行に加担しているのではないか。われらはわれらがすっかり身体化し、皮膚の内側に納めて久しいその景観を、何度でも他者化して見つめ直さねばならないのだ。

 

監獄の廃止《アボリション》を訴える哲学者にしてアクティビスト、アンジェラ・デイヴィスは、監獄がわれらを取り巻く映像環境に偏在していることが、人から監獄なき世界への想像力を失わせると述べている。

 

「われわれの映像環境のなかで監獄は、最も重要な位置を占めるものの一つである。われわれが監獄の存在を当然のものとして受け入れるのはそのためである。監獄はわれわれの常識の主要な構成要素になっている。監獄はわれわれの周りのあらゆる場所に存在している。われわれはそれが存在すべきか否かなどと問おうとはしない。それはあまりにもわれわれの生活の一部になってしまったために、監獄の時代の後に来る監獄のない将来の社会を思い描くなどということには、とてつもない想像力の離れ業が必要とされる」★3。

 

アンジェラが監獄をなくすよう訴えるのは、それが日常に根深く、かつ広範に食い込んだ暴力装置であるからにほかならない。懲罰としての投獄は人種差別に基づいて不平等に実施され、囚人たちは奴隷制に等しい低賃金労働と人権侵害に苦しめられる。この状況から生じる利益──監獄の運営に対する国家/行政からの報酬、囚人労働の利潤──は企業にもたらされ、懲罰/監獄は産業化する。さらに白人をマジョリティとする地域社会は監獄のある景観を当然のものとして受容し、同時に「犯罪者」イメージを有色人種に委ねることで、責任を自覚しないまま有色人種の排除を推進していく……。この状況をアンジェラは「産獄複合体」と呼んで批判し、監獄のない社会の実現を訴えてきた。

 

念を押すがこれは構造の問題だ。企業ひとつ、地域ひとつが悪者でおしまい、という話では全くない。監獄で甘い汁を啜る資本家、人種差別を温存し続ける国家、監獄のある景観を常識としてわれらに刷り込み続けるメディアや地域社会、そしてこれらを疑わずに受け入れているわれら、このすべてが絡み合って地獄は顕現している。

 

さらに念押しすれば、「それはアメリカの話じゃん」という反応にも意味はない。そもそも産獄複合体に参与した企業は世界中にシェアを伸ばしているし、監獄を自然化する映像環境は各地で作られ、あらゆる場所へ輸出されている(アンジェラは多くのハリウッド映画が監獄イメージの強化に寄与したと指摘する)。そして何より、産獄複合体自体がそうであるように、暴力は世界規模で複数の要因が交差しているのである。どこかで見逃された不正義は世界中へ伝播し、別の誰かにつけを払わせるだろう。もちろん立場や状況に応じてできることとできないことがあるけれど、物理的に/時間的に/心理的に遠い他者の問題だから、という理由は、不正義を見逃す言い訳にはなり得ない。

 

繰り返すが、まずは景観から疑わねばならない。われらの身体の内側には、すでに巨大な暴力の牙城が築かれている。列島社会に立つ私自身、別の誰かから見れば「日本」という暴力機構を織りなす景観の一部だ。この城の存在を認め、自らの立場を顧みるところから、すべてを始める必要がある。

 

 

一方でわれらには、景観を利用する余地がある。われら自身が景観の一部である以上、景観を書き換えうる力はわれらの手にも残されているからだ。

 

たとえば二〇一八年七月二七日、自民党本部前で行われた杉田水脈の「生産性」発言に対する抗議集会を思い出す。道いっぱいに集まった人をどんどん追い抜かし、あの日私はスピーチ台のすぐそばにいた。黙りこくった自民党本部前の街灯を、はためくレインボーフラッグ越しに見た。光は涙で滲んでいた。なぜ涙が出たのか、今も言葉だけでは説明がつかない。悔しいだけでも、嬉しいだけでもなかった。順番にスピーチ台に上がる人の覚悟と緊張、ホモフォビアや優生思想に抵抗するためにその場を埋めた人たちの存在感、それが永田町のど真ん中でさらけ出されていることに、私は突き動かされていた。

 

デモをしていったい何になるんだ、と言う人にはよく会う。たしかに左翼の歴史は敗北の歴史で、それは今も変わらない。今後風向きが変わる兆しもいまだ見えない。結果の不在を開き直るつもりもない。それでも意思表示が景観として立ち上がってきたとき、空間の意味は確かに民衆によって乗っ取られている。デモの意義はそこにある。暴力的静寂に支配された景観を掻き乱し、そこに潜むものを暴き立てるのだ。それを目にした者すべてが巻き込まれてくれるわけではないことは重々承知で、そのパフォーマンスが誰かを共同戦線へ巻き込む可能性を信じる。

 

そして先ほどデモの意義と言ったけれど、この効能は決してデモに限られない。国会前に行って叫ぶだけが社会運動ではない。身近な不条理に舌打ちをして雰囲気をぶち壊すこと、政治的立場と無関係な友人で固まったSNSに政治的メッセージを流すこと、「招かれざる客」としてただそこに鎮座して見せること、そして抵抗する主体としてこの地獄を生き延びること。景観を崩す方法は無限にあり、些細であってもその価値は唾棄されるべきではない。どのコップで入れた水がプールを決壊させるかわからないのだから、どんなコップも割らなくていい。

 

景観を容易く受け入れるな。景観に飲み込まれるな。景観が変わる想像をやめるな。景観の中にいる自分を、景観を景観足らしめている自分の内側を意識せよ。何もできないと感じる時間もわれらは景観の一部だ。それゆえに不正義を憎み、革命を信じて生きることは、すでに抵抗なのである。


★1──川端浩平『ジモトを歩く──身近な世界のエスノグラフィ』(御茶ノ水書房、2013)214頁
★2──前掲★1、215頁
★3──アンジェラ・デイヴィス『監獄ビジネス──グローバリズムと産獄複合体」(上杉忍訳、岩波書店、2008)13頁

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2021/05/14
執筆者 |
高島鈴
(たかしま・りん)

ライター。1995年生まれ。アナーカ・フェミニスト。『ele-king』にてコラム「There are many many alternatives. 道なら腐るほどある」連載中。『シモーヌ』(現代書館)にてコラム「シスター、狂っているのか?」連載中。ほか山下壮起+二木信編『ヒップホップ・アナムネーシス』(新教出版社、2021)、『文藝』(河出書房新社)などに寄稿。

写真 | 森岡忠哉
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