街で対話を生み出すために──ブラジルのグラフィティから考える「個」と「公共」
「グラフィティ」という単語に対して、あなたはどんなイメージを持っているだろうか。1980年代にニューヨークでHIP HOPとともに花開いたアートフォーム、不良同士の縄張り争い、公共物を破壊する違法行為、はたまた近年話題のバンクシーか。
「場所へのリスペクトは必要。それぞれに法やルールがあるから。」
identity
2021/07/02
執筆者 |
阿部航太
(あべ・こうた)

1986年埼玉県出身、東京都在住。2009年ロンドン芸術大学卒業後、廣村デザイン事務所入社。2018年に独立し、「デザイン・文化人類学」を指針に活動をはじめる。2018年10月から半年間ブラジルに滞在。現地のストリートカルチャーに関する複数のプロジェクトを行い、2019年にはグラフィティライターを追ったドキュメンタリー映画『グラフィテイロス』を発表する。帰国後、阿部航太事務所を開設。ストリートイノベーションチーム「Trash Talk Club」、本のインディーレーベル「Kite」所属。abekota.com

「グラフィティ」という単語に対して、あなたはどんなイメージを持っているだろうか。1980年代にニューヨークでHIP HOPとともに花開いたアートフォーム、不良同士の縄張り争い、公共物を破壊する違法行為、はたまた近年話題のバンクシーか。正直に言うと、以前の私が持っていたイメージはこんな程度だ。そんな私は、2018年ブラジルにてグラフィティに出会い直すことになる。地球の裏側で出会ったその表現行為は、自分が従来持っていた「個」と「公共」の概念に別の視点を与え、日本の街に対して漠然と感じていた“窮屈さ”を深掘るきっかけを与えてくれた。

街中を“彩る”グラフィティ(サン・パウロ) 撮影=筆者


ブラジルの都市部、とくにサン・パウロ中心部はグラフィティに彩られている。モダニズム建築の特徴であるフラットな壁面は、1980年代後半からグラフィテイロ(グラフィティ・アーティストに対するブラジルでの呼称)たちにとって格好のキャンバスとなってきた。また、北米での起源とも共通する社会格差の存在が、ブラジルでのグラフィティのムーブメントを大いに盛り上げていく。そのような流れで、ストリートから始まったイリーガルな表現は、現在ではブラジル、サン・パウロを代表するひとつの「文化」としてみなされるまでに発展していった。


とはいえ、現在のブラジルでも無許可のグラフィティは違法であり、その条件は日本とも変わらない。ただし、ひとつの大きな違いは、依頼・認可が前提でありギャランティーが発生する、プロジェットと呼ばれるグラフィティ(プロジェットをグラフィティのくくりに入れるかは議論が分かれるところ)が盛んであることだ。その盛り上がりの背景にはひとつの興味深い行政の政策がある。

廃止されたビルボード広告の跡(サン・パウロ) 撮影=筆者

サン・パウロは1960年代の高度経済成長期から、広告物のサイズ規制を一切設けず、結果としてビルの一面全体を使った巨大なビルボード広告が街中のいたるところに掲示されるようになってしまう。その広告物の氾濫は長らくそのまま放置されてきたが、ついに2006年に施行された条例「 Lei Cidade Limpa(clean city law)」により大型の屋外広告は一斉に廃止・掲示禁止となる。およそ15,000のビルボード広告が1年のうちに姿を消し、掲示していた窓も凹凸もないフラットな壁だけが街に残ることとなった。

じつは近年、その“余白”にグラフィティが入り始めている。ビルのオーナーの依頼や、行政の文化プログラムとしてグラフィテイロに発注され、「個」の作品が街の風景をつくりあげていく。景観美化を目的として広告を廃止し、代わりに“認可のグラフィティ”であるプロジェットがその場所を上書きしていく。ここで、どうしても思い出してしまうのは、自分が暮らす東京の街並みだ。床からビルの天辺まで巨大な広告で埋め尽くされている一方で、ささやかなグラフィティは異様なまでの執念により消されていく。どちらも景観の“美化”を目指しているはずが、その手段はそれぞれに正反対である。

大規模なプロジェット 撮影=筆者

ともあれ、ブラジルにおいて、製作者がまとまったギャラを手にすることができるプロジェットは、グラフィティを“仕事”として生計を立てることを可能にし、そのチャンスを掴むために、グラフィテイロたちは日々、自身のプレゼンスを上げることに勤しみ、結果として多くの無許可の作品が街に残されていく。

2018年から2019年にかけての半年間、私はサン・パウロに滞在しながら現地のグラフィテイロたちを追ったドキュメンタリー映画を製作した。自分が生活してきた街とは明らかに異なるサン・パウロの街を、彼ら彼女らの視点を通して見てみたいと思ったのだ。なぜ君は「街」で表現するのか? 自身の行為をどのように捉えるのか? なぜ街はその行為を受け入れているのか? そんな質問を5人のグラフィテイロに投げかけながら、彼らの活動の様子を記録したのが映画『グラフィテイロス』である。

映画『グラフィティロス』予告編

2020年11月28日、オンライン配信イベント「浜松・ブラジル オンラインツアー」を、浜松を拠点に活動するメディアプロジェクト・アンテナと共同で開催した。映画『グラフィテイロス』の上映とともに、アフタートークとしてサン・パウロと浜松からゲストを招き、オンラインで2つの地を繋ぐことを試みる。1990年の入国管理法改正以降、楽器メーカー、自動車メーカーの大規模工場で働く人を中心に、多くのブラジルルーツを持つ人々が暮らす浜松において、サン・パウロの街はどのように受け取られるのか、そんな興味から企画されたプログラムであった。


ゲストは、浜松から、市内の新たなコミュニティスペース「みかわや|コトバコ」を運営する一人でもある竹山友陽さんと、アメリカ人のパートナーを持つ“悩める市民”のロビンズ小依さん。サン・パウロからは、ブラジルへ移住して10年になるグラフィテイロの中川敦夫さん(映画にも出演)と、日系ブラジル人でグラフィックデザイナーのCAIO YUZOさん。通訳は浜松在住でブラジルにルーツを持ち、自身も多文化共生を学生世代に伝える「COLORS」という活動を仲間と行っている宮城ユキミさんにお願いをした。ホストはアンテナの主宰であり建築家の辻琢磨さん、そして私が担当した。


ここからは、映画でのグラフィテイロたちの発言を起点にしながら、その応答としてアフタートーク出演者の声を拾い上げ、イベントでの議論を振り返ってみたい。

「浜松・ブラジル オンラインツアー」 メインビジュアル

『それがあると面倒なことが起こるんだよ!お前もわかってるだろ?』

『起こらないって!あんたがそう思ってるだけだろ。』


『どこに描いてもいいのよ!』

『どこでも?』

『ここでもあそこでも、どこでもいいのよ!』


グラフィテイロに対する、周辺住民の2つの反応である。一方では、グラフィティをトラブルを招く迷惑行為と捉え、他方では自身の住む場所を彩る行為として捉えている。国を代表する文化となったとしても、すべての人がグラフィティに溢れる現状を良いものと思っているわけではないし、その行為が違法であることにも変わりはない。では、それはどのような尺度で評価・批判されているのだろうか。


ロビンズ小依

「映画を見て率直に羨ましいと思う部分が多くて、許容されているっていうか。イリガールな表現が市民権を得ていくということは浜松、日本では無いかなって。それが行政から依頼される仕事になるなんて夢のような話で。でも、グラフィティを許容する人、しない人というのは、年齢とか、階級とかの層で分かれているんですかね?」


中川敦夫

「多分そこはあんまり関係なく、人それぞれ考え方が違うから。好きな人は好きだし、嫌いな人は嫌い。でもブラジル人の多くはアートに対しての理解力が高くて、ちゃんと仕事として見てくれるんです。だから結局アーティストたちはそのチャンスをつかむために無許可なものも描くし、プロジェットを発注する側もそういったところでアーティストらを探してたりしますね。」


CAIO YUZO

「ブラジルでも誰もがグラフィティを正しく理解しているわけではないんです。アートとしての表現行為と、ヴァンダリズムの違いを曖昧に理解している人も多い。その中で私自身は、グラフィティは街に介入する権利の行使と捉えています。貧富の差があるなかでの、街の人たちが声を上げる行為だと考えています。」


原則としての違法性と、社会的状況により必要とされているステージ。その2つがせめぎ合う間のグレーゾーンにあるのが、無許可のグラフィティということだろうか。ルールを絶対視しないということになると、そこでは人それぞれに「個人」と「公共」との関係性に対する思想を自然と持つことになるのかもしれない。

「どこに描いてもいいのよ!」と声をかけられた場所。ファベーラと呼ばれる貧困街(ベロ・オリゾンチ) 撮影=筆者


『コミュニケーションなんだ。人々がどうやってその街に在りたいかを伝えるためのね』


ブラジルでは、グラフィティがプレイヤー間に限定されたゲームではなく、その界隈とは関わりのない人々にも開かれた存在であり、あくまでもその場所を行き交う人々へ向けた表現行為となっている。だからこそ、ひとつのグラフィティに対して、それを見た側が肯定的な意見を述べることも、否定的な意見を述べることも、どちらもそこまで特別な行為とはならない。当然なこととして異なる思想が共存している。

ロビンズ

「浜松だけなのか、日本全体がそうなのかわからいないんですけど、公共の場所では対話が許されていない。対話になる事象が起きてはいけない、と感じちゃう。私の娘が近所を泣いて歩いた時があって。そのときは意味があって泣いて歩かせてたんですけど、おまわりさんが連れてきて「泣いている子を一人で歩かせないでください」て言われて。泣いている子に対して「どうしたの?」って問いかけることもこの街は許してくれないんだって思ったりして。だから、グラフィティが描いてあって、それが好きか好きじゃないかとか、そこに描かないでくれとか、なんかそこにもいけない気がします。対話にすらならない。」

中川

「まあ日本は間違っちゃいけないっていう考えがあるから。仕事もそうやし、人生においても。一度失敗した人は白い目で見られる感じもあるし。ブラジルって間違いだらけなんですよ。間違えて学んでいくっていう感じが多いし、間違えても皆が助けてくれるんですよね。もちろん日本でも助けてくれる人はいますけど。ブラジルでは僕が迷ってたりすると、全然知らん人が「どうした?」って声かけてくれたり、てのが普通だから。」

グラフィティのような個の表現が街に存在することは、そこに「対話」が存在していることを示唆している。表現する側もそれを受け取る人の存在を意識しているはずだし、受け取る側もその景色を自分ごととして捉える。そこでのやりとりのなかで衝突もあるだろうけれど……。

製作中の中川さん(サン・パウロ) 撮影=筆者

『いや、その場所へのリスペクトは必要だよ。それぞれに法やルールがあるから。……正しい場所でやらないとね。』

「例えば、日本のようなグラフィティの少ない場所に行ったとして、そこで描きたいと思う?」という質問に対し、ひとりのグラフィテイロはこう答えてくれた。日本はグラフィティにとって“正しい場所”にはならないのだろうか。その是非はともかく、日本とブラジルではあまりにも条件が異なるため、一方の構造を他方に無理やりあてはめようとするのはナンセンスだろう。であるならば、日本の街における、「個人」と「公共」の関わりとはどのように可能になるのだろうか。

YUZO

「初めて日本に来たときに金沢市に滞在したのですが、先ほどまでの議論とはまったく逆にその規律正しさにとても感銘を受けました。また、博物館や美術館などへのアクセスのしやすさにも驚いた。それと、日本は集団のために考え、集団のために行動しますね。一方でブラジルは個人、自分を基準に行動する。結局どちらも良い点悪い点はありますけれど、その違いは感じました。」


辻琢磨

「どっちの国が良いかという話ではない気がしますね。空間的にいうと、ブラジルでは街に壁がたくさんあって外に公共空間が“明らかに”あるから、そこで自分を示すことができる。一方で、日本では壁が少ないってのもあって、外と内がよりグラデーショナルにつながっています。だから内部から外部へ滲み出していくというやり方が、街との連続の仕方なのかなと思います。」


竹山友陽

「ヨーロッパに長くいましたが、みんな喋るの好きだし、パブとか外にいることも好きでしたね。そう考えると日本にはそういう場所は無いかもしれない。僕も浜松に帰ってきて1年くらいですけど、やっぱり行くところは知り合いのお店か、知り合いのオフィスか。パブリックの場所に集まろう、とはなかなかならないですね。あったらいいなと思いますけど、そこに行ったら誰かいるとか。イタリアにはピアッツァと呼ばれる広場があって、とりあえずそこ行こうってなって、知り合いの知り合いとかに会って友達も増えていく。だから、ここ(みかわや|コトバコ)もそんな場所になったらいいなと思っています。半分はお店ですけど、よくわかんない場所なんで。」


「みかわや|コトバコ」。交差点に面し、食堂、製本所、野菜販売などの多様な機能をもつ 撮影=鈴木陽一郎


『存在したかったんだ。その街に存在したかったんだ』


「なぜグラフィティをやり始めたのか?」という質問に対する、ひとりのグラフィテイロの答えだ。自身の存在を証明するため、という回答はある意味で模範的なものではあるが、『その街に』という言葉が加わると、ニュアンスも少し変わってくる。


「自分は建築家として街でプロジェクトを行ったときは、グラフィティを描いたときのような影響力を感じる時ももちろんあるけど、そうした創作行為をしている、していないに関わらず、”自分が街に存在したい”って思ったことはないんじゃないか、と思う。なんか、存在しているように思っちゃっていた気がする。」


この「存在しているように思っちゃっていた」という感覚は、私がブラジルで感じたものとかなり近い。なにより否応なくグラフィティを始めるしかなかったグラフィテイロと自分とを重ねることはできなかった。そこにはまず、政治、経済的な安定がある場所に暮らし、街で声を上げる必要性のないマジョリティとしての立場がある。一方で、マイノリティである要素を抱えている人はどうなのだろうか。


ロビンズ

「アメリカ人の夫は、この街ではいつまで経っても異物としてしか扱われないっていうか。娘たちもルックスがちょっと違うので、異物として扱われているなと感じることはあります。“郷に入っては郷に従え”という言葉もあるけど、浜松ではブラジルの人たちが生活していること、彼らのカルチャーがあることも知られているけど、“ここは日本だから、日本の生活してね”というのがどっかにあって、リスペクトしてないな、というのは感じます。」


多様な出自の人々が暮らすサンパウロであっても、異国にルーツをもつ人々のアイデンティティの揺れは存在するという。


YUZO

「大学を出た後、仲間と会社を一緒に立ち上げましたが、メンバーは皆アジア系です。たまたまではありますが、移民の子孫同士で、共有できることが多かったことは確かです。ブラジル人でも日本人でもない、その中間にいる存在として分かち合えることはありましたね。」


宮城ユキミ

「私も10歳までブラジルにいて、ブラジルにいるのときは日本人として、日本にきたらブラジル人として見られてきました。じゃあ私は結局なんなのか、というのはすごく思って。ブラジルにいる日系の方も同じ思いなのか、と。」


その街での自分の存在を、自身で確認し続けなければならない状態の人もいる。すべてがグラフィティのような極端な表現行為に結びつくわけではないが、どこかにその発露があってしかるべきだ。そして、そのような状態にある人に対して、そうでない人がいかに関心を寄せ、ともに街をつくっていくことができるか。それはきっと「対話になる事象」だろうけれど、そうした状況をポジティブに反転させることもできるのではないか。

黒人をモチーフに描かれたグラフィティ。ブラジルでも未だに人種・民族における差別は存在している (サン・パウロ) 撮影=筆者

イベントでは、ブラジルのグラフィティを起点としながら、街の許容力、ブラジルと日本それぞれの独自性、パブリックスペースの在り方、そしてアイデンティティに関わるトピックまで話は展開した。ゲストの方々の力もあってのことではあるが、この結果自体は驚きではない。ブラジルのグラフィティ自体が持つ複雑さ、豊かさを考えてみれば当然に思うからだ。


私にとって、ブラジルのグラフィティは、自分が日本で持っていた街に対する感覚を異化し、「個」が「公共」をつくる可能性を教えてくれる存在だった。街に出て絵を描くことはできなくても、私たちはまだまだ声を上げ、視線を交換し、新しい街を共につくっていくことができる。そう、ブラジルのグラフィティが”本当はもっともっと「存在」することができるんじゃないか?”と問いかけてくるのだ。

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2021/07/02
執筆者 |
阿部航太
(あべ・こうた)

1986年埼玉県出身、東京都在住。2009年ロンドン芸術大学卒業後、廣村デザイン事務所入社。2018年に独立し、「デザイン・文化人類学」を指針に活動をはじめる。2018年10月から半年間ブラジルに滞在。現地のストリートカルチャーに関する複数のプロジェクトを行い、2019年にはグラフィティライターを追ったドキュメンタリー映画『グラフィテイロス』を発表する。帰国後、阿部航太事務所を開設。ストリートイノベーションチーム「Trash Talk Club」、本のインディーレーベル「Kite」所属。abekota.com

写真 | 街中を“彩る”グラフィティ(サン・パウロ) 撮影=筆者
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