#youth | オリンピックは日本人に何を残すのか(あと20日)──「私たち」の連帯に向けて
7月に突入し、いよいよ東京オリンピックが1年越しに開催されようとしている。国内での感染拡大が懸念され、ワクチンは行き渡らず、国民が未だ多くの我慢を強いられているなかでの開催に対して、非難が絶えない。
日本人には当てはまらない「私─私たち─彼ら」の世界観。
politics
2021/07/05
執筆者 |
真嶋要
(ましま・かなめ)

21歳。スパイスカレーとパンを愛するつぶあん派の大学4年生。食事の時間のために生きている。

7月に突入し、いよいよ東京オリンピックが1年越しに開催されようとしている。国内での感染拡大が懸念され、ワクチンは行き渡らず、国民が未だ多くの我慢を強いられているなかでの開催に対して、非難が絶えない。濃厚接触者に指定された選手を競技に参加させる方向で調整が進んだり会場内での酒類の販売が一度許可されそうになったうえでバッシングを受けて中止になったりと、「安心安全な大会」とは言いがたい数々のニュースに、不信感を募らせる国民も少なくないだろう。それでも、「決まったことは仕方ない」とばかりに、日本政府、IOC、JOCは開催一筋で突き進んでいる。筆者の周囲の若者はもはやオリンピックについて話題にもしていない。今や東京五輪は、関係者たちの「とにかく開催しなければならない」という想いのみによって開催に向かっているようにさえ見える。

オリンピック開会式まであと20日を切った。

日本人が経験しているこの惨状に、唯一希望を見出すとすれば、コロナ禍でのオリンピック開催という特殊な事情によって、従来から存在していた日本政府やIOCの不健全な体質がほとんど強制的に認知されたことかもしれない。大会責任者による女性蔑視発言から次々に顕になる商業主義などは、多くの日本人が無関心に放置してきた社会の意思決定層がどのような人間たちなのかを明らかにした。さらに日本人は、現在権力を握る為政者たちが、自分たちの意向や不安を、まったく意に介さないことを知った。所属しているにもかかわらず無視されているという、ある意味では非常にネガティブな方法によって、自分たちが「日本国民」であることを意識させられた者も少なくないと思う。

 

心理学者のジョシュア・グリーンによれば、人間には、「私―私たち」との関係と、「私たち―彼ら」の関係がある。前者は集団の内部での関係を指し、後者は集団同士の関係を指す。人間は、「私たち」を「私」に優先させる、つまり協力するための能力を進化させてきた。自己ではなく、集団にとっての利益を考慮する利他性は、道徳や規範によって実現できるようになったのであり、これも進化のプロセスの一部だったのである。他方で、近代国家が形成され、グローバル化が進む近現代では、異なる道徳を持った他集団同士、すなわち「私たち」と「彼ら」の間での争いが絶えないとグリーンは論じている★1。

ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ──共存の道徳哲学へ』

グリーンの議論には説得力があるが、この「私―私たち」「私たち―彼ら」という枠組みは、現在の日本人の世界観には当てはまらないように思われる。今日の日本人が日々生きている世界には、「私」と、ごく親しい範囲での(たとえば阿部謹也が言うような)「世間」はあるのかもしれない。しかし、「日本社会」あるいは「日本国民」としての「私たち」という単位は存在しないというのが筆者の実感だ。「私たち」という単位が存在しない日本人の世界観において、「私」と狭小の「世間」以外のほとんどを占めているのは、膨大な数の「彼ら」である。

国家権力と国民の関係において、国民は権力を監視し、権力の暴走を抑止しなければならないはずだ。そのためには、言うまでもなく、国民としての「私たち」の連帯は欠かせない。しかし、先にも述べたように、現状では、多くの日本人の世界観では、ただ空間的に同じ国土に身を置くだけの「私」と「彼ら」しか存在していないように思われる。そもそも日本人は何を根拠に「私たち」という連帯意識を持てばいいのだろうか。市民革命や独立を勝ち取るという歴史的経験を持たず、宗教も共有されていない日本で、このテーマは未だに、しかもますます深刻な課題になっているように感じる。

 

冒頭にも述べたように、オリンピックを契機に、日本人は、自分が日本という国に生きる者であることを半強制的に認識させられたように思う。言い換えるならば、コロナ禍で、自分たちの健康や生命を脅かされることによって、自国でのオリンピック開催をようやく「自分に関係のあること」として考えられるようになった。そして自国の為政者に全く配慮されないという経験によって、ある意味ではその失望から、逆説的に自分自身を、「日本という国の運営に意見できる国民の一員」として発見したのではないだろうか。「私たち」の実感に乏しい日本人にとって、これらの経験はある意味で貴重だったはずだ。昨日7月4日の都議会選挙では、日本が置かれている惨状に対する異議申し立てが、幾つかのポイントでは見られたと思う。同時に42.39%という低い投票率が、「私たち」感覚の希薄さに由来することも否定できない。選挙への投票をはじめ、日本人が「私たち」としての経験を積み重ねる機会を大切にしていきたい。仕立て上げられたオリンピックによって、このコロナ禍で芽生えた「私たち」が、「終わり良ければ総て良し」でかき消されないことを切に願っている。

★1――ジョシュア・グリーン『モラル・トライブズ──共存の道徳哲学へ』(竹田円訳、岩波出版、2015)

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2021/07/05
執筆者 |
真嶋要
(ましま・かなめ)

21歳。スパイスカレーとパンを愛するつぶあん派の大学4年生。食事の時間のために生きている。

写真 | 森岡忠哉
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