「当たり前」を解きほぐすドラマ「恋せぬふたり」
NHK総合で、2022年1月10日から放送をスタートしたドラマ「恋せぬふたり」。このドラマは、「他者に恋愛感情を抱かない」アロマンティックかつ「他者に性的に惹かれない」アセクシュアルの男女、兒玉咲子と高橋羽が仮の「家族」として同居生活を始め、それが咲子の元彼の松岡一など周囲の様々な人々に波紋を広げて
#恋せぬふたり #アロマンティック #アセクシャル
culture
2022/03/11
執筆者 |
木々海々
(ききかいかい)

大学2年。運動音痴だがスポ根漫画が好き。アイドルとヒーローとお笑いも好き。
2~2.5~3次元を反復横跳び中。

「恋もセックスもしない男女関係」に向き合うということ

 

NHK総合で、2022年1月10日から放送をスタートしたドラマ「恋せぬふたり」。

このドラマは、「他者に恋愛感情を抱かない」アロマンティックかつ「他者に性的に惹かれない」アセクシュアルの男女、兒玉咲子(こだま・さくこ 演:岸井ゆきの)と高橋羽(たかはし・さとる 演:高橋一生)が仮の「家族」として同居生活を始め、それが咲子の元彼の松岡一(まつおか・かず 演:濱正悟)など周囲の様々な人々に波紋を広げていくストーリーである。

 

日本に「世間一般で思い描かれる恋愛、結婚とは違う男女関係」や「恋愛的指向、性的指向におけるマイノリティ」を扱うエンタメ作品は数あるものの、そうした作品は、(読者・視聴者も含めて)誰も苦しまないし苦しめない、いわゆる「優しい世界」の中で穏やかに時が流れ、視聴者・読者に「こういう人もいるんだな」というふわっとしたイメージを抱かせる所にとどまるものも多い。★1

 

しかしこのドラマは、脚本の吉田恵里香氏が「アロマ・アセク★2自体の認知度が低い中、この題材を雰囲気もののアクセントのように軽く扱うのは嫌でした。きちんと当事者の息苦しさや心の傷を描かなければならないと思い、真正面から向き合おうと決めました。そうすることで当事者の方だけではなく、世の中に溢れる『誰かが決めた当たり前』に苦しんでいる人たちの心も、ほんの少し軽くなるのではないか」★3と語っているように、マジョリティ(ここでは他者に恋愛感情、性的欲求を抱く人々)、マイノリティ(ここではアロマンティック・アセクシュアルの人々)両方の視点から「当たり前」との齟齬や葛藤を描くことに成功している。私自身はアロマンティックでもアセクシュアルでもないが、世間一般の恋愛観、結婚観に違和感を抱くことが少なくなかったため、このようなドラマが生まれたことを喜ばしく思っている。

 

「テンプレ」を乗り越える人物描写

 

まずこのドラマを語るにあたって、特筆すべきことがある。それは、「マイノリティの人々の中でも考え方にはグラデーションが存在する」と明確に言及していることである。

「家族」としての同居を始めるにあたって、高橋は咲子に一枚の紙を渡す。それは、「アセクシュアルに関するアンケート調査」であり、いずれの項目も「ある、ややある、どちらでもない、あまりない、ない」のように段階的に回答の選択肢が区切られている。

このアンケートは、Aro/Ace調査実行委員会による「Aro/Ace調査2020」の文面を一部アレンジして製作したものであり、「こういったアンケートは、当事者の方が自分の状態を整理したり、他者との感覚のすり合わせなどをしたりする際に使われる」ことがあるそうだ。

実際、同じアロマンティック・アセクシュアルであっても、咲子は他の人の恋愛的な話、性的な話を聞くことにあまり嫌悪感がないが、高橋は嫌悪感を抱くというような違いが描かれている。

 

またこのほかにも、咲子がアロマンティック・アセクシュアル当事者の主催する集まりに参加する回では、「パートナー同士だが同居はしない」、「恋愛感情はあるがアセクシュアル」、「1人が楽しいからパートナーはいらない」など、咲子とも高橋とも異なる価値観を持つ人々が登場していた。マジョリティ-マイノリティ間のみではなく、マイノリティの人々の中でも様々な違いがあり、理解するために対話を重ねていく必要があることは、特にマジョリティの中では見落とされがちな事実である。

 

さらに、もう一つの大きな特徴として、「恋愛的指向、性的指向におけるマイノリティ」を主軸に描く作品と聞いて連想しがちな、「無理解、偏見をぶつけてしまうマジョリティ」と「負けずに自分を貫こうとするマイノリティ」というわかりやすい二項対立構造は序盤に少し登場するのみで、回が進むにつれて段階的に、複雑化、多層化した「マジョリティ」と「マイノリティ」の関係が描写されていることが挙げられる。

 

それは、特に咲子の元彼で、のちに高橋とも交流を深めていく「カズくん」こと松岡一の描写に如実に表れている。咲子が持っていた「アセクシュアルに関するアンケート調査」の紙を偶然見てしまったことで、彼女が高橋と性的恋愛関係が介在しない「家族」として同居生活を始めていたことを知ったカズくんは、自分と付き合っていたこともあるのに「他者に恋愛感情を持たず、性的に惹かれない」と言う咲子を理解できずに戸惑い、高橋を不審に思う。

 

咲子の気持ちを知りたいカズくんは、折しも大けがを負ってしまった高橋の介助役も兼ねてしばらく高橋家で同居することになった。初めは高橋との適度な距離感をうまく測れずにグイグイ話しかけて拒否感を与えてしまうカズくんだが、咲子や高橋と同じ空間で会話し食事することを重ねて、だんだん心地よい距離感を理解していく。それは同時に、カズくんが「恋愛感情や性的な欲求がなくとも、他人同士が家族として繋がることができる」ということを理解する過程でもあると言える。

 

しかしこのように要約してしまうと、カズくんが単に「マイノリティに理解のあるマジョリティ」になっただけのようにも読めるが、それでは何か物足りない気がする。なぜなら、彼は一貫して、「自身にとっての大切な人である咲子と、彼女が大切にしている物事を理解したい気持ち」で動いているからだ。このように相手を理解しようという共感の姿勢は、このドラマの多くの登場人物が体現するものである。

 

カズくんは咲子に「恋愛抜きの家族になるの、俺でよくね?」と提案する。咲子とカズくんはセクシュアリティにおいて違いがあるものの、食べ物の好みや「推し」のアイドルなどの共通点があり、咲子が落ち込んでいたらカズくんが真っ先に寄り添って慰める。その気持ちは「俺ガンガン変わるから」と、咲子のセクシュアリティを知ってもなお変わらない。しかし、咲子は本当にそれでいいのかと戸惑い、かつて同居しようとしていた友人の門脇千鶴(かどわき・ちづる 演:小島藤子)に相談しようとするが、電話がつながらない。さらに、千鶴は電話番号だけではなく職場も住む場所も変えていたのだ。高橋とカズくんは落ち込む咲子を心配して、三人で「カズくんへのお礼の旅行」も兼ねて千鶴がいる小田原へ向かうことにした。咲子と千鶴は再会できたものの、千鶴に「自分が咲子から離れたのは、恋愛的な意味で好きになってしまったから。咲子が恋愛に興味がない、よくわからないと言っていたことは知っていたので、気持ちを押し殺してこのまま一緒に暮らしてもいいかもしれないと思ったが、咲子が望まないものを心に抱えたまま一緒にいる事はできないと思った」「咲子が好きだからこそ、今まで通りに一緒にいることが苦痛になってしまう」という複雑な心境を告げられる。

 

「恋や愛のことはわからないから、相手のしんどそうでつらそうな気持ちをわかってあげたいのに、それができない」と気付いた咲子は、カズくんからの提案に答えを出す。それは、「一緒にいたら毎日楽しいとは思うけれど、自分はカズくんが好きな子としたいと思っていることは多分何もできない。恋や愛のことはわからないけれど、カズくんにとってはそういうことが大事なのはわかる。だから、自分の為にカズくんが我慢してほしくないし、心から幸せになってほしい」という理由で、「解散」★4しようという提案だった。

 

カズくんは、高橋の「恋愛感情を抜きにして家族になるってことは、どういうことだと思いますか?」という質問に、「多分、相手の帰る場所になる、的な感じじゃないっすかね」という彼なりの答えも出している。その上で、咲子や高橋のようなアロマンティック・アセクシュアルの人々について知りたいと思い、高橋からもらった本や資料を付箋でいっぱいにするほど熟読している。そして咲子は、自分と一緒にいることで彼や彼が大事にしているものを傷つけたくないからと、「解散」することを選んだ。

 

この咲子と千鶴、カズくんのエピソードは、わかりやすいマジョリティ-マイノリティの対立ではない形で、自分の気持ちが無意識のうちに大切な他者を傷つけてしまうことや、大切に想い合っている二人であっても、その「想い」の形が違うことによって別離を選ばなければならないことに対する苦しさを描いていると思う。

 

この「解散」を決めるやり取りの最後にカズくんが言う「俺咲子を好きになったことぜってえ後悔しねえから。……解散しても、これで終わりじゃねえから!」という言葉は、そうした中でも互いを理解しようとすることに意味はあると思える、希望の言葉だ。このように、マジョリティ、マイノリティ両方の視点から、物語的にわかりやすい「テンプレ」を乗り越え、複雑な登場人物同士の関係を描くことに成功していることが、この作品の高い求心力を生んでいると思われる。

 

「恋せぬふたり」における"empathy"的共感

 

英語には"sympathy"と"empathy"という言葉が存在する。これらは日本語では同じ「共感」という言葉に翻訳されることが多いが、そのニュアンスは少し異なっている。sympathyには、「相手の感情を感じ取り、それによって自分の感情が動かされること」というニュアンスが含まれると言われている。これはつまり、自分の気持ちが主体の感情であり、相手に起きた出来事や感情の変化には他人事になる傾向がある。一方、empathyは「誰かに自分を重ね合わせ、相手のシチュエーションを理解すること」というニュアンスがあるとされている。よって、相手の気持ちが主体の感情であり、相手の気持ちを理解しようとして気持ちを共有する姿勢だという。

 

“sympathy”と“empathy”の違いに注目し、後者が大事な時代であることを『他者の靴を履く:アナキック・エンパシーのすすめ』(文春e-book、2021年)で唱えたブレイディみかこ氏は以下のように整理している。

 

「つまり、シンパシーのほうはかわいそうな立場の人や問題を抱えた人、自分と似た意見を持っている人々に対して人間が抱く感情のことだから、自分で努力をしなくとも自然に出てくる。だが、エンパシーは違う。自分と違う理念や信念を持つ人や、別にかわいそうだとは思えない立場の人々が何を考えているのだろうと想像する力のことだ。」

 

このドラマの登場人物の多くは、他者に"empathy"的な共感をしようとしているように私には見える。劇中の人間関係における葛藤の多くも、"empathy"的な共感をしたいのに、上手くできないというところから起こっている気がする。先述の咲子・高橋とカズくんの関係や、咲子と千鶴の関係もそれに該当するだろう。

 

このような“empathy”的な共感は、相手の立場、気持ちを理解しようとするからできることであり、相手と全く同じ立場でなくても、同じ経験をしていなくても成り立つものである。それゆえ、自分が無意識のうちに持っている「当たり前」という常識、偏見にとらわれずに相手を見つめる姿勢でもあると私は思う。それはマジョリティ-マイノリティ間だけではなく、マジョリティ同士でもマイノリティ同士でも通用する姿勢にほかならない。実際このドラマが扱うようなマジョリティとマイノリティの関係においても、社会的にどちらがマジョリティかという立場性に先立って、基本的な共感への努力が最も大切であることに気付かされる。

 

結びにかえて

 

ドラマ「恋せぬふたり」の登場人物は、咲子や高橋のようなマイノリティとされる人々も、カズくんのようなマジョリティとされる人々も、自分とは異なる他者に触れ、共感しようとして葛藤を抱く。そうした葛藤は、相手と気持ちを分かち合い、理解しようとしているからこそ生じるものだと思う。マジョリティ/マイノリティの差異を際立たせる言説が多い昨今、実は「マジョリティ」も「マイノリティ」も等しく人間であり、相手の立場に立って他者を理解しようとする点では何も変わらないことを描くことで、このドラマは「当たり前」に違和感を覚えるマジョリティにとってもマイノリティにとっても希望を示す作品になっているのだろう。

 

本記事執筆時点の2022年3月上旬現在、物語はまだまだ続く。今後も「恋もセックスもしない」「家族(仮)」の咲子と高橋が、どのように互いを理解し合い、共存していくのか、また二人の周辺の人々は今後どのような視線を向けるのかを見守っていきたい。

★1 ――筆者および当記事にはそのような作品を糾弾、嫌悪する意図はないことを示しておく。

★2――それぞれアロマンティック、アセクシュアルの略。Aro、Aceとも。

★3――映人社『ドラマ』2022年3月号より引用。

★4 ――咲子、または視聴者の視点から見るとカズくんは「元彼」としていったん終わった関係ではあるが、彼本人は「完全に関係が途絶えたわけではない」ことをアイドルになぞらえて「活動休止」と主張していた。この「解散」も、アイドルになぞらえた表現である。

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2022/03/11
執筆者 |
木々海々
(ききかいかい)

大学2年。運動音痴だがスポ根漫画が好き。アイドルとヒーローとお笑いも好き。
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