「愛(love)」について、今回はkemioの言葉から考えた
人気Youtuber、無二のインフルエンサーであるkemioは、2020年8月23日配信「1回目のデートで裸の運動会して恋人になれたことある?」の中で、アメリカに来てからの微笑ましい恋愛の失敗談を披露している。
好きなの相手に「I love you」と伝えてドン引きされたKemioくん。なぜ?
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2021/06/11
執筆者 |
elabo編集部+柳澤田実

愛を至上の価値とする

人気YouTuber、無二のインフルエンサーであるkemioは、2020年8月23日配信「1回目のデートで裸の運動会して恋人になれたことある?」のなかで、アメリカに来てからの微笑ましい恋愛の失敗談を披露している。その失敗談のひとつに、デートし始めたばかりの相手に「I love you」と言った時にドン引きされて、それっきりになってしまったというエピソードがあった。

kemioとしては、海外ドラマ(「セックス・アンド・ザ・シティ」)の真似をして「ちょっと好きかも」くらいの気持ちで言った「I love you」。けれど、アメリカ人の友人に尋ねたところでは、何年も大事な時間を過ごして信頼し合ったうえで「王手」として言うべき台詞で、けっして気軽に言うべき言葉ではなかったのだそうだ。このエピソードからわかるのは、アメリカ人にとって「愛(love)」は、セクシャルな恋愛感情を超えるものとして想定されているということである。そしておそらく、「婚姻=家族を作る」は、その両者ともまた異なる法的次元として認識されている。

「愛」を至上のものとするがゆえに、アメリカ人は頻繁に離婚をするのかもしれない。その意味では、こうした価値観が社会にとって最良のものかどうかを即断することは難しいけれど、まず愛と性愛と家族を作るための結婚が、別々のものとして認識されていることに注目したい。

前回取り上げた「(...中略...)多くのアメリカ人は同性婚の問題はとてもシンプルな命題であることを理解しつつありますね。それは、あなたは誰を愛しているか(Who do you love)ということ、あなたは愛する人に忠実でいたいか、ということです」と語ったバイデンの言葉は、こうした「愛」を至上とする価値観から生じている。愛、性愛、婚姻(男女の場合生殖も含む)はもちろんひとつに重なりうるものだけれど、前提として、切り分けられているからこそ、バイデンのような見方が可能になる。

同性婚に不安を感じる人たちの多くが、伝統的な家族観の変化を恐れていることを考えるならば、「愛」が「家族」と別の基準として立てられていることは、大切なことだと思われる。バイデン大統領が全面的に認めたように、「男女という結婚=家族」のかたちは変わっても、愛においては、同性婚も異性婚も異なるものは何もない。だからこそ同性婚に賛成すべきだと判断できるからだ。

「愛情という名の支配」だらけの日本

以上のエピソードから垣間見えるアメリカの状況を受けて、私たちの国について考えてみよう。残念ながら、日本には、何のわだかまりもなく「それは愛の問題だ」「愛し合う2
人の結婚を認めよう」と主張できない現状があるように見える。日本では、父親をトップとし、両親が子に対して絶対的な権力を持つ、家父長的な家族観と「愛」という理念が渾然一体となっていて、「愛」という耳障りの良い言葉によって、さまざまな暴力(共依存、DV、虐待)が隠蔽され、現在もその状況は続いているからだ

「可愛がる」という言葉が「しごく」というスパルタ的な暴力の意味も持っていることには、こうした愛と暴力がないまぜになった、日本ならではの価値観が表出しているようにも見える。

心理カウンセラーの信田さよ子は、日本において「家族」が完全に無法地帯になっていること、「愛」の名のもとに物理的・精神的暴力が振るわれていても、それを暴力として多くの人が認められない状態が続いていることを、『愛情という名の支配』(海竜社、201年)や近著『家族と国家は共謀する──サバイバルからレジスタンスへ』(角川新書、2021)のなかで繰り返し述べている。

とくに性的な虐待や、母親からの束縛的暴力は、愛情の名の下に隠蔽されやすいそうだ。それは加害者にとっても被害者にとっても、周囲の人間、警察、さらにはカウンセラーなどの専門家でさえも同様だという。1990年代にも、夫からのDVの訴えは妻の妄想だと考える専門家が存在していたそうだ。DVを受けた母が、子どもを虐待することも多い。

DVと虐待が一体となった事件が後を絶たないにもかかわらず、ブラックボックスのままの日本の「家族」を維持強化しようとする動きは根強い。2007年に「家族の日(11月第い3日曜日)」を定めた当時内閣総理大臣であった安倍晋三は、自民党幹事長代理であった2005年に「過激な性教育・ジェンダーフリー教育実態調査プロジェクトチーム」を組織し、ジェンダーという言葉の排除に務めていったそうだ(『家族と国家は共謀する』76〜79頁)。

「家族愛」という名の下で、さまざまな暴力が、いまだに肯定されてしまう現在の日本。信田は、こうした状況を解決するために、近代的な家族を支える「ロマンティックラブイデオロギー」を解体する必要があると言う。「愛と性と生殖の三位一体を崩すこと」と彼女は述べているが、その作業の大前提として「愛」と「家族」を切り分けることが重要だろう。

ヨーロッパでは、ナチスによる同性愛差別への反省に基づいて「人権」という概念によって、LGBTQ差別の撤廃が進んでいる。今この文章を読んでいる読者も「人権」と聞いて、少し身構えるかもしれないが(筆者たちもそうだ)、日本では人権概念も一般的に馴染んでいるとは言えない。日本でも法的に平等な「権利」の獲得を目指しさまざまな団体が戦っており、法務省も人権の問題としてLGBTQの権利の保護に取り組んでいるにもかかわらずだ。

「愛」や「人権」など、「家族」という強力な制度と、そこに付与された価値を相対化できる何らかの理念が必要である。そして、それらの理念を単なるお題目にせず、リアルに実在するものとして感じられるように、シスジェンダーであっても、LGBTQ当事者であっても、私たちのマインドセットも変えていく必要があるのではないだろうか。

家族を再定義することによって訪れる未来

「親密な関係の危険性を熟知し、それを避けて暴力防止を目指すならば、男女と親子という関係が家族を構成するという、近代家族の基本そのものを問い直す必要が生まれる。個人が安全に生きるための器が家族であるとすれば、もっと多様な独創的な家族が生まれてもいいだろう。(...中略...)LGBTQといった性的多様性の尊重を掲げる動きが、家族のあり方を変えていけることを信じたいと思う。」(『国家と家族は共謀する』74頁。太字はelabo編集部による)

日本では、若年層は、同性婚を9割以上支持し、とくに女性の支持がきわめて高いことが、すでに厚生労働省の調査などによって明らかになっている。この結果には、LGBTQへの共感、多様な価値観を尊重する姿勢と同時に、現在の日本の「家族」のあり方に対して、納得できない感情を抱いている若者と女性の心理が見て取れるように思う。

2021年3月26日に新たに「結婚の自由をすべての人に」訴訟に加わった藤井美由紀さんは、愛する父親が本当のことを言えないままに亡くなってしまったことが、訴訟や活動に加わったきっかけだと述べている

藤井さんのパートナーである福田理恵さんも、入院時に看病をする藤井さんをいとこだと偽らざるをえなかった際に、「嘘をつくことで、私自身もセクシュアルマイノリティが嘘をつかなくてはならない社会の一員となっていることに息がつまりました」と語っている

パートナーに対しても、自分の実の両親に対しても、嘘をつくことががつらいと述べる藤井さん、福田さんの話には、深い愛情を感じる。さまざまな不平等や暴力が隠され、嘘に塗り固められた「家族」ではなく、藤井さんたちのように、嘘のない、愛のある共同性を生きることは、人間誰しもが、望むことなのではないだろうか。

同性婚への賛意がこれまでになく高まっている今、これまでの日本の「家族」のあり方を反省し、より良い共同性のあり方について考えられる時が、今まさに、日本にも到来していると思いたい。私たちは、どんなジェンダーや性的嗜好であっても、もっともっと愛情深く、幸福に、共に生きることができるはずだ。

Happy Pride Month!!!

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2021/06/11
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