『チェンソーマン』礼賛──天使さえ悪魔である、私たちの世界で
藤本タツキのコミック『チェンソーマン』(2019〜)には「天使の悪魔」という悪魔が登場する。頭の上に、いかにもエンジェルな輪っかを載せた、このアンニュイな悪魔は、この作品世界が、どのようなものであるかを端的に表している。
悪魔と人間しかいない絶望のなかの共感から始まった。
culture
2021/06/25
執筆者 |
悠々+柳澤田実
(ゆうゆう+やなぎさわ・たみ)


悠々
大学3年生。趣味は漫画とアニメと民俗学関係の書籍を読むこと。最近とある人気漫画で新たな推しができて浮かれている。

柳澤田実
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。‍

人と悪魔しかいない世界

藤本タツキのコミック『チェンソーマン』(2019〜)には「天使の悪魔」という悪魔が登場する。頭の上に、いかにもエンジェルな輪っかを載せた、このアンニュイな悪魔は、この作品世界が、どのようなものであるかを端的に表している。キリスト教の伝統的な理解では、悪魔とは堕天使で、ルシフェルを筆頭に、神から背いた天使が悪魔になると考えられている。しかし『チェンソーマン』では、天使さえ悪魔のなかに包摂されている。つまり『チェンソーマン』の作品世界には、神や天使は存在せず、人間と悪魔しかいないからだ。

『チェンソーマン』のあらすじを振り返っておこう。舞台は現代の日本のように見えるが、悪魔と人間、そして人間の死体を悪魔が乗っ取った魔人が共存した世界だ。主人公デンジは自称16歳の少年である。父親に先立たれ、巨額の借金を負わされている。ある日デンジは偶然出くわした瀕死の状態の「チェンソーの悪魔」に血を与え、生かす代わりに、自分を助けるという契約を結ぶ。デンジは「チェンソーの悪魔」にポチタという名前をつけ、ポチタを武器に悪魔を殺すデビルハンターとして働き、ヤクザに借金を返す生活を送るようになる。ポチタと仲睦まじく暮らしていたデンジだが、借金を取り立てるヤクザに裏切られ、ポチタもろとも刃にかけられる。デンジが命を落とす瞬間、ポチタはデンジの心臓となり、目の前からは消えてしまう。「チェンソーの悪魔」と一体化してチェンソーマンとなったデンジは、悪魔を倒す組織である公安に強制的に配属され、最凶の悪魔である「銃の悪魔」を倒すために戦うことになる。

万物を作った神が存在しないかのように見える世界では、悪魔はどこから来たことになるのだろう。その起源は明示されてはいないが、悪魔という存在が人間の恐怖と相関していることは、複数の悪魔の発言から明らかである。人間が恐怖を覚えるもの=概念/名前が悪魔となり、そのなかでもより強い恐怖を与えるものが強力な悪魔となるようだ。それゆえに本作品では「未来の悪魔」「幽霊の悪魔」「石の悪魔」などさまざまな悪魔が登場する。また悪魔は、人間が抱く恐怖だけではなく、ほかの悪魔が抱く恐怖によっても強くなるため、一度も死んだことのない「闇の悪魔」、人間を恐怖に陥れている「銃の悪魔」や「支配の悪魔」、そして主人公と一体化している「チェンソーの悪魔」は、ほとんどハルマゲドン(世の終わりの最終戦争)を思わせるような強大な暴力や破壊を実現できるほどの力を持っている。反対に恐れられない悪魔は弱体化する★1。こうした法則は、回を進むごとに明らかになっていく。


さらに「天使の悪魔」がデンジの仲間・アキに明かしたところによると、悪魔は現世と地獄を輪廻転生している。現世で死んでも、悪魔は、人間に恐れられている限り地獄に蘇り、地獄で死ぬと現世にやって来るという循環になっている。この設定からも、悪魔の存在が人間の恐怖によって支えられていることがわかる。さまざまな場面で優しさを見せる「天使の悪魔」でさえ「人間は苦しんで死ぬべき」だと断言していることからもわかるように、悪魔は人間を憎んでいる。この憎しみは、悪魔が、人間の恐怖のせいで、暴力の悪循環と輪廻転生から抜け出ることができないことによるものだと考えられる。

地獄のヒーロー=チェンソーマン

「チェンソーの悪魔」の存在は深淵だ。第1話で愛らしいポチタとして現れる「チェンソーの悪魔」は、終盤の第84話で、この世のさまざまな国を支配下に置く「支配の悪魔」=マキマさえ憧れる「地獄のヒーロー」であることが明らかになる。

助けを叫ぶとやってくる
叫ばれた悪魔はチェンソーで殺され
助けを求めた悪魔もバラバラに殺される
そんなだから多くの悪魔に目をつけられて殺されるけど
何度も何度もエンジンを吹かして起き上がる
そのめちゃくちゃな活躍にある者は怒り
ある者は逃げ惑い
ある者は崇拝する
そして彼が悪魔に最も恐れられる理由がもう一つ
チェンソーマンが食べた悪魔はその名前の存在がこの世から消えてしまうのです

(第10巻、第84話、94〜96頁)

「天使の悪魔」がアキに内密に告げた、「地獄で死ぬ瞬間に」チェンソーをふかす音を聴いたという複数の悪魔の証言は、現世にいる悪魔のおそらく全員が「チェンソーの悪魔」によって地獄で殺されたことを示唆している。第84話でマキマは、公安の年長者、岸辺に自らの目的を語るが、それは「チェンソーの悪魔」に勝つことによって、彼を「支配し」、「死、戦争、飢餓」など「この世にはなくなったほうが幸せになれるもの」(第84話、102頁)を食べさせ、消滅させるという内容だった。

存在を消滅させることができる「地獄のヒーロー」=「チェンソーの悪魔」は、マキマが「やること全部がめちゃくちゃじゃなくちゃないといけない」と語るように、善悪を超越した、言わば「神的暴力」(W・ベンヤミン)★2とでも呼ぶべき位相にいる。伝統的なキリスト教の悪魔論に寄せるならば、善の欠如・虚無としての悪理解とも重なるだろう★3。

マキマが自宅マンションの玄関に飾っていた、ミルトン『失楽園』のギュスタフ・ドレによる挿絵は堕天する瞬間のサタン=ルシフェルである。

GustaveDoré, Public domain, via Wikimedia Commons

しかし、マキマが本当に望んでいることは、岸辺に語られている以上のものだった。第87話以降、マキマは、支配下に置いた悪魔、魔人たちを従え、チェンソーマンと最終決戦を繰り広げるが、そのなかで彼女の思惑はさらに明らかになる。この決戦の始まりに際し、マキマは、チェンソーマンに対し、地獄で最後に闘った時のことを語る。

彼らの中にいる武器の悪魔たちと4人の騎士が貴方と戦い
その最中貴方は私達の前から消えてしまった
探しても見つからなかったのは当然でした
貴方は瀕死の変わり果てた姿で生きていたのだから

(第10巻、第87話、152頁)

この言葉から読者は、第1話で描かれた、デンジと出会った際の、銃創のある瀕死のポチタが、マキマたちと闘って「変わり果てた姿」となった「チェンソーの悪魔」だったことを知る。と同時に、新約聖書「黙示録」に登場する4人の騎士が、「支配(勝利)」「飢餓」「戦争」「死」を象徴することを思い起こすならば★4、マキマもまた地獄の騎士のひとりであることに気づかされる。加えて、3人の騎士を消滅させたいと語っていたマキマは、おそらく自分自身=「支配」も「チェンソーの悪魔」によって滅ぼされることを望んでいるのだという解釈も成り立つ。

この解釈は第11巻の最後で、マキマを殺したデンジが、夢のなかでポチタに告げられる内容と符号している。

デンジ…… 支配の悪魔の夢も叶えてあげてほしいんだ
支配の悪魔はね ずっと他者との対等な関係を築きたかったんだ
恐怖の力でしか関係を築けない彼女にとっては 家族のようなものにずっと憧れていた
それで間違った方法だったけどそういう世界を作りたかったんだ

(第11巻、第97話、197頁)

「支配の悪魔」もまた支配の消滅を願っていたと、これらの箇所を総合すると考えられる。

アルブレヒト・デューラー《黙示録の四騎士》(1498)

すべては絶望のなかの共感から始まった

あらゆるものの存在を忘却の穴に葬ることができる「チェンソーの悪魔」自身が、暴力の連鎖を抜け出たことから、『チェンソーマン』の物語は始まる。それを可能にしたのは、天涯孤独の少年デンジが「チェンソーの悪魔」に寄せた共感であり、相手の幸福を願う心だった。デンジは瀕死の「チェンソーの悪魔」を恐れなかった。そして「お前も死ぬのか」と自分の境遇と重ね合わせて理解し、契約を結ぶ。それは自分が生き延びるための術でもあっただろうが、根底にあったのは相手の痛みへの共感だったはずだ。


 

家族もなく学校に通ったことのない、まさに非常識のなかで生きてきたデンジは、つねに「普通」を願い「普通の生活」を送る夢を、ポチタ=「チェンソーの悪魔」に語っていた。しかし、同時に印象的なのは、デンジがいつも、ある意味では自分以上に、共に暮らすポチタのことを心配していたことである。

ポチタ…… 俺は悪魔と戦ってるうちに死ぬかも知れねぇ
そうしたらポチタだけが心残りだ
ハラ空かして死ぬかもしれねぇし
他のデビルハンターに殺されるかもしれねぇ
悪魔には… 死んだ人の体を乗っ取れるヤツもいるらしい
ポチタにそれができるんだったら…… 俺の体をポチタにあげてーんだ…
(…中略…)
そんで…
普通の暮らしをして 普通の死に方をしてほしい 俺の夢をかなえてくれよ

(第1巻、第1話、33〜35頁)

地獄のヒーロー「チェンソーの悪魔」は、デンジに共感され、愛され、幸福を願われたことで、元の姿とは似ても似つかない愛らしいポチタになった。こうして地獄のヒーローはデンジのおかげで「抱きしめられる」という長年の願いを叶える。再び瀕死に陥った際に、ポチタは、デンジの心臓となり契約は更新される。ポチタのほうが、自らの体をデンジに提供し、「デンジの夢を見せてくれ」と自分の夢を託すという、新しい契約は結ばれるのだ。

 

とはいえ作者の藤本が、この壮大な物語が単なる美談に還元されないように、周到にデンジを造形していることにも注意をしなければならない。デンジは、けっして誰にでも好感を抱かれるようなヒーロータイプではなく、思春期丸出しで、女子への関心をはじめ本能的な欲望をむき出しにした、粗野な人物だ。そのうえで『チェンソーマン』第1部を完読して改めて気づかされるのは、とてつもない暴力が日常茶飯事に横行するこの作品世界で、登場するキャラクターがことごとく自分の生々しい感情を封印し、他者への共感を自制しているのに対し、デンジだけが、鼻息荒く恋をし、何の留保もなくポチタを優しく抱きしめているということだ。仲の良かったデビルハンター・姫野の死に心が動かず、「自分に心がないのではないか」としばしば悩むデンジは、結局のところ、一番まともな感情をもった人間として描かれている。そんな彼は、自分を徹底的に絶望に陥れる巨悪マキマ=「支配の悪魔」のことも、最後まで拒絶しない。彼独自の解釈に基づく愛によって、彼女の肉体を文字通り完食し、マキマの生まれ変わりのナユタを引き受け、育てていく。

救済された悪魔

改めて「チェンソーの悪魔」にデンジがしたことを考えてみると、それは少し大袈裟な言い方が許されるならば、暴力の悪循環からの救済だったと言える。救われた悪魔は、デンジのなかでもっとも繊細で柔らかい部分=優しい「心」となり、デンジを励まし、残酷な記憶から彼を守り、辛い時には夢の中に現れ、彼を支え続ける。

 

他方で、このような救済の道筋が霞みかねないほど、同時進行する物語のなかでは、恐怖によって増大していく悪魔たちが、残酷な暴力をふるい続け、夥しい数の人間が死んでいく。それがけっして現実からかけ離れたフィクションではないことを、読者はマキマによる歴史への言及などによって意識させられる。たとえば武器の悪魔の名の下で、武器が売買され、戦争、内戦が行われていることも含め、この作品で描かれている惨状は、間違いなく私たち読者が現に生きている世界の描写にほかならない。

 

天国のない世界。地獄と現世しか存在せず、悪魔と人間しかいない『チェンソーマン』の世界は、多くの日本人の心象風景を映し出しているように見える。私たち日本人には共通認識としての「神」がいない。けれどだからこそ、この「神」なき世界で、デンジのように、悪魔を救うことこそが求められているのかもしれない。悪魔、それは暴力を生む可能性と言い換えてもいいだろう。デンジに倣うならば、悪魔の救済は、恐怖によって心を強張らせるのではなく、自らの悲しみと苦しみのなかで他人の悲しみと苦しみに共感することによって成し遂げられる。

 

あなたの共感によって救われた悪魔は、あなたのなかで、ポチタのように、温かく優しい「心」となり、あなたを励まし、支えてくれるのかもしれない。少なくとも、自分ではなく誰かの幸福を心から願う時、私たちのなかにはやわらかく温かい何かが宿るのではないだろうか。それは確固たる善悪の枠組みのなかで、私たちを絶対的な善へと導く一神教的な神とは一見異なっている。しかし、その温かな何かが、膨大な暴力の可能性を消滅することを考えるならば、もはや「神」と呼んでもよい存在なのではないかと私は思う。

★1──チェンソーマンが人々に愛されることによって弱体化すること、それがマキマの狙いであったことも第11巻で入念に描かれている。

★2──「神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は境界を認めない。前者が罪を作り、あがなわせるなら、後者は罪を取り去る。前者が脅迫的なら、後者は衝撃的で、前者が血の匂いがすれば、後者は血の匂いがなく、しかも致命的である。」(W・ベンヤミン『暴力批判論』野村修編訳、岩波文庫、1994、59頁)

★3──虚無としての悪について、新プラトン主義の影響下で論じた神学者がアウグスティヌスである。存在を無化できるチェンソーの悪魔はこの伝統的な悪理解を文字通り具象化した存在に見える。以下はウェブ上の『新カトリック大辞典』からの引用である。

「悪とは、本質本性からの堕落であり、それぞれの規模、形態、秩序から離れる度合いに応じて、その悪性を示し、虚無への傾き、さらに頽廃、背徳、欠落、強奪への傾きである。悪はこうして善の欠如として、善との弁証法的関係において存在しうる。つまり、悪は欠如している善の証人である。もし仮に、善が欠如している実存を完全に無に帰することがありうるならば、そのとき悪は自らも消滅せざるをえない。」(アウグスティヌス『神の国』11.17)

★4──「また、わたしが見ていると、小羊が7つの封印の1つを開いた。すると、4つの生き物の1つが、雷のような声で「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。2そして見ていると、見よ、白い馬が現れ、乗っている者は、弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上に更に勝利を得ようと出て行った。3小羊が第2の封印を開いたとき、第2の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。4すると、火のように赤い別の馬が現れた。その馬に乗っている者には、地上から平和を奪い取って、殺し合いをさせる力が与えられた。また、この者には大きな剣が与えられた。5小羊が第3の封印を開いたとき、第3の生き物が「出て来い」と言うのを、わたしは聞いた。そして見ていると、見よ、黒い馬が現れ、乗っている者は、手に秤を持っていた。6わたしは、4つの生き物の間から出る声のようなものが、こう言うのを聞いた。「小麦は1コイニクスで1デナリオン。大麦は3コイニクスで1デナリオン。オリーブ油とぶどう酒とを損なうな。7小羊が第4の封印を開いたとき、「出て来い」と言う第4の生き物の声を、わたしは聞いた。8そして見ていると、見よ、青白い馬が現れ、乗っている者の名は「死」といい、これに陰府が従っていた。彼らには、地上の4分の1を支配し、剣と飢饉と死をもって、更に地上の野獣で人を滅ぼす権威が与えられた。」(ヨハネの黙示録6:1-8)

culture
2021/06/25
執筆者 |
悠々+柳澤田実
(ゆうゆう+やなぎさわ・たみ)


悠々
大学3年生。趣味は漫画とアニメと民俗学関係の書籍を読むこと。最近とある人気漫画で新たな推しができて浮かれている。

柳澤田実
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。‍

クラウドファンディング
Apathy×elabo
elabo Magazine vol.1
home
about "elabo"