私たちのアイデンティティと「戦後責任」──哲学者・高橋哲哉と沖縄、長崎、兵庫のZ世代との対話
戦後76年を迎える日本には、いまだ積み残された数多くの問題が存在する。「責任」とはなにか。私たちは「戦後責任」をどう負うべきか。沖縄降伏調印式が行われた9月7日を前に、哲学者・高橋哲哉氏とZ世代が対話を行いました。
「責任」とはなにか。私たちは「戦後」とどう向き合うべきか。
politics
2021/09/03
座談 |
高橋哲哉、仲本和、國仲杏、藤田裕佳、森本千晴、elabo編集部

高橋哲哉|1956年生まれ。哲学。東京大学名誉教授
仲本和|1999年生まれ。沖縄国際大学総合文化学部
國仲杏|2000年生まれ。国際基督教大学
藤田裕佳|1999年生まれ。長崎大学多文化社会学部
森本千晴|2001年生まれ。琉球大学人文社会学部
眞鍋ヨセフ|1998年生まれ。elabo youth編集長
長井真琴|1999年生まれ。elabo youthライター

長井真琴

elaboでは、戦後76年を迎える日本においていまだ積み残された問題が数多く存在するにもかかわらず、私たち若者の多くがそれらの問題に対して関心を持てないことに危機感を覚え、「戦後責任」をテーマとする座談会を企画しました。今回は、『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005)、『犠牲のシステム──福島・沖縄』(集英社新書、2012)などを書かれた高橋哲哉先生を囲み、平和活動や戦後の諸問題に関わる活動に取り組まれている学生ゲストの方々とともに「犠牲を強いられた地域」にまつわる問題を中心に「戦後責任」について考えたいと思います。

 

この企画を進めるにあたって、沖縄戦に関する講演などをはじめとした活動に取り組まれている仲本和さんにご協力いただき、今回参加して下さる学生参加者の方々へのお声掛けや事前ミーティングを行いました。本日の座談会を前に一度、仲本さんから沖縄戦の概要や現在問題となっていることについて、共有していただきたいと思います。よろしくお願いします。

 

今も終わっていない沖縄戦

 

仲本和

よろしくお願いします。この座談会に参加されている皆さんは、沖縄戦に関する知識はすでに持っていると思うんですけれども、この記事の読者の皆さんにも知っていただきたいので、簡単に説明させていただきます。

 

1945年の3月26日に、慶良間列島に米軍が上陸し、その後4月1日に読谷村に米軍が上陸してくる。この上陸は「無血上陸」と言われていて、米軍が上陸の際にひとりも死ななかったと伝えられています。これには、当時の沖縄戦における日本軍の目的が関わっていて、「米軍の上陸を日本軍が知らず、応戦できなかった」のではなく、読谷村からの上陸を知ったうえであえて攻撃せずに上陸させてしまったんです。日本軍の目的は本土決戦を遅らせることであり、いかに沖縄で長期戦ができるかというところにかかっていた。このようなことから「沖縄は捨て石だった」と言われています。

 

読谷村には「チビチリガマ」と「シムクガマ」という2つのガマ(自然壕、洞窟)がありました。「米軍に捕まると男は戦車で轢かれてバラバラにされて、女は乱暴されて殺される」という皇民化教育の考えが根付いていたため、「チビチリガマ」では「自分たちで死んだほうが楽に死ねる」と考えて140人中83人が集団自決、強制死していきました。それに対して、「シムクガマ」には、ハワイに移民として行っていた60代と70代の男性がいて、「米軍は、住民みんなを助けてくれる」ということをガマのなかで伝えて自決を止めました。彼らが沖縄で受けていた皇民化教育を全否定することで、ガマに逃げていた1,000人前後の住民が助かったんですね。同じ読谷村にある2つのガマでもこれだけの差が生まれることから、教育の怖さや皇民化教育の代償の大きさがわかると自分は感じています。ここで述べた集団自決による死や家族、友人同士で殺し合うことになり亡くなった方たちは、自ら命を絶っているが、全て「国よって殺された命」だと言えると思います。「沖縄戦による住民の犠牲は亡くなった命ではなく、殺された命です」

 

沖縄戦では、首里城の敷地内の地下に旧日本軍司令部壕を置いていて、そこが中心となりました。5月末に「南部撤退」の命令がここから出されて、住民はすでに糸満市摩文仁に避難していたにもかかわらず、沖縄戦のトップであった牛島満中将は、それをわかったうえで南部への軍隊撤退を命令しました。この命令によって、沖縄の中部に位置する読谷村から南部の住民がいるところに軍が入っていって「軍民混在」の状態になりました。5月30日時点ですでに日本側に多くの死者が出ており、敗北が確実であったにもかかわらず、「長期戦」というのが沖縄戦の目的であったために、南部に撤退させて戦争を長引かせました。現在沖縄県の「慰霊の日」になっている6月23日の前日、あるいは前々日に牛島中将は自決したと言われていますが、彼とともに、沖縄戦自体を取り仕切っていたナンバー2も自決しています。この日を境に、牛島中将の最後の命令である「最後の一人まで戦い抜け」という言葉のもと、降参せずに戦争が長引くことになりました。8月15日の本土の終戦日には、自決したトップの2人に加えてナンバー3も沖縄から逃げていたために、玉音放送の情報をキャッチできる人がおらず、住民は戦争が終わったことを知らない状態が続きました。正式に降伏調印式が行われたのは9月7日です。

 

今回、座談会のお話をいただいた時にも、8月15日の終戦に向けてとのことでしたが、自分のなかでは8月15日は終戦日ではないという意識があり、76年経っても日本全土ではこの日にだけ終戦の式典や報道が行われているという現状にも納得がいっていません。そういう意味でも今なお沖縄が見捨てられていると感じているということを皆さんに伝えました。そもそも、本土決戦を遅らせるために行われていた沖縄戦なのに、8月15日の終戦を知らずに無駄に1カ月間犠牲者を出した。本当に「捨て石」だったんだなと思っています。1952年の日本の主権回復でも沖縄は除外され、その20年後、戦後27年経ってやっと本土復帰が叶ったのです。

 

戦後、住民が期待していたのは「基地負担の軽減」で、沖縄はアメリカに主権を握られているから58%もの基地があると思っていた。だから、本土に復帰することで基地負担が平等になって全国で背負ってもらえると考え、本土復帰を目指し、72年に叶ったのです。しかしその後、基地が押し付けられ続け、戦後76年経った今も70.4%の米軍専用施設が沖縄にあります。自分が通う沖縄国際大学にも2004年に軍用機が墜落している。戦後これだけの時間が経ってもまだ上空からヘリが降ってくる。この状況で本当に戦争が終わったと言えるのだろうかと思います。

 

現在自分が取り組んでいるのは、南部の遺骨土砂問題です。先程言ったように、南部は沖縄戦において一番の激戦地で、住民がたくさん犠牲になり、集団自決も行われた場所です。その場所の土砂が、辺野古の基地建設のための土砂として、モノとして、いま扱われようとしている。76年経った今も遺骨を待っている人々がいます。この土砂問題に対して、沖縄ではたくさん声が上がるようになっていますが、中心となっているのは体験者やその遺族です。自分たち20代、30代は関心が薄く、一緒に声を上げない。その意味でも、戦争が過去の出来事として語られることに対して「まずいんじゃないか」と感じています。沖縄でも戦争体験者が10%を切っていて、「沖縄戦の風化」「戦争の風化」を止めよう、記憶を継承しようと言われているけれども、「風化」「継承」にこだわりすぎてしまうことが余計に戦争を「過去のもの」にしてしまうんじゃないかと思っています──広島、長崎の被爆の継承も、やっぱり過去のこととして語られ続けていて、現在の「アメリカの核の傘に入っていてよいのか」「核を所有するべきか」という議論がなかなかできないということにもつながると思います。

 

遺骨収集が76年経ってもできていない現実を前に、やはり日本の現状は、「戦争責任」を果たしきれていないと思います。しかもそこには、自分たち若い世代が、見て見ぬふりして自分たちの生活を優先していることも関係している。自分は、国が果たすのが「戦争責任」で、自分たち戦後世代が果たすのが「戦後責任」だと思っていて、まさに「戦後責任」を果たさないといけない。これまで、沖縄戦学習は体験者が行ってくれていましたが、そのなかでは「被害の継承」が語りのメインとされてきた。戦争は急に起きたのではなくて、それに対して国民が賛同してしまったから起きているものであって、その後に自分たちが被害者になって、体験していない世代に被害だけを語ってしまうと、「何で戦争は起こったのか」「日本に加害性はなかったのか」ということを考える機会がなくなってしまう。でも、こういう考え方を体験者に話すと怒られたりもします。「私たちは被害を受けた。加害性はあったにしろ、そこをメインにはできない」とおっしゃる方もたくさんいて、ただ、自分は沖縄戦や基地問題を伝える側として、自分が戦争を体験していないからこそ戦争自体を客観的に見て加害性や被害性を同時に伝えなきゃいけないなと思っているのです。

 

自分の講義の受講者との議論を通じて、現在の子どもたちも、自分たちを守るために軍事的な抑止力を肯定してしまっていることに気づかされました。結局、守るための戦いと言われて、戦争に突入してしまった戦前と同じ構図なのではないか。こうした構図に陥らないため、戦争を繰り返さないためには、戦前に何が起こったのかを知る必要がある。本土の空襲みたいな被害だけを語ってしまうと、「どのように戦争が繰り返されるか」がやっぱりわからない。若い世代が無意識に抑止力を肯定してしまっていることを考えると、平和学習でいま行われている被害の継承だけじゃまずいなって思っています。

 

長井

仲本さん、ありがとうございます。私たちelaboメンバーでも、最初に仲本さんとお会いした時に、沖縄戦やその後の諸問題における認識に、沖縄と本土の間で大きな溝があるということを教えていただき、それを踏まえて、本土における一般的な終戦記念日ではなく、沖縄戦が公式に終結したと言われる9月7日近くにこの座談会の記事の公開日を設定したという背景があります。

 

また、今回の座談会を行うにあたって、高橋先生の論稿と『犠牲のシステム──福島・沖縄』を学生参加者で共有させていただきました。議論を始めるにあたって、戦後責任についての高橋先生のお考えを確認することから始めてよろしいでしょうか?

 

戦後責任と戦争責任

 

高橋哲哉

仲本さんが指摘している「被害は語られるけれども加害は語られない」という問題はたしかに大きいですね。ただ、最初はどうしても、身近な人が被害を受けたとか、身近な人が議論しているとか、そういうところから入っていって、だんだんと視野が広がっていくということはあると思うんです。だから、入り口は被害のことであっても、まずは戦争の話題を共有して、そこから加害責任の問題にまで迫っていけるかどうかだと思います。

 

「戦争責任」と「戦後責任」の違いについてですが、仲本さんは、まず国が戦争責任を負っていて、それを戦後世代の自分たちがどのように受け止めて戦後責任を果たしていくのかという違いだと言われました。私もそれは言葉の区別としてとても良いと思います。「国の責任」といっても、大日本帝国と戦後の日本国とで国自体が違うんじゃないかという議論がありうるのですが、これは国際法上の「継承国家」「承継国家」の話で、例えばナチスドイツの継承国家は、戦後ドイツが長い間東西に分裂している状況下で、西ドイツがナチスドイツの責任を継承するというスタンスで来ましたし、再統一されてからもドイツ連邦共和国がそういう位置にあるわけです。日本でも、直接の戦争責任を負っていたのは大日本帝国の政府や軍ですが、しかし戦後の日本政府は承継国家・日本国としてやはりそれを引き継いでいるので、まだ果たされていない戦争責任は今でも日本国が負っていると考えられるのですね。政権や首相がいくら変わっても、日本政府がそれを否定することはまずできないだろうと思います。

 

私自身は『戦後責任論』という本も書いていますので、「戦争責任」と「戦後責任」はどう違うのかとよく聞かれます。私としては「戦後責任」に込めた意味は2つあって、そのひとつは、戦争当時の政府や軍だけでなく国民も含めてそれぞれが負っている責任と、当時生まれてもいなかった戦後世代の責任を区別して、戦後世代は旧日本帝国の戦争責任でまだ未決のもの、つまり果たされていないものについては、日本国の主権者としてそれを果たしていく責任がある。つまり、戦争に直接の責任がない戦後世代が、現在、負っている責任として「戦後責任」という言葉を使いたい。

 

それからもうひとつは、沖縄の問題でもそうなんですけれども、「戦争責任」というと、例えば太平洋戦争だけに限るという人もいるかもしれないし、先日の全国戦没者追悼式を含め毎年首相が「先の大戦」と言うわけですが、日本政府が言う「先の大戦」というのは1937年の日中戦争(当時の「支那事変」)以降のことなんですね。「1937年から45年まで、軍民併せて日本では310万人の犠牲者が出ました」ということを言うんですけれど、いずれにしても、日本の場合は1945年の敗戦と同時に朝鮮や台湾、その他の植民地が解放されたわけです。しかし例えばヨーロッパではそうではない。イギリスやフランスやオランダ、その他の旧ヨーロッパ列強は第二次大戦が終わっても植民地を所有していました。第二次大戦以降にそういう植民地が独立するための独立戦争などがあって独立する。日本の場合は、1945年で、沖縄はちょっと特殊なケースになりますけども、植民地が解放される。それゆえ、「戦争責任」といったときに、植民地問題が戦争の問題の陰に隠れてしまって、「植民地支配の責任」という観点がどうしても抜けがちになっていたんです。

 

戦争は武力行使なので、加害も被害も「戦闘」の結果、「殺し合い」の結果なわけです。それに対して、植民地支配というと、なんとなく日常のイメージがあるわけですね。長い間続いていて、戦闘がなくても植民地支配が続いているというイメージ。ですから、どうしても「植民地支配の責任」という問題が「戦争責任」という言葉では捉えきれない。「先の大戦」を1931年の満州事変にまでさかのぼっても、もう31年の段階では朝鮮、台湾、その他に対して日本が植民地支配をしていた。しかし、植民地を獲得するには戦争があり、軍事力の行使があって、植民地を維持するためにも軍事力が「日常」の背後にある。多くの犠牲を押し付けながらやってきたわけです。

 

沖縄の場合もご存知の通り、明治新政府がやはり軍事力を背景にして琉球王国を廃して沖縄県を設置しました。日本の場合は敗戦によって植民地が解放されたので、私が「戦後責任」というときには、戦後日本人はそれまでの植民地支配の責任も同時に負っているという意味で、「戦争責任」とは区別して使ってきたんですね。ですので、じつは「戦後責任」のなかには、少なくとも明治の初めから敗戦までの期間の、大日本帝国が行ってきた侵略や植民地支配、そして戦争のすべての責任が含まれる。私はそんなふうに理解してきたんです。

 

他者に応答する責任としての「応答責任(Responsibility)」

 

高橋

「応答責任」という言葉について言いますと、「応答責任」というのは時間も場所もある意味で関係ないんです。それから国籍とか民族の区別とか、そういうものも関係なくて、とにかく呼びかけを聞いてしまったら応答するかしないか、応答するならどのように応答するか、それが問われることになる、と考えるわけです。それはもう、赤ちゃんが泣いているのを聞いて、どうしようどうしよう、となるのと本質的には同じです。もちろん私たちは毎日無数の呼びかけを聞くので、それに全部応答するなんてできっこありません。人間は有限な存在ですから。例えば昨日から今日にかけてであれば、アフガニスタンを脱出しようとする人たちの「助けてくれ」という声が聞こえてくるわけですね。メディアを通して日本にも世界にも。ですが、私たちはそれに胸を痛めながらも直接具体的には何もすることができないので、やり過ごしてしまっている。それはやむをえないことで、やり過ごしたからといって罰せられることはないわけです。「応答責任」というのは、そういう意味で普遍的な次元をもっている。

 

沖縄の基地問題にせよ、戦争の問題にせよ、沖縄の人でなくても、日本人でなくても、どの国の人でもそれに取り組むことは可能ですし、なんら問題はないわけですね。逆に、例えば仲本さんが沖縄の問題だけじゃなくてアフリカの問題とか、中東の問題とか、そういうところにコミットしてももちろん構わないわけです。そこにはまったく境界はないと私は考えます。もちろん、事実上の制約はあります。日本語のできない人はなかなか日本の問題に深くは関われないでしょうし、辺野古新基地の工事を阻止する行動に参加したいと思っても、時間やお金の事情でなかなか本土から沖縄に行けないとか、そういう制約はもちろんあるんですけれど、本質的な境界はないと。これはとても重要なことだと私は思っています。逆に言えば、私たちは、どの問題に取り組むかを自分で選択しているわけです。その選択についてもじつは責任が問われてきます。

 

どの問題に取り組むかの選択について、考慮すべき観点として私が考えているのは、「日本国民としての責任」と「歴史的な意味での、エスニックなルーツに関わる責任」という観点です。これは国籍とかエスニックなアイデンティティとか、そういう区別・境界を否定できないところから出てくる責任です。例えば日本国内の問題について言うと、応答責任のレベルでは国籍や民族に関係なく誰でもそれに関与できるのですが、しかし日本政府を直接動かせるのは参政権を持っている主権者としての日本人なので、その分、日本国民の責任はやはり重いと私は考えるんですね。そして、これは問題にもよりますが、日本国民のなかでも、例えば沖縄の基地問題であれば、所謂「うちなーんちゅ」と「やまとんちゅ」とではそれぞれのルーツの違いからして、歴史的な責任の違いというのはあると思うんです。

 

戦争責任の引き受け方──ドイツと日本

 

長井

高橋先生、ありがとうございました。それでは、ここから本格的に座談を始めていきたいと思います。今回の参加者の皆さんはいろいろな地域にルーツがある方々がいらっしゃいます。自身のルーツのと向き合いながら戦後の問題に関わっている皆さんの、「自分がどのような立場から戦後責任を果たす・語るのか」という問題に関するお考えを伺いたいと思います。

 

藤田裕佳

私は長崎の大学生として、平和運動に携わっています。高橋先生の「戦後責任」というというお話に関して、私からシェアさせていただきたいことがあります。継承国が「戦後責任」を解決していくということに加えて「知って伝える責任」があると思います。そう考えたきっかけは、私自身が高校時代に留学していたドイツでの経験にあります。ドイツは「記憶し伝える責任」をすごく果たしている国だなと思ったのです。日本だと、日本史の授業では3年間で何千年という歴史を学ぶじゃないですか。しかしドイツでは、ドイツのポーランド侵攻から、特に第二次世界大戦、なかでもナチスのユダヤ人差別・虐殺、敗戦を経てベルリンの壁が崩壊するまでという半世紀の出来事をひたすら勉強するんですよね。しかも、座学ではなくて、学生が中心になって本で調べたり現地に行ったりして、みんなでシェアするかたちで進んでいきます。これは、学生自身が「自分がこのことを知って伝えなきゃいけないんだ」ということを自覚させることができる方法だと思っていて、日本を見下げたいわけではないですが、日本もそういう教育を取り入れたらいいのになと思ったことがありました。そういった意味で、私自身も、平和活動を通して、今回であればelaboの読者の皆さんや、戦争に関心がない人々にも伝える責任を果たしていかないといけないなと思っています。

 

高橋

ドイツと日本の違いはずっと言われてきたことですが、なかには「ドイツのやった戦争と日本のやった戦争は違うんだから比較しても意味はない」という議論もあります。もちろん違いはあります。ただ、当時同盟国として連合国と最後まで戦争をしたことは同じですし、敗戦後、戦争責任が問われてきたという点では最も近い位置にあるわけです。私が見る限り、1970年代からドイツ(ドイツ連邦共和国、当時は「西ドイツ」)は変わってきて、80年代には、皆さんご存知のようにリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー大統領の演説などに見られるように、国としてのスタンスを確立しました。それ以降今日に至るまで、もちろん論争はありますし、極右勢力も出てきてはいますけれど、政府や国のスタンスは政権が変わっても基本的に変わらない。ナチスドイツの罪を直視して反省的な態度をとるという立場を確立してきているんですね。ですから、そこは相当違うと私は思っています。詳しく話すには時間が足りませんが、例えばいま藤田さんがおっしゃった「伝える責任」に関しては、ドイツの全国至る場所に「記憶の場所」があって、ここからユダヤ人がいつ何人強制収容所に送られたとか、その種のプレートが掲示してあるのです。首都ベルリン市内にもそうした場所がたくさんあります。「記憶の政治」と言われるこのようなものが日本にはない。「政治」の違いは非常に大きいと思います。

 

日本の場合、戦後最長だった安倍晋三政権を見ると、安倍首相やそのもとに集まっていた人たちの考え方は、1990年代の日本の政権に比べても「責任意識」という点では明らかに後退したんですね。90年代には、戦後50年の村山富市首相談話に象徴されるように、「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた」とはっきり加害責任を認め、それ以来、毎年8月15日の全国戦没者追悼式の首相の式辞にも、加害責任を認める言葉が入っていました。ところが、第二次安倍政権からそれがなくなってしまった。これは象徴的です。

 

日本の政治は1980年代までいわゆる保守政権で、「できれば戦前を否定したくない」というスタンスの政治が続いてきて、90年代に少し変わるかなと思われたところが、安倍政権でまた後退してしまったというのが私の認識です。そういう状況ですから、現代史の授業で戦争のことを詳しく教えるとか、加害の問題を掘り下げるとかいうことは、およそ今は想像しにくい状況なんですね。受験の世界史・日本史のあり方にも関わってきますので、いろいろなところに波及する問題ですが、やはり政治の影響が非常に大きいと私は思います。

 

あともう一点、「伝える責任」に関して、日本でも市民社会全体を見れば、さまざまな人々が粘り強くその努力を続けているという事実があります。誰もが責任感を持って社会に、また次の世代に伝えていけたらいいなと思うんですけれど、なかなか誰もがそうはならないので、藤田さんのように平和活動を始めた人が、そうでない人に対して、それを促すような活動をしておられるんだろうなと思います。その意味で、記憶の責任とか伝える責任とかは本来、誰もがもっているものだと思うんです。

 

加害性に注目する20代

 

長井

ありがとうございます。藤田さんがお話されていたように、ドイツでは記憶を伝えることに注力して、意識的に国家でそれを行ってきた背景があった一方で、日本では政治の問題がさまざまありながら、「記憶を伝える」ということよりもむしろ加害の部分を覆い隠すようなことが行われてきたという事実は皆さんと共有できるのかなと思います。日本側の加害性が覆い隠されてきたという事実に関して、仲本さんはどう思われますか。

 

仲本

先ほど話したように、沖縄戦に関する教育では、当時の日本軍から住民が受けた被害、米軍から住民が受けた被害がメインになっています。「軍隊が住民を守らなかった」という言葉は沖縄県民に浸透しています。でも、去年のゼミで「不可視化されてきた沖縄戦」というテーマで調査してわかったのですが、沖縄戦で連行された「朝鮮人」がたしかにいたはずなのに、証言が少ない。慰安所もあったのに、無意識に語ろうとしなかったのか、当時の住民すら朝鮮人の方々を不可視化してしまったのか。この学習を通じ、自分たちがこれまで習ってきた理解では、沖縄戦における力関係では一番下に沖縄の住民がいると思っていたけれど、そうではないのかもしれない。自分たちは体験してないからこそ、客観的に、もっと広く見た沖縄戦や戦争を語れるんじゃないかと考えています。加害性や見えなくされてきたものを掘り起こして伝えていくことが自分の周囲の先生方のなかでも共有されている一方で、体験者による語りが沖縄戦学習のメインになっていることが、加害について考えるうえでは難しい部分にもなっています。体験者の語りは間違いなく重要なことですが、やっぱり自分たち若い世代が戦争について伝えるうえでは、加害性を含めていくべきではないかなと思っています。

 

戦争の記憶がまったくない20代は、なぜ戦後責任を継承したいのか?

 

elabo編集部

日本は、高橋先生がおっしゃる通り、90年代に一度戦争責任に関する認識に進歩があったのに、2000年代以降、安倍政権によって積極的に隠蔽する流れができてしまった。しかし同時に、今この座談会に参加している皆さんが2000年前後生まれで、ほとんどが安倍政権下で生きてきたことを思うと、逆に記憶が途絶えたところで「戦後責任」に「客観的に」取り組みたい若者が出現したようにも思われます。つまり経験や記憶にこだわらないでいられるからこそ得られる客観的な視点によって、加害者性という問題が浮かび上がってきたようにも見えます。皆さん方にぜひ聞きたいのが、戦争そのものや戦後日本に対しての肌感覚的な記憶がないところで、なぜそれを継承していくという動機を持ったのでしょうか?

 

仲本

沖縄では5年に1回くらい、県が中高生を対象に「沖縄戦の記憶を継承すべきか」ということをアンケートで聞いていて、「継承すべき」という意見が年々増加しているんです。体験者の減少とともにみんな危機感を抱いている。語れる人がいなくなることに対して危機感を持っているからこそ、自分たちが継承しなきゃという感覚を持っていて、とてもよいことだと思っています。でも、そういう統計が取れているにもかかわらず、土砂問題などについての危機感が持てないというのは矛盾しているなと個人的には思っていますが、まあとにかく、当時の被害は継承しなきゃいけないという感覚はみんな持っていますね。

 

elabo編集部

「Choose Life Project」の「やっぱり社会は変わらない?絶望しないための公開会議」(2021年8月17日)で高橋先生がお話しなさっていた、靖国神社にたくさんの若い人が参拝に行っているという問題も、今のお話と関係している気がします。靖国神社がどういう施設なのかわからずに、しかし美しい追悼願望だけはあって行ってしまうというこのちぐはぐさが、いま仲本さんがおっしゃったような「継承は大事。でも土砂には関心ない」みたいな状況と重なるのではないかなと思いました。

 

仲本

沖縄県でも、去年6月23日の式典を「靖国通り」と呼ばれている戦没者墓苑、つまり靖国と同じ意味合いを持つ「戦没者墓苑」で県がやろうとしてたんですね。どういう場所なのかたぶんわかってない。沖縄戦に関しても50代や60代とか、「抜け落ちている」世代があると言われています。おじいちゃんだったりお父さんが経験しているからいつでも聴けるものだと思い、沖縄戦時の聞き取りがあまりされていなかった。いざ76年経って体験者が減っていき、危機感を持っているという上の世代がたくさんいるんですね。靖国に関しても、沖縄の若者にとっては無縁で、そもそも存在すら知らない子も多い。

 

elabo編集部

記憶が途切れたことのポジティブな部分とネガティブな部分があるように伺いましたが、國仲さんはどうですか? 途切れたものと継承しなければいけないものとのバランスの関係で、ご自分の平和運動への動機をどのように位置づけますか?

 

國仲杏

私のバックグラウンドを遡ってお話すると、私は「継承しなきゃ」とか自分で戦争について勉強しなきゃとか初めて思ったのが高校2年くらいの時で、最近のことなのです。それまで私はあまり沖縄が好きじゃなくて、東京などの都会に憧れがあって、本土の方と比べて沖縄出身であることにたぶん劣等感を持っていました。それで「こんな島早く出てやる」と思ってたんですね。私の家は3世代全員戦争を経験してなくて、みんな戦後世代だから家庭内で戦争の話が出てこなかったっていうのが、継承に携わろうとしてこなかった理由として大きいです。小学校1年生の時から、平和教育として6月23日に向けて学校で戦争体験の話を聞く機会はあったんですけど、聞いても他人事として捉えている部分はあったし、自分のおじいちゃんおばあちゃんも体験していないことだから、「よくわかんない」「超昔のこと」っていうイメージがあって、触れにくいなって思ってました。

 

沖縄についてちゃんと知ろうと思ったのは、高校2年生の時に、沖縄県が県費で実施している留学に参加したときです。要するに沖縄代表として留学プログラムに参加させてもらったんですね。その時に「沖縄代表」ということを上の人たちにものすごく言われて、「君は沖縄の代表として行くんだよ。じゃあ何をしなきゃいけないの?」って言われた時に、やっぱり自分が現地で沖縄や日本について聞かれた時に答えられるようにしなきゃって思って勉強したんです。実際にアメリカに行って歴史の授業を受けた時に、第二次世界大戦で原爆を落としたことに対してアメリカと日本で考え方の違いがあることを知ったり、自分がパールハーバーについてなにも知らなかったということがあって。行く前に「勉強しなきゃ」とも思ってなかったんですね。実際に現地で「日本ってパールハーバーについて習うの?」って訊かれて、「いや、教科書の2、3行くらいしか出てこないよ」って言ったら「なんで日本は加害の面について教えないの?」って言われて、まあたしかにそうだよなとは思ったけど、私は私で「原爆落としたことに悔いは全然ないよ」とか言われたことについてカチンときた部分もあって。その時は「いやいやお互い様だろ」とか思ったんですけど、日本に帰ってきていろいろ自分のなかで咀嚼したときに、やっぱり加害の面を見ていなかったっていうことと、被害意識がすごく強かったなってことに気づかされて。

 

そこから加害、被害を両方知らなきゃいけないし、私はそういうきっかけがあったからこそ知ろうって思ったけど、きっかけがない子は一生ないかもしれないじゃないですか。だから、たとえ一人でも自分がそういうきっかけを与えられる可能性があるなって思って勉強しようと思うようになりました。

 

森本千晴

私は千葉県出身なんですけど、母が沖縄出身で、母方の親戚も沖縄にたくさんいます。私のひいおじいちゃんも沖縄戦で戦死していて、それを一応小さいながらに聞いてはいたんですけど、自分が沖縄に行くまでは「知識として聞いている」だけでした。自分が大学に入って沖縄で起こったことに興味を持ち始めた時に、戦争についてまったく知らなかったことを「無知の罪」のようなものと感じました。地元の千葉では沖縄戦について学ばないので「知らない」ことが普通でしたが、大学に入って学び、「知って伝える」ためには、まずは知っていくことが大事だなと思いました。あとは、戦前の雰囲気と今の雰囲気がすごく似ているというふうに体験者の方が言っているのを聞いて、自分たちがいつか戦争に協力して、起こしてしまう側になるんじゃないかって不安になったことを理由に、学んでいって二度と同じことを起こさないようにしないといけないなと感じています。伝えていくモチベーションはそういうことから生まれています。

 

長井

今回の企画者でありながら、沖縄や長崎などの特別な場所にルーツを持たない私自身は、皆さんとまた違った動機でこういった座談に関わっています。私は、戦争の話題にずっと苦手意識を持ったまま中学生になったんです。ところが中学校のクラスに、いわゆるネトウヨみたいな子がいて、社会科の授業でスピーチをする時に、いま考えても本当にぎょっとしますけど、南京大虐殺がなかったみたいなことを言いだして。私は、その子が真剣に歴史修正主義的なことを言っているのを見て「こんな子と一緒に大人になって政治を動かすのか」と思ってすごく怖くなったんです。皆さんとはズレますけど、今考えると、ネトウヨの彼も、ある意味で彼に突き動かされた私の感覚も、肌感覚としての戦争の記憶が途絶えたからこそ生まれたのかなと思いました。

 

私たちが、戦争、そして戦後の記憶が実感的なレベルでは途絶えた時に生まれた世代だということは、責任を継承していくうえでも、大きな意味があるのではないかと思っています。だからこそ被害だけに注目せずに加害性についても客観的に捉え、継承していけるんじゃないかと仲本さんや国仲さんがおっしゃっていることに共感しますし、それは自分たちの世代だからできることなのかなと思います。

 

戦後責任を引き受ける主体は「日本人」なのか──アイデンティティの問題

 

長井

そのうえで、改めてどのように戦後責任を果たしていくのか考える時に、それを引き受ける主体、主語ははたして「日本人」でよいのかという問題が浮上します。「日本人」という括りで戦後責任を語ることには、何か違和感や暴力性があるんじゃないかという話を学生ミーティングでも少し話したかと思いますが、その点に関してはどうでしょうか?

 

眞鍋ヨセフ

僕は、ルーツでいうと母が韓国人というところで幼い頃からアイデンティティについての葛藤がありました。戦争の責任というのを教えられるときに、「日本が戦後急速に経済成長したのは朝鮮戦争があったからだ」と言われて。でも、韓国側だってベトナム戦争のおかげで景気がよくなったというのもあって、やはり戦争責任をどこで引き受けるべきか悩みます。もうひとつ、僕自身がキリスト教教育を幼い頃から受けてきたということがあります。正義・愛・平和みたいな、大きい主語を頻繁に用いる教育を受けてきた影響が戦争責任という問題意識の根底にあります。いずれにしても「日本人」という括りでよいのかについては、すっきりと判断できない部分があります。

 

國仲

沖縄の人って結構「うちなんちゅ」としてのアイデンティティが強く、本土と違う文化や言語で成り立ってきた歴史があるので、そこに誇りを持たれている方が多いなと感じます。でも現在、沖縄の人たちは「日本人」として括られるじゃないですか。そうなったときにどこか違和感を覚えるということはあると思います。「日本は戦後責任を果たさないといけない」という時の「日本」っていう主語もすごく大きいし、「日本=日本人」が示唆されていると思うんですけど、「私たちって含まれるの?」という疑問もあります。私たちがこれまで受けてきた沖縄戦教育のなかでは「本土の人は沖縄の人に対して酷いことをした」と教えられてきたのもあって、「ないちゃー、やまとんちゅ」と「うちなんちゅ」っていうのを沖縄の人は分けたがります。そのなかで過ごしてきたのに、いきなり社会に出た時に「日本人」として括られて、「君にも日本人としての責任があるんだよ」って言われても、「え、私の責任なの? やまとんちゅの方々の責任じゃないんですか?」っていう気持ちも正直やっぱりある。

 

仲本

沖縄が戦後これだけの基地を抱えていることに対して、本土の人が応答責任を果たさないということから「〈本土〉対〈うちなんちゅ〉」っていう対立が強まっていることは否定できないと思います。でも対立していても何も生まれないし始まらない。自分たちは「基地を押し付けられた」っていう世代でもなくて、本土復帰以降に生まれて、そこまで本土と対立性はない世代だと思っていますし、対立していても状況が良いほうに動かないなって、上の世代を見てきてそういうことを感じ、自分は県外に向けて積極的に発信をしています。土砂問題とか基地問題って「沖縄の問題」として報道されるけど、これって「沖縄の」問題じゃなくて「沖縄で起きている日本の問題」でしかない。でもその区別化がされてしまっている。沖縄で活動している人たちも、「もっと沖縄の問題に目を向けて……」って言うんですけど、「沖縄の問題」として捉えてることも問題だと思っていて。もっと日本全体の問題にしないといけないと思っています。そもそも遺骨問題についても、県外出身の日本兵もたくさん亡くなって遺骨が沖縄南部に埋まっている。だから沖縄だけの問題じゃないんです。朝鮮人、台湾人、アメリカ人の骨もある。

 

高橋

國仲さんが言われたこと、「沖縄にいると〈うちなーんちゅ〉というアイデンティティが前面に出る傾向があって、被害を受けたという部分が強調される。ところが、日本人として戦後責任を問われることも多く、ギャップを感じる」ということに関して、お話します。

 

先ほどの私の言葉で言うと、「日本国民としての責任」の話になるんですが、この「日本国民」のレベルは、例えば朝鮮半島出身の方でも日本国籍を取っていれば日本国民になるわけです。歴史的なルーツによって、「エスニック・ジャパニーズ」も「エスニック・コリアン」も「エスニック・リュウキュウ」も、「日本国民」のなかにはさまざまなエスニック・グループの人たちがいるわけです。ですので、どのレベルの議論をしているのかによって、私は「日本人」を使い分けています。日本国籍を持っていれば日本国民なんですけれど、それぞれのルーツは違う。アイデンティティの意識も違う。これはどちらも現実なので、無視することはできないと思うんですね。私はおそらくどこまで遡っても「やまとんちゅ」ですけれど、千葉県出身の森本さんはお母さんのほうを遡れば「うちなーんちゅ」の方がいる。眞鍋さんは朝鮮半島出身のお母さんとエスニック・ジャパニーズのお父さんがいる。恋愛も結婚も「呼びかけ」と「応答」ですから、国籍や民族の境界を超えて起きるし、それが人類の歴史を貫く現実でしょう。では、そういう人はどういう「責任」を負っているのか、という議論はよくあるんですよね。

 

主観的なアイデンティティと客観的なアイデンティティ

 

高橋

エスニックなルーツを複数もつ人たちの場合は、どのルーツをどれだけ重く感じているか、育ってきた環境がどうか、などの要因のなかで、自分のアイデンティティをどこに見出すのかという、アイデンティティの持つ主観的・主体的な側面がより前面に出てくるのだと思います。アイデンティティには主観的な面と客観的な面があって、国仲さんも、真鍋さんも、森本さんも日本国民ですよね。日本国民としてのアイデンティティは客観的なもの、法的・制度的に決まるという意味で客観的なものです。もちろんそれは変わりうる。憲法には国籍離脱の自由が書いてありますし、外国人が日本国籍を取ることもできますから。変わりうるけれども、法的・制度的な事実として、日本国民というアイデンティティが客観的に存在していることは明らかです。しかし、エスニックなアイデンティティについては、お父さんとお母さんのルーツが違うということなどから、一義的に決まらない方がいるのは不思議なことではなく、自然なことです。迷ったり悩んだり、苦しんだりしたりする方もいるかと思いますが、そういう中で、主観的・主体的な面、自分が自分のアイデンティティをどう考え、どう自覚していくかが、より重要になってくるのだろうと思います。

 

法的・制度的には日本国民なのに、自分は日本人としてのアイデンティティを重視していないとか、国家や民族は嫌いだからコスモポリタンとして生きたいという人もいます。主観的にコスモポリタンとして生きていくのはもちろん自由ですが、そういう人でも、日本政府が発給する日本のパスポートがなければ外国旅行もできないし、パスポートなしにそうしようとすれば難民になってしまいますね。

 

elabo編集部

アイデンティティに主観的な側面と客観的な側面があるというのは、非常にバランスのよい、しかも現実的な捉え方だと思います。同時に、今日この座談会に参加している「Z世代」と呼ばれる世代の人たちは、世界的にアイデンティティについての関心が高いと言われているのですが、彼らが重視するのは主観的な側面が中心で、国家を基盤にする、政治的力を行使できる主権者という客観的な側面についてはほとんど問題にしていないように見えます。このことについては、参加者のみなさんはいかがですか?

 

長井

高橋先生が「主権者」とおっしゃった時に、そのことが完全に抜け落ちていたように思います。やはり今回の「戦後責任」についても、主観的なアイデンティティに基づいている感覚があります。

 

仲本

僕は活動をしている意識もなく、遺骨問題もどちらかというと政治と無関係だから、もっと根本的な問題だからやっていると思っています。僕自身は琉球独立派とかでもないんですね。それでも「日本人か」って訊かれると、やっぱり「うん」って言えない。「うちなんちゅ」としてのアイデンティティのほうが強いです。他方で、高校生たちに、自分たちは「うちなんちゅ」かって聞いたこともあるのですが、6割以上がそう思っていなかったという経験もあって、またそうであるからこそ「うちなーぐち」という琉球の言語を復活させようという運動のように、アイデンティティを再獲得する動きも自分の世代には出てきています。

 

elabo編集部

アメリカやドイツだったらエスニシティとしてのアイデンティティの問題と国民としてのアイデンティティの問題はセットになっていますが、日本だとそうはなっていない。Black Lives Matter運動の影響もあると思いますが、若い方々の関心はあくまでも主観的アイデンティティが中心だと思います。ではどのように客観的アイデンティの重要性に説得力を持たせることができるのでしょうか?

 

高橋

戦争の責任、植民地化の責任ということについて考えると、やはりそれは相手との関係の問題ですね。主観的なアイデンティティと言っても、その相手との関係が消えてしまうのは違うんじゃないかと思います。私も戦後生まれで、敗戦の匂いは知っているけれど、戦争自体は知らない世代です。1990年代に入って、東西冷戦構造が崩壊したことで、いわゆる「戦後責任」問題がようやく出てきました。底流としてはあったけれども、90年代に入ると、中国や韓国などの被害者が続々と名乗り出てきました。それまでは日本のなかにいると、被害者の顔がなかなか見えなかったわけです。そのなかでも特に元「慰安婦」の人たちが象徴的だったわけですが、彼ら、彼女らが求めているものは何かと言えば、「日本は責任をとってほしい」ということだった。公式謝罪をしてほしい。補償してほしい。そして、教育で伝える義務を果たしてほしいということで、やはり謝罪と補償、これが一番大事なことになってくるわけです。それでは謝罪は誰がするのか、ということになると、もちろん一人ひとりがそういう気持ちを持つことは大事なんですけれど、相手が求めているのは、国の代表が自国の責任を認めて謝罪するということなんですね。そして、補償も国民の税金から国がするわけです。今日の中心的テーマである「戦争責任」や「戦後責任」というのは、基本的に日本国が行った戦争なので、日本国として責任が問われる。そうなると、どうあがいてみても、日本政府に影響を与えられるのは主権者としての国民なので、その部分は消せないんですね。沖縄の人であっても、アイヌの人であっても、戦争の外国人被害者の前に出たら「あなた、日本人ですよね」と言われる。あくまでも相手との関係で問われるのであって、あなたは日本人だから日本国がきちんと謝罪や補償をするように日本政府に働きかけるべきだ、ということになるわけです。

 

私にはこんな経験があります。1990年代半ばに「慰安婦」問題の責任のとり方とナショナリズムの関係をめぐって論争がありました。私はナショナリズムを批判しつつ、日本国民としての政治的責任を果たすべきだという立場でした。それに対して、「自分には日本人としてのアイデンティティはない。「慰安婦」被害者には同じ女性として共感しているので、女性としてのアイデンティティの問題だ」とか、「ナショナリズムなんて古いし、国民国家なんていずれなくなるんだから、日本国民として責任をとれと言われても、自分は受け付けない」といった人もいた。こういう態度は知識人や学者にも多いのです。その背景には、1980年代から90年代にかけて、文系の学問のなかで、いわゆる「国民国家批判論」など、ネイション・ステートへの批判がとても強まっていたことがあります。それはほとんど常識になっていて、私自身もそのなかで勉強してきましたから、国民国家というものへの疑いの目はとても強いんですね。そういう流れがあったものですから、被害者の人は「日本に責任をとってほしい」と言ってくるのに、「私、日本人じゃありませんよ」などと言って、肝心の「日本人」がどこにもいないような雰囲気があった。

その頃、在日朝鮮人の作家、徐京植さんが、ヨーロッパでベトナム料理店にいった時のエピソードを語ったんです。先ほど真鍋さんの話にも出てきましたが、韓国はベトナム戦争に派兵していますね。虐殺事件も起こしている。90年代当時の在日の人は、韓国にも今より距離があったわけですが、それでも韓国籍を持っている徐さんは、ベトナムの人に「韓国はベトナムで何をしたのか」と言われたら、その問いから逃れられないと思ったと。そのうえで、今の日本人は何なのかと。現在の日本人の生活は、長年の植民地支配で得た利益の上にも成り立っているのに、日本人としての責任は引き受けられないと言う。そんなことは、パスポートを投げ捨ててから言って欲しいと語ったのです。さきほども言ったように、私たちは外国に行く時、外務省から発行されたパスポートによって、「この人は日本国の人間ですから安全に受け入れてください」といって保護されているわけです。それは日本国民としての特権なのですが、そういう特権を享受していながら、責任を問われたら「いやいや、私は日本人だなんて、そんなアイデンティティは持っていませんよ」と言って逃げる、それはないのではないか、ということですね。「そんな言い方は恫喝だ」と反発した人もいたのですが、現実にそういう事態があることは否定できませんね。アイデンティティの客観性というのは、たとえばそういうことなんですね。

 

ポジショナリティ(政治的、権力的位置)とアイデンティティ

 

高橋

もうひとつ、ポジショナリティ(positionality)という言葉があります。これは政治的、権力的位置を意味し、あくまでも相手との関係、他者との関係のなかで、その人が置かれている位置が問題になります。教員と学生の関係もあれば、宗主国と植民地の関係もある。沖縄の比嘉春潮という人が、「琉球が長男、台湾が次男、朝鮮が三男」という言葉を遺していて、これは要するに大日本帝国のなかに編入された順番なんです。琉球の人はヤマトに来ると差別されるけれど、台湾に行くと上だという感覚があったと言われます。植民地ではこういうことはよくあって、エスニック・グループ間のヒエラルキーがある。ポジショナリティが違うわけです。この概念とアイデンティティという概念は無縁ではないけれど、同じではない。そう考えると、同じ日本国民でも、「うちなーんちゅ」と「やまとんちゅ」とでは、アイデンティティが違うだけでなく、ポジショナリティが違うと言えるわけです。この場合、アイデンティティに基づく力関係なんだけど、アイデンティティそのものではない。アイデンティティはなかなか変えられないし、変えよというべきものでもない。しかし、ポジショナリティに関しては、植民地の人は宗主国の人に支配を止めよと言うべきだし、沖縄の人は本土の人に構造的な差別をするなと言っていいわけです。そういう視点、権力関係の視点が大事じゃないかなと思います。

 

眞鍋

今のお話を伺っていると、単に自分の問題だけなのかもしれないのですが、アイデンティティの捉え方が非常に自分本位というか、他者との関係性という点が抜け落ちているのではないかと気付かされました。Z世代については、よく情報過多な環境で自分が見出しづらいからアイデンティティの確立に必死だとも言われますが、結果、他者に無関心になっていると感じます。その無関心の結果、客観的な日本国民としてのアイデンティティが見出せなくなっていますし、またポジショナリティという視点で言えば、不平等な関係を放置することになっているのではないかと思いました。それに加えて、自分自身も左派的というかリベラルな言説に触れてくるなかで、たいした反省もなく、ナショナリズムを批判し、国民としてのアイデンティティを否定した経緯にも気づかされました。

 

藤田

自分としては、主観的には長崎の大学生として平和運動に携わるということですし、客観的には日本国民としてということになるとは思うのですが、やはり客観的なほうの「日本」は大きすぎて無関心に繋がってしまう危険があるとは思います。平和運動をする者としては、やはり、さきほどの仲本さんの「沖縄で起きている日本の問題」という構造と同じく「被爆した長崎を持つ日本の問題」であり、「だれも無関係ではない」というかたちで日本全体を巻き込んでいきたいと思いました。

 

私たちだからできる戦後責任の継承

 

長井

最後に、私たちの世代だからできる戦後責任の継承について一言ずついただき、それに対して高橋先生にご応答いただければと思います。

 

森本

先程のelabo編集部の方のお話にもあったように、私たちの世代は自分たちが経験していないから、知らないから客観的に捉えられる、客観的に継承できるというのが大事だと思うので、その点を大事に、継承していきたいと考えます。

 

国仲

高橋先生に教えていただいた、アイデンティティに主観的なものと客観的なものがあるという考えは、自分自身も非常に腑に落ちるものがありました。このことは藤田さんがおっしゃる、だれも無関心ではいない、だれも無関係ではない、ということにもつながると思います。自分たちの世代は自分が無関心であることに気づいてさえいないので、無関係ではないことを伝えて、無関心を乗り越えていきたいです。

 

藤田

長崎には、被害の面から戦争を捉えた原爆資料館と、加害の面、軍事工場のために朝鮮からたくさんの人を連行してきた歴史を伝える、「岡まさはる記念長崎平和資料館」があります。戦争の記憶がないからこそ客観的になれる世代として、被害と同時に加害の歴史も伝えていきたいと思います。

 

仲本

自分自身を考えても被害の側面を考える時には「うちなんちゅ」として語っている。しかし、南京大虐殺に「うちなんちゅ」も先頭に立って加担していたという事実を前提に、中国の人に責任を問われた時に、自分は世代が違うから関係ない、責任はないと言ってしまいそうだと気づきました。所属先をすり替えてしまう。このことが解決を難しくしているんだなと。本土の人が基地問題に向き合えない原因も同じなんだと思いました。この状況を変えるのは、やはり加害性に向き合うための教育なのかなと思い、それが自分自身の使命かなと考えていたところです。

 

高橋

みなさん、記憶から切り離された世代と言いながら、これだけ戦後責任に関心をもって考えていて素晴らしいですね。本心から感動しました。出発点は「自分」でよいとは思うのです。しかし、戦争責任、戦後責任と言う時には、すでに他者との関係に踏み込んでしまっているわけですね。基地問題もそうです。そうなると結果的にどんどん視野が広がって行って、政治の問題とか法の問題にぶつかっていく。そのなかで自分が置かれている客観的な位置が自覚されていくと思います。たしかに現在は一応、国全体に戦争がないし、日常生活にそんなに困らないという状況で、なかなか他者との関係に思いが至らないというのもやむをえない面があるとは思うのですが、少なくとも日本の責任が問われている、その呼びかけを聴いてしまった以上、ここから踏み出していけば私たちは必ず政治にぶち当たることになる。近代国家ではこれは避けられないですね。カール・ヤスパースがドイツの敗戦後に直ちに、自分たちの罪について考えなければいけないと考察を開始しました。そこで彼が言った「法的な罪」「政治的な罪」「道徳的な罪」「形而上学的な罪」のなかで、最初の3つ、「法的な罪」「政治的な罪」「道徳的な罪」は、日本の場合を考えるためにも有用だと思います。法的な責任は法廷で裁かれる戦争責任です。政治的な責任は、もちろん為政者の責任が一番重いわけですが、国民もまた主権者としてその責任を取らなければいけなくなる。さきほども言ったように、公的な謝罪や補償を実現させる、伝えていくというような責任です。そして道徳的な責任は、応答責任にとても近い、人間としておかしなことをしていないかと問われることですね。道徳的、倫理的な責任を感じているみなさんは、法や政治について必ず勉強せざるをえなくなるでしょう。例えば、長崎の被爆者が一番望むことは、日本が核兵器禁止条約に加入することではないでしょうか。どうしても、政府の行為を問題にせざるをえない。みなさんはもうそこに足を踏み入れておられるので、ぜひこれからも思考と活動を続けていっていただければと思います。

 

 

[2021年8月17日、Zoomにて]

高橋哲哉(たかはし・てつや)

1956年、福島県生まれ。哲学。東京大学名誉教授。主な著書=『歴史/修正主義』(岩波書店、2001)、『戦後責任論』(講談社学術文庫、2005)、『靖国問題』(ちくま新書、2005)、『記憶のエチカ──戦争・哲学・アウシュビッツ』(岩波書店、2012)、『犠牲のシステム──福島・沖縄』(集英社新書、2012)、『デリダ──脱構築と正義』(講談社、2015)、『沖縄の米軍基地──「県外移設」を考える』(集英社新書、2015)ほか多数。

  

仲本和(なかもと・わたる)

1999年、沖縄県生まれ。沖縄国際大学総合文化学部社会文化学科4年。平和学ゼミ所属。2018年から県内外の学生への平和学習や沖縄戦ガイドなどの実践活動を行いながら、沖縄県における平和教育の課題、今後の平和教育の展望について研究を行なっている。2020年度から宜野湾市地域育成事業の採択を受け、宜野湾市嘉数区において戦争体験の継承の事業を展開。2021年4月から「南部土砂問題」に関わり、沖縄国際大学で12講義、ほか全国7大学でも講義や勉強会を展開。

 

國仲杏(くになか・あん)

2000年、沖縄県生まれ。国際基督教大学3年。専門は平和研究、人類学。小学生の頃から沖縄戦についての平和教育を受けてきた。「継承」について考えるようになり、もっと発展した平和教育を目指して、大学では平和教育を専攻。副専攻は人類学だが、特にアートと平和の関係に興味があり研究テーマにする予定。

 

藤田裕佳(ふじた・ゆうか)

1999年、佐賀県生まれ。長崎大学多文化社会学部国際公共政策コース3年。専門は軍縮論、国際関係学。高校生時にドイツに1年間留学した際、シリア難民と出会ったことで平和に興味を持つ。帰国後は、第20代高校生平和大使として活動。現在はナガサキ・ユース代表団として、核兵器廃絶を訴える活動に参加している。

 

森本千晴(もりもと・ちはる)

2001年、千葉県生まれ。琉球大学人文社会学部琉球アジア文化学科2年。専門は琉球民俗学を予定。高校生までを千葉県で過ごしたが、母が沖縄県出身で沖縄にルーツがある。大学1年次に受講していた授業で、沖縄県の事業である『御万人ぴーすふるアクション』が行なっていたワークショップを受けたことをきっかけに、沖縄戦や平和学習について深く興味を持ち、2020年度『御万人ぴーすふるアクション』の「ぴーすふるメッセンジャー」として参加・活動。

眞鍋ヨセフ(まなべ・よせふ)

1998年、大阪府生まれ。elaboyouth編集長。関西学院大学神学研究科博士課程前期1年。専門は新約聖書学、殉教思想、犠牲。主な関心は、犠牲の概念を中心とした、靖国神社問題、宗教の責任について。ヒップホップを中心としたカウンターカルチャー、ブラックミュージック、欧米ポップカルチャーにも関心がある。

 

長井真琴(ながい・まこと)

1999年、愛媛県生まれ。elaboyouthライター。関西学院大学法学部法律学科4年。副専攻で神学部のゼミに所属し、自己責任論にまつわる研究を行う。主な関心は、宗教と責任概念の関係、サブカルチャーの中のフェミニズムなど。

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2021/09/03
座談 |
高橋哲哉、仲本和、國仲杏、藤田裕佳、森本千晴、elabo編集部

高橋哲哉|1956年生まれ。哲学。東京大学名誉教授
仲本和|1999年生まれ。沖縄国際大学総合文化学部
國仲杏|2000年生まれ。国際基督教大学
藤田裕佳|1999年生まれ。長崎大学多文化社会学部
森本千晴|2001年生まれ。琉球大学人文社会学部
眞鍋ヨセフ|1998年生まれ。elabo youth編集長
長井真琴|1999年生まれ。elabo youthライター

写真 | Sonata (CC BY-SA 3.0)
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