1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa
2021年12月9日(現地時間)にライブストリーミングされた「The Free Larry Hoover Benefit Concert」★1で、カニエ・ウェストはドレイクをゲストとして招き、2018年以来(もっと長いという説もあるが)の不仲を公に解消して見せた。正直なところ、このリアリティショーめいた演出に当初はあまり気乗りしていなかったのだが、実際にショーを通して観て、2人の誠実なパフォーマンスに心から感じ入ってしまった。「DONDA」のストリーミング・パーティーで自分の生家を再現し、焼き払い、文字通り新生の儀式を経たカニエは、今回のコンサートでは、非常に清々しい面持ちで現れ、まさに過去と再び和解するかのように懐かしいヒット曲を次々に披露した。
https://www.amazon.co.jp/gp/video/detail/B09NGNDL7Q/ref=atv_dp_share_cu_r
久しぶりにステージの上で生き生きと健康的な表情を浮かべるカニエに多くのファンが喜んだことだろう。そして「Ultra-Light Beam」で文字通り神々しくカニエとともに入場してきたドレイクのパフォーマンスにもまた、誠実さやイノセンスが滲み出ていた。特にドレイクが、自分のソロパートに入って1曲目に歌ったカニエの曲「24」は、彼の歌唱の上手さと情緒性が際立ち、ある意味ではカニエ本人が歌う以上に胸を打つパフォーマンスになっていたと言える。
ドレイク。桁違いに売れているにもかかわらず、まったく畏敬の念を感じさせないドレイクの独特のアイコン性については、ドナルド・グローヴァーが監督および主演を務めるドラマ「アトランタ」でも主題化されていた。第2シーズン、エピソード17「Champagne Papi」の話の流れは以下のようになっている。
ヴァンは、女友達に、大晦日の夜ドレイクが主催するニューイヤー・パーティーに誘われた。ヴァンたち女の子4人が着飾って指定された場所に行くと、そこには日雇いの労働者が乗るようなワゴン車が停まっていた。ヴァンは、ほかのドレスアップした女の子たちとともにそのワゴン車に乗せられ、大豪邸に到着する。お城のような豪邸には巨大なプールがあり、彼女はそのプールサイドで友人ダリウスに遭遇する。ダリウスはドレイクのパーソナル・シェフと知り合いだったのでパーティーに招かれたのだそうだ。豪華なシャンデリア、大勢の人、シャンパン、マリファナ、ドレイクの等身大パネル。けれど肝心のドレイクがいない。ヴァンは自分のインスタグラムを盛り上げたくて、是が非でもドレイクと写真を撮りたいと思っている。
ヴァンがドレイクを探して豪邸の奥に入り込んでいくと、ソファーでテレビを観ているスペイン語を話す老人がいた。どうやら老人はテレビのリモコンが壊れていることにキレてスペイン語でまくしたてているのだが、ヴァンはかろうじて「おじいちゃん Abuelo」という言葉を聞き分け、彼はドレイクの祖父で、ドレイクは今ヨーロッパツアーに行っているのだと理解する。ヴァンがその部屋を離れて再びダリウスたちと合流すると、彼女たちをパーティーに連れてきた女友達は彼氏とT-Painの大晦日パーティーに行ってしまっていた。さらに突然、客たちは全員、パーティー会場の豪邸から追い出されてしまう。明け方、豪邸から追い出されたヴァンとダリウス、そして2人の女友達がとぼとぼ歩いて家路につく途中、ヴァンは突然思い出したように「そういえば、ドレイクってメキシコ人よ!」と叫ぶ。
このエピソードは主人公のアーンやペーパーボーイが出てこない、シリーズのなかで異例の回のひとつで、その物語は初見で笑えるようなわかりやすいものではない。しかし、ドレイクについて知り、個々の出来事に込められた含意に気づかさる度に、ヴァンのように「ああ、あれはそういうことだったのか」と繰り返し天啓に打たれることになる、非常に精巧な作品である。この「Champagne Papi」が「ネタ」にしているドレイクというラッパーが占めている無二のポジション、特異性は彼しか担えないものでありつつ、ある程度の一般化、普遍化が可能だと思われる。本稿で私たちは、この「ドレイク性(Drakeness)」とでも呼ぶべき性質に言葉を与えてみようと思う。
「Champagne Papi」のエピソードでも端的にテーマ化されているように、ドレイクと言えば、パーティー好きで成金趣味のアイコンだ。そのドレイクというアイコンにSNSを介して引き寄せられ、群がってくる人間の軽薄さと悲哀もまた「Champagne Papi」で描写されているものだ。「芸能人に会えるかな」「恋人ができるかな」と浮かれてパーティーに行っても、結局よく知った身内とお茶を濁して何も達成されずに帰るという経験には、身につまされる可笑しさと悲哀がある。しかも、よくわからないワゴン車に乗せられて連れていかれる大豪邸は、そこに立ち込めるマリファナでハイになった雰囲気と相まって、どこかインターネットのバーチャル空間そのもののような、非現実性が立ちこめている。私はこの「Champagne Papi」を、ClubhouseというSNSが日本に上陸した際に思い出した。というのも日本の『Vogue』などのファッション誌が、Clubhouseがアメリカ合衆国でいかにメジャーで、セレブが集うSNSかを表すために掲載していた写真こそ、嬉しそうに満面の笑みでスマホをいじるドレイクの写真だったからである。
エピソード後半の内容はさらに深い。ヴァンはテレビの故障にキレているスペイン語を話す「おじいちゃん」の存在から、「ドレイクはメキシコ人である」ということを類推し、私しか知らない秘密として嬉しそうに友人に伝えるのだが、言うまでもなくドレイクはメキシコ人ではない。ドレイクはカナダ出身で、エスニシティとしてはユダヤ系カナダ人とアフリカ系アメリカ人のハーフである。ドレイクがユダヤ人の血を引き、非常に色の白いタイプの黒人であることから、ラッパーとしては黒人性が希薄だと批判され続けてきたことを思うと、このジョークは際どい。けれども「メキシコ人」で落とす点は、じつはドレイク自身のユーモアに溢れたアイデンティティ理解を汲み取っていて、微笑ましいジョークになっている。
このエピソードのタイトルである「Champagne Papi」とはスペイン語で、中南米で大変ポピュラーな言い回しなのだそうだが、ドレイクはこれをインスタグラムのアカウント名にしている。ドレイクがなぜシャンパン・パパ(お父さん)のスペイン語版をアカウント名に選んだのか、その理由に彼がシャンパン好きである以上に何かあるのかについては定かではないが、一方では、彼の楽曲に表れているように、ドレイクがラテンサウンドに親しんでいるということがあるだろうし、他方では、カナダがアメリカの北の隣国であるのに対し、メキシコという南の隣国をあえて仄めかして、自らの周縁性を茶化しているようにも見える。加えて、ユダヤ系とのミックスであるドレイク自身の風貌が、人種的にはまったく関係がないヒスパニック系に見えなくもないという皮肉も込められているのかもしれない。ここまでハイコンテクスチュアルな内容をエンタメとして成立させている「アトランタ」には畏敬しかないが、同時にこれほどに多層的なコンテクストを引き受けられるドレイクという人物は、やはりきわめて特異な存在だと言えるだろう。
そもそも 「ドレイクが好きだ」と公言して憚らないヒップホップのリスナーはどれほどいるのだろうか?「ドレイク? まぁ、フィーチャーなら聞くかな」という程度のリスナーも多いのではないだろうか。過去にジミー・キンメルのレイトショーで制作された、変装したドレイクが自身の評価を聞くという企画でも、多くの人がドレイクに批判的なコメントを(本人とは知らずに)ぶつけていた。
この点もまたプラチナメイカー・ドレイクの不思議なところで、クラシックなヒップホップリスナーからも最先端を追うリスナーからも少々敬遠されている印象を受ける一方で、周知の通り、数字上は圧倒的にストリーミングされ、売れているのである。
先にも述べたように、成金趣味であること、俳優をやっていたこと、ギャングどころか中産階級の富裕層出身であること、さらにアフリカ系のヒップホップヘッズからは黒人性が足りない、「白すぎるtoo white」等々、ドレイクが批判される属性は枚挙にいとまがない。ドレイクを巡るビーフ(Beef)も、彼が応答していないものも含め多々存在するが、最も有名なものはPusha Tとのものだろう。今回のコンサートで解決したカニエ・ウェストを巻き込んだ一連のビーフにおいて、ドレイクは当時は公になっていなかった私生児の存在を暴露された。アンサーを出したドレイクに対する再アンサーとしてPusha Tは、ドレイクの共同制作者の病気を揶揄した。これに対し、ドレイクは「一線を超えた」と発言し、アンサーを出さぬままこのビーフは打ち切りとなった。
もうひとつ、ドレイクを指して批判していると考えられている有名なリリックにケンドリック・ラマーの『DAMN.』(2017)に収録されている「ELEMENT.」がある。
「インスタグラムのためではなく、本当の地元のために金をばら撒く」というリリックは、地元トロントをレペゼンしながらもL. A.にも住居を構え、ある種の売名行為としてチャリティーをするドレイクを批判していると言われるが、このケンドリックのdisはたしかにドレイクの「God’s Plan」のプロモーションビデオを思い起こさせるものだ。
ドレイクは「God’s Plan」のPVで、レーベルからもらった製作費の約1億円を市井の人々に文字通りばら撒いてみせた。デパートやスーパーマーケットで商品を買い与え、500万円以上の授業料を代わりに支払い、施された人たちが涙を流してドレイクに感謝する姿が映し出されている。しかし、その文字通り現金をばら撒くという生々しい善行は、観る者に複雑な気持ちにする。しかも、「God’s Plan」のリリックは「奴らは自分に悪いことを願っている、願っている(That they wishin’ and wishin’ and wishin’ and wishin’ They wishin’ on me, yeah, yeah Bad things)と繰り返し文句を言っているようにも取れる内容なので、一層不可解である。ドレイクは「みんな自分から金をむしり取りたいんじゃないか」と嘆きながら慈善活動をし、マゾヒスティックに自らの孤独を表現しているのだろうか?アフリカ系アメリカ人の友人にそう話したところ、「そうかもしれないが、ドレイクは、批判されて悲しくて泣いたとしても、その涙をお札で拭く人だ」と返された。おそらくこの友人とのやりとり全体が指し示すものこそ「ドレイク性」なのである。ドレイクは正義を実践しようとしても、金持ちであるがゆえに批判され、孤独に震えている。と同時に、それでもなお金持ちであることをエンジョイしていることを臆面もなく歌い続けるのがドレイクなのだ。
ここまでさまざまな角度から「ネタ」にされ、分析に耐えうるのは、ドレイクが間違いなくヒップホップ界のセンターを占めるアーティストの一人だからである。トラップ、ドリルといった多様なビートに乗り、エモに分類可能な内省的なリリックを紡ぎ出し、ヴォーカルとラップの狭間で揺れる彼のパフォーマンスは、最近の歌もラップのテクニックも持つ若手たちの先駆けだったと言えるだろう。またドレイクのポップさは、ヒップホップというプラットフォームを拡大することに明らかに貢献してきた。
センターを担うドレイクは、センターの枠を拡大しつつ決してその境界を踏み越えない優等生でもある。このドレイクの踏み外さなさは、彼が何よりも「自分が何者であるか」について極めて自覚的(コンシャス)であることに由来する。ドレイクはPushaTが仕掛けたビーフに対して、「お前とリリシストとしてやりあえる」ではなく「お前より売れる曲がつくれる」と返した。この回答をスヌープ・ドッグは高く評価し、ドレイクはバトルのなかでも、議論のなかでも絶対にミスを侵さないと評している。このカニエとPushaTとのビーフで、多発性硬化症を患っているNoah '40' Shebibの病気を揶揄されたことで「一線を超えた」から自分はこれ以上応答しないと発言した態度にも、ドレイクのコモンセンスは際立っていると言えるだろう。ドレイクは、ビーフにおいてさえ良識的な範囲に留まり続ける。
ドレイクの良識的なコンシャスネスは、彼を実存的な問いや芸術(アート)といった深遠な領域へと踏み出させない。例えば『Variety』誌の2017年の記事には以下のようにある「ドレイクは、ピューリッツァー賞受賞者のラマーのような鋭い社会派詩人ではない。アルバム『Scorpion』では、金持ちや有名人になることがいかに大変かということにただ不平を言っている」。ドレイクはたしかに内省的ではあるが、個人的な不平不満以上の領域に歩みを進めることを絶対にしないのだ。かつて少しだけ付き合った女性が派手に遊び歩いていることへの不満という、相当にどうでもいいエピソードをラップした2015年のメガヒット「Hotline Being」に代表されるように、ドレイクの悩みは深みにも高みにもいかない。その絶妙な加減が彼をジャンルのセンターに立たせ、膨大な数のリスナーを引き寄せることに成功しているように見える。
新作『Certified Lover Boy』でもドレイクの良識的なコンシャスネスは十全に発揮されていた。「有害な男性性と真実を受け止めることの組み合わせは避け難く胸が痛むものだ(A combination of toxic masculinity and acceptance of truth which isinevitably heartbreaking)」というドレイク自身がApple Musicに寄せた見事な自評に表れているように、このアルバムでドレイクは父性的で異性愛的なマスキュリニティを体現する自らの孤独と滑稽さについて歌っている。例えばFutureとYoung Thugをフィーチャーしたリードシングル「Way 2 Sexy」で彼は、マッチョでセクシーでエモい自分が、現在の先端的カルチャーではもはや道化的であること、そして、その事実を自分自身は明確に自覚していることを表現した。
自分自身がネタにされた「アトランタ」の影響さえ感じさせる、皮肉と自嘲に満ちた「Way 2 Sexy」のPVは、面白がることが困難なレベルのなかなかの駄作で、ダミアン・ハーストがデザインしたアルバム『Certified Lover Boy』のジャケットと同様に、意識の高い批評家からは極めて不評だった。またセカンドシングル「Girls wants Girls」はレズビアンのフェティッシュ化、ミソジニーだと、予想通り叩かれているが、この反響に対して「わかっているんだ」と苦悩するドレイクの姿も織り込み済みで、この曲は成立しているように見える。
2019年に「God’s Plan」でグラミー賞のベストラップ賞を受賞した時に、ドレイクは「賞なんて無意味だ」とシャウトした。賞よりも「たくさんの市井の人たちが聴いてくれることこそが大事だ」というこの感動的なスピーチもまた、不思議なほど重みがなかったのだが、やはり賞を受け取っておきながら「無意味だ」と言うその振る舞いが醸し出すそこはかとない偽善性が、それを観る者の感動をせき止めるように思う。また、つい先日、ドレイクは今年度のグラミー賞を辞退したが、これについてもまた、そもそもレコード会社がグラミー賞に申し込まないと受賞候補にさえならないというシステムを思うと、少々微妙な気分になる。このように「正しい行い」がちっとも感動的ではないということ込みで、ドレイクはドレイクである。大金持ちで女の子にモテモテでありつつ、個人の不平不満レベルのクリティシズムと正論を表現し続けるドレイクには、けっして自らの富やポジションを脅かすリスクは取らないリベラルの欺瞞が見出される。しかも、彼はそれも自覚している。
「リベラルの欺瞞」と書いたが、欺瞞や偽善は端的に悪いものではないはずだ。正論というのは多くの場合、凡庸でつまらないし、欺瞞に満ちている。それでも言わなければならない、聞かなければならないのが正論であり、ドレイクはそういう種類の正論を言い続けるブルジョワ的リベラルであること、父性的な権威(=説教する親父)になることを、見事なまでに引き受けていると思う。おおむねリベラルであることが主流なアフリカ系アメリカ人のラッパーたちのなかでも、ケンドリックやJ・コールのように社会正義の探求から哲学的な内省に到達し、孤高のヒーローになる者もいれば、リベラルの欺瞞に対して癇癪を起こし、自由と創造を求めてリバタリアンや宗教に接近するカニエもいる。そのなかでドレイクは、金持ちでありながら正義について説教してくる欺瞞に満ちたリベラルであり続け、「お前は所詮金持ちだ」「お前は結局リアルを知らないだろう」という批判を甘んじて受け、ミュージック・インダストリーのセンターを占め続けている。
2020年の民主党大統領候補としてベーシックインカムを唱えたアンドリュー・ヤンは、2021年のニューヨーク市長選に立候補し敗北したが、そのヤンが市長選立候補を表明する演説で自らの入場曲に選んだのはほかでもないドレイクの「God’s Plan」だった。ヤンは「God’s Plan」をバックに両手を上げて小走りに、幾分道化的な雰囲気でステージに現れた。ヤンがドナルド・グローヴァーの友人であり、音楽に詳しいことを前提にするならば、この選曲は、欺瞞に満ちたリベラルとして出馬するというヤンの決意表明として受け取られるべきだと私は思った。「私は貧困を知らないし、中産階級ですし、リアルな経験少なめですけど、正義を実現していこうと思いますが、何か?」というハイコンテクスチュアルな態度表明を、端的に表現してくれるアーティストはドレイクをおいてほかにおらず、その意味でこの選曲はあまりにも的を得ていたのである。結局のところ、自覚的にコントロールされていたはずの欺瞞は真の欺瞞になり、ヤンは、金持ちのユダヤ人に取り入る親イスラエル派で、真のマイノリティへの共感に欠けることを露わにしてしまい、ニューヨーク市長選も途中で撤退せざるを得なくなった。Tech にも支持される明るく現実的なインテリ中道左派であったはずのヤンは、最近はIDW(インテレクチュアル・ダーク・ウェブ)のひとり、ブレット・ワインシュタインを自らのポッドキャストに招くなど、不穏な動きを見せ始め、これまでの支援者を失望させている。
政治的立場や価値観が保守/リベラルへと二極化し、両者の原理主義化が進むなかで、包摂的な中道的立場を担うことはこの1年で一層困難になったように感じる。こうした時代状況のなか「TheFree Larry Hoover Benefit Concert」でカニエと長年の確執を解消し、和解し、神の前で感謝するという「正しいこと」を臆面もなく成し遂げたドレイクの歌声は美しく、包容力があり、異端的な存在ばかりが根拠なく出現する今日、まだ本流=スタンダードが存在しうるという安心感を与えるものだった。ヒップホップを中心にカルチャーのさまざまな文脈を引き受けているドレイク。彼について考えることは、その領域全体のマップを考えることに繋がる。このように全体の布置を見せることができる人物こそ、ジャンルのセンターにいる人物だと言えるだろう。地理的・人種的には周縁出身でありながら、多くの人が放棄しつつある「中心を担う」という役割を、バカにされること前提で全うしようとするドレイクは、間違いなく今の時代に必要とされている偉大なアーティストだ。
注
★──Larry Hooverについては以下の記事を参照のこと。シカゴのギャング団を率いていたHooverは影響力が大きいことから検事たちが彼の再審や釈放を渋っている事実があるため、Hoover自身は今回のチャリティ・コンサートで彼の影響力を強調されることには難色を示しているそうである。しかし、同時にこのコンサートの収益が多くの無名の収監者を救うための非営利団体に寄付されることは決まっており、広い意味で不当な監獄システムを変えるために貢献することは間違いない。
https://slate.com/news-and-politics/2021/12/why-drake-and-kanyes-free-larry-hoover-benefit-concert-wont-work.html
1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。
Twitter @tami_yanagisawa