#youth|就活生が読む『鬼滅の刃』──鬼舞辻無惨に見る悪の在り方
# youth その日その日の暮らしのなかに小さな幸せを見つけてつつましく生きていこうという風潮は、小市民的な生き方として今なお少なくない人に支持されている思想である、と私は感じている。政治や生活環境に不満を感じたとき、彼彼女らはそれをいかに「気にしない」ようにするかということに注力し
鬼舞辻無惨「そんなことに拘っていないで、日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう」から考える「自覚的な悪」。
identity
2021/05/14
執筆者 |
真嶋要
(ましま・かなめ)

22歳。食事と趣味に使うお金がいくらあっても足りない。

その日その日の暮らしのなかに小さな幸せを見つけてつつましく生きていこうという風潮は、「小市民的な生き方」として、今なお少なくない人に支持されている思想だ。政治や生活環境に不満を感じた時、彼らはそれを「気にしない」ようにすることに注力し、軽い愚痴をこぼすことはあってもそれを変えようとはしない。仕方ないこととして受け入れ、日々の暮らしを充実させようという発想に転換する。

もちろん、声高に改革を叫んで行動することだけが正しいわけではない。受け入れるべき現実はたしかにあり、耐えざるをえない理不尽はあらゆるところに潜んでいる。理想とともに心中するのではどうしようもない。しかし、一方で、そうした小市民的な美徳を、強者が弱者をねじ伏せるための論理として利用している現実がある。

自分がそのことを認識したのは、『鬼滅の刃』(吾峠呼世晴『週刊少年ジャンプ』集英社、2016〜20)において、主人公・竈門炭治郎の最大の宿敵「鬼舞辻無惨」の一言がきっかけだった。

 

「何も難しく考える必要はない 雨が風が山の噴火が大地の揺れがどれだけ人を殺そうとも天変地異に復讐しようという者はいない。死んだ人間が生き返ることはないのだ いつまでもそんなことに拘っていないで 日銭を稼いで静かに暮らせば良いだろう。」

吾峠呼世晴『鬼滅の刃』第2巻(集英社、2016)


悪は自覚的である


この台詞は、ただ自分が生き延びるために手下の鬼を使って多くの人々を殺した無惨が、自分に刃を向ける炭治郎に向かって言い放った言葉である。無惨が身勝手な理由で増やした鬼によって大切な人を殺されても、それは天災に等しいものとして受け入れ、無謀な敵討ちなど挑むべきではないということだ。当初は人間であった鬼たちの凄惨な過去に心を寄せた炭治郎も、この言葉には激昂し、「無惨、お前は存在してはいけない生き物だ」と言い放つ。

 

目先の生き死に、そうでなくとも数年先の未来が見えない状況のなかでは、考えることはおろか不当な扱いに怒る気力さえ失ってしまう。

 

2021年に就職活動真っ只中にある筆者は、今まさにそれを痛感している。

身近な同世代のなかでは、比較的政治への関心が強かった自分は、政治の領域で何か不条理なことが起これば憤り、その憤りを発信したり、誰かと議論したりしていた。それは義務感や向学心によるのではなく、自分自身が生きることと、誰かがどこかで不当な不利益を被っていることがけっして無関係ではないという感覚があったからだ。誰かが生きづらくなることは、巡りめぐって自分の生きづらさに繋がっていると感じるからだった。それは今でも変わらない。

けれども、就職活動をしていると、不当なことに怒り、それを指摘し、変えたいと思うエネルギーが日に日に薄まっていると感じる。自分がいかに努力を重ねても、それが他者に認められるかは定かではないという不安が常に付き纏い、合否通知の日には就活サイトとメールボックスにかじりつく毎日のなかで、不条理を不条理として捉える感覚も、それに当たり前に覚えていたはずの怒りも霞んでしまった。むしろ、そこにエネルギーを向けないように、ニュースで報じられる問題を避けようとしている自分さえいる。

 

悪は、不条理は、疲れ果てて気力を失った自分のような存在をまさに歓迎するのだと、冒頭に挙げた無惨の言葉に気づかされる。日銭を稼ぐことに追われる生活のなかでは、時に悪を悪とすら認識できないのではないか。そのような心理を、悪は巧妙に利用しているのだろう。

市井にとけこんで生活していた無惨が自らを「天災」と称したように、日銭を稼いで生きる弱者の心持ちを、強者は知っていて、その心理を利用し自身の悪行を正当化する。まさにその点において、無惨は現在の日本に蔓延る小賢しい悪の象徴だと言える。

 

加えて、無惨の特徴は、大義のなさと徹底した利己性である。彼自身には典型的な悪役に見られる世界の改革や復讐の遂行といった大義はなく、鬼になる前についても他の鬼のような悲劇的な過去はない。人間であった時からただひたすらに生き延びることに固執しているだけなのだ。

実際昨今のさまざまなニュースを見ていると、事実の改竄や隠蔽などの悪事が、無惨のような、強者による驚くほどの生き汚さに起因していることは少なくないように見える。大義もなければ犯した罪を背負う気もない悪に、声を上げられない市民が利用されてしまうことは耐え難い。

 

『鬼滅の刃』に見る「優しさ」

  

『鬼滅の刃』は「優しい物語」だと思う。家族を愛する炭売りの少年が、親兄弟の敵討ちのために剣士を志し、逆境のなかでも、これまで出会ってきた人への想いを糧に目的のために邁進する。時に敬愛する仲間を失いながらも、想いを託され、それを繋いでいくという大きな意味のなかで生きていく。さまざまな「鬼滅の刃論」ですでに論じられているように★1、炭治郎の努力の源泉になっているのは時に「長男である」という使命感であり、少なくとも現代の価値観では命をかけて戦える理由とは言えないのかもしれない。

しかしそれは一方で、家族という唯一無二の価値を自身の根に置いた彼の強さであり、家族から彼に向けられる感情もまた押し付けではない純粋な愛であるからこそ、「長男である」ことが彼の強さの源泉たりえるのではないだろうか。

 

炭治郎の物語は、「家族愛、絆、努力」などと陳腐な概念でまとめられかねないものだが、彼のまっすぐな強さとそれを支える優しさに、そしてその先に実現する正義に、私たちは飢えている。愛や絆といった人間的な価値や、先人から繋がれたもののなかにいる自分という自覚は、現代の日本においては乏しい。

「自分のためだけに生きていけるほど人間は強くない」とは三島由紀夫の言葉だが★2、まさしくわれわれはその問題に向き合わなくてはならない時代に生きている。生き方が多様化するなかで、何のために生きるのかは個人に委ねられている。その自由に内包される重圧と不安は、日銭を稼いで暮らすなかではむしろ障害にしかならない。そして、その不安を利用しようとする小賢しい悪は、身の回りに溢れている。

 

建前としては自己という個人の根をどこに下ろすのかを自由に選択できる2020年代にあって、家族や絆や努力、歴史といった一見古臭い理念を前面に押し出した竈門炭治郎という主人公をいかなる留保もなく描き、それを無惨という大義なき悪と対峙させたことが、『鬼滅の刃』の功績である。われわれを救ってくれるものは、炭治郎が示したような愛や絆かもしれないし、脈々と継承される関係のなかに自分を位置付けることかもしれない。

迷える私たちに対して、この作品は、切実な問題に対峙するためのヒントを与えてくれている。

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2021/05/14
執筆者 |
真嶋要
(ましま・かなめ)

22歳。食事と趣味に使うお金がいくらあっても足りない。

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