オリンピックまで46日──「全ては金の問題だ」ということはイケてない
金の問題が根底にある「大人の都合」に若者や子どもが飲み込まれる構造を放置したまま、彼らに夢と希望を与えられるかは疑わしい。現実を知らずにいてプロパガンダを鵜呑みにするのがよくないのは言うまでもないけれど、「全ては金の問題だ」で終わることに慣らされた結果、社会はどのようになっていくのか。
「全ては金」と聞かされ続ける若者には、価値をめぐる続きの話を。
politics
2021/06/07
執筆者 |
elabo編集部

世界中の目が日本に注がれている

 

オリンピックには反対、しかし中止できるのはIOCのみというレポートが増えてきた。2021年5月11日にオリンピックを「祝賀資本主義」だとして問題提起を続けてきたジュール・ボイコフが『ニューヨーク・タイムス』で「スポーツイベントはスーパースプレッダー(大規模感染源)になるべきではない。オリンピックを中止せよ」という意見書を発表し日本の各メディアがそれを報じた5月28日には「現代ビジネス」に哲学者のマルクス・ガブリエル、ノーベル経済学賞受賞者のポール・クルーグマンらが五輪開催に対する反対意見を表明し、「日本がなぜオリンピックをやろうとしているのかわからない」という国民としては「私たちもわかりませんけど」と答えざるをえないコメントを寄せている。6月3日には朝日新聞でボイコフが改めてオリンピック開催に対する反対意見を述べ、まだ中止にする可能性があるかという問いに対して、「開催することが五輪のブランドイメージに甚大な損害を与える状況だと判断したら、(IOCも)踏み切る可能性はある」と助言している。

 

海外メディアでも連日オリンピックについての報道がある。6月1日には「Teen Vogue」でオリンピックが施設の建設のための立ち退きと土地の高騰(=ジェントリフィケーション)等によって各都市の弱い立場の人たちに大きな負担を強いてきたこと、また近年の膨大な費用は、都市に赤字経済しかもたらさないこと包括的に紹介し、開催地を永続的に固定すべきだったと結論づけている

全ては金の問題だ」と聞かされ続ける若者や子どもたち

 

こうした議論の多くは、賛成であっても反対であっても、「経済」というフレームのなかで展開している。「生命か経済か」という昨年から問題になっている対比においても、経済という基準が手放されることはない。経済的指標が物事の是非を決める際に、信頼できる指標のひとつであることは間違いがない。円滑な経済活動なしには人命も守られないわけで、さまざまな要因をフラットに比較検討するために経済的指標を議論のベースにすること自体にはまったく異論はない。しかし、それだけでよいのだろうか。

 

ここで、東京オリンピックを巡る一連の議論、報道のなかで、若者や子どもがどのような情報を得ているかを考えてみたい。「オリンピックは夢の祭典」だとさまざまな教育現場で語られたうえで、そうした夢の祭典は「結局金の問題」だと聞かされる。例えば、神奈川県藤沢市で聖火リレーを走る予定の中学生には、「走る際の着衣について東京五輪・パラリンピックのスポンサー企業の製品か、他社製の場合、ロゴマークなどの印字や刺しゅうが見えない物などに限る」といった規定が言い渡され、同市の市民団体は「企業の論理を子どもたちの服装にまで押し付けることは、教育とはかけ離れている」と反発した

 

為政者や教育者によって理想や理念、夢や希望が伝えられたうえで、「それはIOCや企業が金儲けのためにやっていることだ」とすかさず伝えられる状況。オリンピック観戦のために動員されるかもしれない子どもたちには、その公然とした本音と建前、言い換えればダブルバインドに、心理的な葛藤を抱え込む者も当然いるのではないだろうか。

 

金の問題が根底にある「大人の都合」に若者や子どもが飲み込まれる構造を放置したまま、彼らに夢と希望を与えられるかは疑わしい。現実を知らずにいてプロパガンダを鵜呑みにするのがよくないのは言うまでもないけれど、「全ては金の問題だ」で終わることに慣らされた結果、社会はどのようになっていくのか。「全てが金の問題だ」で終わらないこと、金より大事な価値があるという「続き」が必要なのではないか。 


「全ては金の問題」の続きが必要

 

「全ては金の問題だ」という言葉を、本当に頻繁に聞くようになった印象がある。「全ては金の問題だ」ということに賛成である人も、「全ては金の問題」であることに反対である人も、こうした言い方をするようになった。後者は、それに反対であるのに、現実において「金」の論理に負ける時に、吐き捨てるように言われるものだ。

 

スポーツ関係だけでも、サッカーのスーパーリーグ構想の一件、最近ではテニス・プレーヤーの大坂なおみが勇気ある表明をした際に、全仏オープンがとった残酷な対応とそれに対する日本メディアの扱いなど、「お金をもらっているのだから」「お金が動いているのだから」、という論理が余りにも多い。繰り返すが、耳障りのいい理想論に丸め込まれることがよいということではない。「全ては金の問題だ」だけが溢れかえっている社会で、未来を生きていく者たちがどのような心持ちになるかを考えたいのだ。


「TeenVogue」では「東京オリンピックが恐ろしく間違ったことになれば、〔IOCの〕改革への可能性が開けるかもしれない(If they go horriblywrong, that might open up more space for possible reform.)」と述べたボイコフは、朝日新聞でのインタビューではこのように述べている。

 

「350万を超す方々が亡くなったパンデミックが収束しない中で強行するより、返上を決断することこそ、人類愛の連帯を示す行動です。IOCのバッハ会長は東京五輪をコロナ禍という「長いトンネルの先の光」と表現しますが、中止にすることこそが、希望の光なのだと思います。」

 

状況に応じて効果的な言葉を述べようとしているボイコフが使う「人類愛」という言葉は、ないよりはずっとましだけれど、やはり弱いように思う。オリンピックが露わにした、世界をいまだに支配している、白人男性をトップとする利権構造を直視したうえで、「やはりお金以上のものはあるね」という社会を作りたいと願わずにはいられない。

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2021/06/07
執筆者 |
elabo編集部
写真 | 森岡忠哉
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