『僕のヒーローアカデミア』に見る、不平等な世界で生きるということ
主人公の出久だけでなく、ナンバーワン・ヒーローであり平和の象徴とまで呼ばれたオールマイトさえ、かつては無個性だった。それどころか、じつは彼らの「個性」であるワン・フォー・オールは、無個性の者が引き継ぐことではじめて真価を発揮するものであるのだ。
この世は不平等だが、正しいことが報われない世界ではない。
culture
2021/08/30
執筆者 |
真嶋要
(ましま・かなめ)

21歳。スパイスカレーとパンを愛するつぶあん派の大学4年生。食事の時間のために生きている。

堀越耕平『僕のヒーローアカデミア』(2014~、以下『ヒロアカ』)は、アメコミからの影響を色濃く受けた印象的な画風と、ジャンプ漫画らしい王道の展開がマッチし、国内外のさまざまな読者から支持されている。現在映画も上映されている本作は、「個性」と呼ばれる超能力のような力を人口の8割もが生まれながらにして持っているという世界で、無個性で生まれた中学生の少年・緑谷出久(みどりや・いずく)が、あるきっかけから憧れのヒーロー「オールマイト」に個性を授けられ、ヒーローを目指すという物語である。

『ヒロアカ』世界の仕組み

『ヒロアカ』は、上述のように冴えない「ヒーローオタク」の少年が、ひょんなことから力を手に入れヒーローになる「王道」の物語だ。この世界では、「個性」を使って罪を犯す敵(ヴィラン)に対抗し、平和と秩序を守る存在であるヒーローが公的な仕事として認められている。本作序盤では、出久が憧れの「雄英高校ヒーロー科」に進学して仲間と出会いながら楽しい高校生活を送るが、次第に「個性」社会の闇が生んださまざまな敵との戦いに巻き込まれていくことで話が展開していく。

作中の世界では、個性の影響で頭部のビジュアルが犬やカラスそのものであったり、肌が紫色であったりと、多様な外見・性質のキャラクターたちがごく当たり前に共存している。「個性」の存在によって「皆が違う存在である」ということが可視化され成立した多様性社会のお手本のようにも思える。しかし、実情はそうではない。かつて、「個性」をもつ人間がマイノリティであった時代には、超常としか言いようのない力に大衆が恐怖を覚え、差別したという歴史がある。作中における社会が個性を受け入れたのは、ただ時代を経て個性を持つ者・多様である者がマジョリティになったからにすぎない。『ヒロアカ』の世界は、あくまでそれを支持する多数派の民意によって「個性」という「力」を中心に回っているという残酷さがある。このような「差別から搾取へ」という構造は、アメコミ作品にも見られるテーマであり、この作品ではそれが「個性」によって表現されている。

「個性社会で生きる」こと

個性という超能力をほとんどの人間が手に入れたことによって、『ヒロアカ』の世界は豊かになった側面もある。一方で、個性をもって悪を征するヒーローの姿とそれを称賛する大衆に象徴される、「個性」の優秀さ・強靭さに大きな価値を認める風潮は根強く、「個性」の有無やその性質の優劣に苦しむ者も少なくない。同世代のなかでは絶滅危惧種ともいわれるほど稀有な「無個性」として生まれた出久は、強い個性を持つ幼馴染からのいじめに遭い、人は生まれながらにして平等ではないことを4歳で悟った。その後、出久が奇跡的な出会いの末に「個性」を得たのは、彼自身の勇気や自己犠牲の精神が認められた結果であり、彼の「個性」にまつわるすべてが幸運によるものというわけではない。しかし、オールマイトとの偶然の出会いにおいて出久はたしかに例外的な存在であり、多くの「無個性の人間」や「弱い個性の人間」は彼と同じスタートラインにすら立てない。

「強い男になりたかったんや…強い人らとおれば強くなれるから」

「その気持ちはわかるけどよ…」

「ヒーローになれる奴が軽率にわかるとか言わんといてや」

これは、出久の同級生・切島が、プロヒーローのもとでインターン活動を行っている際に、街で捕らえた敵と交わしたやり取りだ。この敵は、取るに足らないただのチンピラであり、作品の展開に大きな影響を与えるようなキャラクターではないが、この言葉には、「個性の強さ」に大きな価値が認められる世界のなかで「生まれつき強者ではなかった者」の苦しみが端的に表現されている。「強くなる努力」は誰にでもできるが、スタートラインの位置、すなわち個性の有無や強さによって、必要になる努力の程度や、現実として達成できることは大きく変わる。個性が原則として遺伝性のものであり、なおかつ一部の例外を除いて生まれつき決まっている要素であるからこそ、『ヒロアカ』において、この問題は折に触れて登場する。

普通でありたい

問題は力の優劣だけではない。個性そのものは強大でも、その性質が周囲に受け入れられない者もいる。出久と同年代の敵・トガヒミコは、対象の血を摂取することでその相手に変身できるという個性を持っている。個性から生じる血への強い関心と、それを周囲に受け入れてもらえない抑圧と葛藤の末に、彼女はかつての想い人を切りつけ敵の道に足を踏み入れた。敵になった彼女は、「トガの世界には他者がいない」と表現されるほど自己中心的で、「自分が好きかどうか」を唯一の基準に、人を殺めたり見逃したりする。自身の「快」に従って生きる現在の彼女は幸福そうだが、「なぜ普通の暮らしを捨てて狂気に至ったのか」と問われた折には、「『普通の暮らし』って何ですか?」「私も『普通』に生きるのです」と答えた。彼女は、まだ社会のなかで生きていた頃は、懸命に「普通の女の子」であろうとしていたのだ。猟奇的な衝動を引き起こす個性に恐怖した周囲から人一倍「普通」を求められてきたからこそ、本当の自分と周囲の「普通」との乖離を自覚せざるをえなくなり、彼女は社会ではなく自分自身にとっての「普通」のなかに引きこもることになった。

トガは、敵のなかでも多くの読者からの人気を得ている。敵としては珍しい、かわいらしい容姿や、登場回数の多さなども影響しているだろうが、彼女の内面を踏まえてその理由を考えるならば、作中で描かれる彼女の「普通」に対する葛藤と答えが、読者の胸を打つからかもしれない。社会は多様化して、どんなふうに生きてもいいと言われているから、私たちは「じゃあ何が自分を一番幸せにしてくれるのか?」という問いから逃れられない。そこに慎重になるからこそ、かつて多くの人にとって最適解であった「普通」の暮らしはやはり存在感がある。そこにままならない気持ちを少なからず感じているから、自らにとっての「普通」を選び取って「私も『普通』に生きる」と断言するトガがまばゆく映るのではないか。

生まれつき不平等な世界で

「個性」が存在しない現実世界でも、人は生まれながらにして平等ではない。性別、身体的特徴、家庭の経済状況、生まれた地域、障がいや病気の有無など、人生には当人の意思と関係なく決まる要素がたくさんあり、生まれたての赤ん坊ですらその在りようは千差万別だ。どんな人でも、より良く、好きに生きるための努力はできるが、前述のような要素によって、努力のスタートラインは異なるし、それによって生まれる生きづらさは確かにある。そんな当たり前の事実を、『ヒロアカ』は「個性」という設定を通じて可視化し私たちに伝えている。

一方で、『ヒロアカ』の伝えるメッセージは、この世は不平等で窮屈だということだけではない。主人公の出久だけでなく、ナンバーワン・ヒーローであり平和の象徴とまで呼ばれたオールマイトさえ、かつては無個性だった。それどころか、じつは彼らの「個性」であるワン・フォー・オールは、無個性の者が引き継ぐことではじめて真価を発揮するものであるのだ。幸運にも個性を手に入れたとはいえ、少なくともスタートラインで大幅に遅れをとったはずの彼らが、努力の末に誰よりも強くなり、弱い人を救う姿は、ひたむきに努力することで報われるというひとつの理想像であり、「持たざる者」にとっての希望でもある。そして、出久は、時に他者から受け入れられず、不平等や理不尽の末に悪に転じた敵まで救おうとする。

この世は不平等だ。けれども、正しいことが報われない世界ではない。コミックのなかのヒーローは、そんなメッセージによって、現実社会にいる読者すらも救っているのだ。

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2021/08/30
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真嶋要
(ましま・かなめ)

21歳。スパイスカレーとパンを愛するつぶあん派の大学4年生。食事の時間のために生きている。

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