沖縄の基地問題はイデオロギーの問題ではない:元山仁士郎さん、仲本和さんインタビュー
自分は基地問題に「人としての権利」として向き合ってもらっていいと思うんです。「じゃあ沖縄に基地がなくなったらどう防衛するんですか」とか、そういう質問も分からなくはないけど、シンプルに「沖縄に住んでいてこれだけ基地があって、もう嫌なんだよ。」というだけで間違ってないと思うんです。
#沖縄 #基地問題
politics
2022/03/19
インタビュイー |
元山仁士郎、仲本和

元山仁士郎 | 1991年生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程

仲本和 | 1999年生まれ。沖縄国際大学総合文化学部

沖縄選挙イヤーの流れをどのように見ているか

 

長井(elabo):本日はお時間をいただき、ありがとうございます。今年は沖縄の選挙イヤーということで、沖縄の中でも政治に関する新たな決定やリーダーの交代が予想される一年になりますよね。既に行われた南城・名護・石垣などの市長選ではいわゆる国政与党が推薦する候補の当選が相次いでいる状況があり、そのような結果を受けて、沖縄が右傾化しているのではないかといった意見も見受けられます。日本全体でも若

い方々がある種の無力感とともに自民党支持に流れているという状況があって、それでも、我々を含めて、「現状を変えていきたい」と思う人たちがどうやって希望を見いだしてやっていくのかということをお話しできればと思います。どうぞよろしくお願いします。

沖縄は今年は選挙イヤーだというところで、まずお二人が今年のこれまでの選挙結果をどう見ていらっしゃるのか最初にお話いただけますでしょうか。

 

仲本:おそらく、「選挙イヤー」ということを、そこまで意識していない人が多いというのが自分たち世代だと思います。ただ、「オール沖縄」、つまり今の沖縄では与党にあたる人たちはかなり大変だろうなという感じはしています。コロナの影響もあって、沖縄も観光客や米軍基地がきっかけで感染者が増えたということはありつつも、それを抑えきれない沖縄の現政権に対しての不満は出てくると思いますし、今年の選挙ではそこが一番打撃を与えてるのかなと感じています。一方で、先月からのウクライナ侵攻を県民がどう捉えるのかは自分自身わからない部分もあって、「米軍基地あっての防衛をしないと自分たちが侵略されるんじゃないか」という感覚を持つか、「基地があることで標的になってしまうんじゃないか」という捉え方になるのかというのは、メディアなど情報発信する側がカギを握ってくるのかなと感じています。自分自身そこまで選挙活動をするとかではないんですけど、選挙に行かない人もたくさん居るなかで、そういった層を引きつけられるようなお話が今回できればと思っています。

 

元山:そもそも、投票に行かない人が若い世代では多いので、「選挙イヤー」に対して「ピンとこない」、「そもそも投票して何か変わるの?」みたいな感覚の人たちも一定数いると思います。一方で政治・社会のことについて話したり、声を上げ続けるということはすごく重要だと思います。今年は全国的に統一地方選が行われていると思うんですけども、沖縄でも例外ではなく、選挙が立て続けに行われる年なので、少しでもいろいろ考えて投票に行ってほしいと思いますね。

コロナ対策については、色々な意見を見るんですけれども、何が正解なのか世界的にもよくわかっていない、あるいは実現できていない。そもそも日本政府の対策にも問題があると思いますが、今の沖縄県の対策も本当に良かったのかと考えると、選挙ではどっちもどっちで判断が難しいということになってしまうように思っています。コロナ対策に関しては、元々投票先がどちらかに決まっている方たちが、それを1つの理由として周囲に訴えたりするということになるのかと思います。ただ、コロナ禍で困窮した企業や生活への補助や助成というのを現政権に期待するというところは多分にあるんじゃないか。そういう意味で、自民党推薦の候補者に期待する人は増えるんじゃないかなとは思いますね。

 

長井: 新聞を見ていると、「オール沖縄が負け続けている、知事選も危ないんじゃないか」みたいな予想が見え隠れするという感じがありますが、そのような流れは感じていらっしゃいますか?

 

元山:例えば南城市については、前回の選挙も60票ほどの僅差で瑞慶覧さんが当選したということもあって、以前から拮抗している地域なんですね。つまり、今回の選挙結果も、辺野古新基地建設に関する住民の意思表明というわけではないと思っています。また、沖縄の地方選挙と県・国政選挙は、投票する側の「選び方」が違うのではないかと思うんですよね。「地域を良くしてほしい」ということと「国に訴える」という形では、求めるものが若干違う面はあると思うので、市町村レベルの選挙と県政・国政を一緒に考えると、分析を誤ってしまうんじゃないのかなというふうに思っていますね。

 

「自民党側を支持する=基地の容認」ではない

 

長井:地方自治体の選挙と国政選挙は争点が違うので、同じ形で捉えない方が良いというのはなるほどと思いますし、要するにここまでの選挙結果をそこまで短絡的に捉えない方がいいという部分はあるんですね。

 

元山:そうですね。個人的にはそういうふうに見ています。そもそも、例えば名護市長選の結果を受けて、新聞などが「渡具知さんが当選したということは、住民は基地容認派が多数だ」みたいなことを言ってしまうのって、酷だなという感じはしますね。自分としては、選挙だけではなく、直接民主制というか住民投票みたいなものを活用して、選挙と一緒にシングルイシューで様々な争点を有権者に聞いていって、そこでより民意を反映させられたら良いなと思ってます。

名護市の人が本当に辺野古の基地建設を容認しているのかというと、7割近い人たちは反対という思いを持ってることが出口調査でも分かっているわけですから、単純化はできないんです。渡具知さん自身も、当選後のインタビューで、「市民に反対が多いのは変わらない」と答えていので、渡具知さんに投票したからといって基地に賛成とは言えないと思います。名護市議会も反対する議員が多数ですし、基地推進には簡単には踏み込めない。もちろん行政手続きとして辺野古にある美謝川の水路切り替えをするとかそういうことはやるわけですけれども、表立って「基地誘致」「容認」みたいなことをバンバン言っていくわけではないという部分に、やっぱり複雑なところがありますよね。御本人もそれは重々承知の上でやっていると思います。

マスコミ的にやっぱり分かりやすく「容認」「反対」といった形で書きたいとは思うんですけど、結構複雑で難しい問題なんです。その意味で「選挙で1人を選んで、その人に全てを託す」みたいなのって、何かちょっと違うなという感じもしますし、投票してる人も賛成しきれない部分を抱えながら選んでいると思うので、「選挙で人を選ぶだけ」みたいなところに制度的な限界があるとは思います。

 

長井:私たちのトークイベントで経済学者の成田悠輔さんをお招きしたときに、成田さんもまさにそういう形で今の選挙制度の問題についてお話しされていて、様々なイシューをパッケージした一人の候補者を選ばなければいけないということに限界があると言われていました。

 

若者の諦めからの保守化

長井:仲本さんがこのようにツイートされているのを拝見して、沖縄県内で分断が起こっているということを知りました。一方で、「若者が無関心だったり、バカなわけじゃない。」とも仰っていて、国内の様々なところで起こっている「若者がある種の諦めとともに現状維持を選んだ結果、自民党推薦者支持に流れている」というような現状と重なる部分があるのではないかと感じたのですが、沖縄でもこのような現状はあるのでしょうか?

 

仲本:沖縄は、戦後、基地に頼らなくてはお金が稼げない時期というのがあって、「基地を受け入れなきゃ自分たちの働き口や収入がない」という理由で基地に依存した保守というのがずっと続いてきています。経済が安定してきたので、普天間は危険なのでどこに移すという議論が起こり、辺野古に焦点化した。事件事故も重なってきて、これ以上の基地被害は要らないというような動きが活発化する中で、「オール沖縄」という存在が県民の頼れる存在・拠り所になっていた部分もあると思うんです。でもその人達がどれだけ国会で訴えてもやっぱり変わらないし、ましてや県民投票であれだけの数反対が出てもその翌日から辺野古に土砂を投入するというような形で、本当に、目に見えるように自分たちの主張が折られていくという感覚はやっぱりどうしてもある。かといって、沖縄の議員が国政を変えられるほどの影響力を持った存在だったら基地は撤去できたのかと言われると、多分もう、誰が基地建設に反対しても、結局国会の場では通らないのが現状だと認識せざるを得ない。なので、究極的には沖縄の中で候補者を変えてやっていても、どうせ聞いてもらえないんだろうなという諦めはあると感じています。

基地が自分の居住地のすぐ横にある・できるような自治体では、家庭内でも議論がしにくいという問題もあります。基地建設によってお金が入る家庭と、そうでない家庭が混在していて、まず親同士がその地域の中で対立してしまう。この分断構造に子どもたちを巻き込みたくないという思いで、家庭内で喋りにくいという親も少なくありません。さらに言えば、これは辺野古の周辺の学校の先生から聞いた話なんですけど、ある生徒が「自分の家は基地負担でもらったお金で新しい大きな家を建てる。」と言って、それを聞いた同じクラスの子が、「お前の家はお金をもらってるからいいかもしれないけど、俺は辺野古に住んで同じように危険な目に遭うかもしれないのにもらえない」と怒って大喧嘩になったそうなんです。こういうことはどこでも起きうることで、だからみんななるべく話題にしないようにするし、相手が「どっち側」かもわからない。教師側も、基地について学校で喋るとクレームが入るので、子どもに基地のことを伝えたい・考えさせなきゃという感覚で赴任してきても、「絶対に話さないでね」と釘を刺されているそうです。結局、そこに住む子たちは、親からも学校現場からも、「分断に巻き込みたくない」という理由でなかなか現実を教えてもらえない。

ところがこの子たちが18歳になったら選挙権を持って、自分がどちらかに投票しなくちゃいけない立場になるわけで、結局この分断構造に巻き込まれるのが早いか遅いかの違いでしかないと自分は思っています。自分たちが基地を受け入れることでどれだけのリスクがあるのか、どれだけのメリットがあるのかというのを知らないまま、子どもたちは社会に出されてしまう。利害関係を知っているのと知らないのとどっちがいいのかは正直自分もわからないけど、いずれにせよ、この状況では、子供たちは中立的にモノを見ることができなくなるだろうなと思います。

長井:沖縄に限らず日本では、基地に代表されるような利害構造を維持するのか、利害を抜けてでも不正を正すのかという二択を迫られる場面が多いように思います。特に、その利害関係の中に生まれたにも関わらず、そういったことを何も教えられずに子どもが育てられて、18歳になって突然自分で判断することを迫られるというのは、日本全体で起きていることではないかと思います。子どもにとってどのように知ることが必要だと思われますか?

 

仲本:「選び方」を知らないという人達がたくさんいるというのは、見ていて感じます。学習指導要領もこの4月から修正されて、「公民」が「公共」に変わって主権者としての自覚を持つことを目標とした授業が行われると言われているけど、主権者としての判断基準を子どもたちに伝えるとなると、どこまで中立にできるか、それができないならもう口を閉ざすか、ということになってしまいかねない。「政治的立場に中立はない」みたいなのもあると思うんですけど、沖縄は特に扱いが難しい場所なので、下手に触れることができない場所でもあります。基地に関しても、周囲には自衛隊に就く人も多いし、米軍基地の中で働いてる親もいるし、そこのミックスの子たちもいるし、米軍基地の人と友達のお姉ちゃんが付き合ってるみたいなこともあるし、何か意見することで、誰かを傷つける可能性がある。そういうリスクを取らないために、そもそもこの問題そのものに興味を持たせたくないということもあると思うんですけど、でも、彼らが大人になったら知ることができるものなんですかね?子どものうちに見えていないことは、社会に出ただけでは見えてこないんじゃないでしょうか。あるいは、目の前の自分の生活の向上のために、より単純に選ぶようになっちゃうんじゃないかとも考えられます。自分や自分の住む町がどれほどリスクを背負わされているのかということは正直見えていないとダメだと思うけど、そういう感覚は今のままだと養えなくなるって思っています。

実際「今」に焦点化した政策を打ち出す人の方が、選びやすいと思うんです。辺野古については、建設も全く進まないし埋め立てもまだ約8%しか進んでいない。あの現場に行くと、相当な土砂がもう入っているんですが、工事の年数は毎年のように伸びていく。いつ完成するかわからないものを受け入れると、今の生活が楽になる。だから、「完成するかも分からないから、とりあえず今は受け入れておこう。」みたいな感覚もあるのかなと思っています。そう考えると、いわゆる保守系の候補者や政党が票を勝ち取りやすいのかなっていうのはありますね。

 

元山:仲本君も言っていたように、やっぱり、声を上げても届かない・聞いてもらえないという感覚がないかと言われたら、自分自身もゼロではありません。なので、もう国には逆らえない、何を言っても無駄だと感じる人がいるというのは、「そりゃそうだよね」とも思います。なにもその人が悪いわけではなくて、そういう声に耳を貸さない今の政権や日本政府が諸悪の根源だと思うので、その人たちに対しては「もうちょっと頑張ってみようよ」ということど、声を上げ続けることしかできないです。「沖縄の若者の保守化」という点に関しては、日本政府が強硬な態度をとり続けてる以上は、そういう風になってしまうのは当然のことなのか、誰のせいでそうなっているのか、と思いますね。

 

住民投票でシングルイシューで考えることの意義

 

元山:繰り返しになっちゃいますけど、やっぱり選挙だけでいろいろ決められてしまうっていうところの理不尽さはあると思いますし、投票率が低いという問題にも少なからず関係しているのではないでしょうか。アメリカやドイツ、スイスでも、選挙だけでやっていくのではなくて、住民投票などを選挙とミックスしながらより民意を反映させようとしている国があります。住民投票は、基地や原発に関するものだけでなく、地方自治体の市町村合併とかを入れたら何千件も行われており、有権者がその問題や、地域、自分自身と真剣に向き合う貴重な機会にもなります。「主権者教育」が叫ばれるいま、選挙制度の限界を真剣に考える必要があると思います。

 

長井:逆に、少しでも変化するっていうことが示せれば、利害関係によって何も話せなくなってしまっている人たちも、もう少し率直に話せる可能性が出てくるんでしょうか。

 

元山:そうですね。自分自身も、県民投票をやったのは、辺野古の基地移設について色々な人に考えてもらえたらいいなというのが動機でもありましたし、「実際どう思う?」みたいなことを同級生とかとも話したいと思ったのがきっかけではありますね。そのことはある程度達成できたとは思っています。多くの人が話しづらいけれども、別に何も考えてないわけではなくて、それなりにニュースを見てたり、ネットの記事を見てたりはするので、「無関心」っていう言葉はよく言われますけど、まったくそんなことはないと思いますね。「シングルイシューで考える」というのは多くの人にとって今までにない経験で、「選挙で投票するよりも考えやすかったです」というような話を聞くこともありました。

例えば、原発に反対であっても、今の自民党政権の経済政策は良いから、というような理由で票を入れる人もいるでしょうし、選択的夫婦別姓にしてもLGBT・ジェンダー平等にしても、同じようなことが起こりうるわけですよね。そう考えると、選挙で一緒くたに問われてしまうのはやっぱりまずいですし、仮に多数の票を取ったからといって傲慢に進めていいわけではないでしょう。大阪でもカジノの誘致や大阪都構想について住民投票がありましたが、自分としては、住民投票って、その人が今まで考えたことがなかったけど、その問題に真剣に向き合うきっかけになっていくと思うので、「民主主義」が鍛えられるという意味で、すごくいい制度だと思うし、もっともっと活用されたらいいのになと思っています。

 

長井:そういう制度上の難しさはどこの地域も共有している問題で、住民投票を経験することで政治との向き合い方などが長い目で見て変わっていくのは期待してもいいことなのかなと思いました。例えば、何度国にリジェクトされても、「住民投票であれだけの人が本当は反対なんだ」っていうことを共有できるということや、そのような結果を積み上げていくことが一つの希望にならないかなと思うのですが、いかがでしょう?

 

仲本:元山さんがあの歳でハンガーストライキを行って、県民投票を実行して、結果そこまでの反対の民意が出たということや、それが数値化されて残ったということについて、安堵した部分はありました。これだけの人が、やっぱりこう思ってるのか。投票率が52%というところに焦点をあてて、「あくまで反対はその中の70%だから」というような捉え方をするこの保守系のメディアもあったんですけど、そうじゃなくて、はじめは1人で動き出したものにあれだけの沖縄県民が動いて、50%を越える県民が投票して、そのうち70%は反対の姿勢を示した、ということがすごく重要だったと思っていて。本当は毎年あれぐらいの大きなパンチを打てないと、正直向き合い続けにくい問題ではあると感じましたね。

基地に対して抗うっていうのは、ヒーローがいないと継続できないくらいパワーを必要とすることでもあるなと思いました。もう亡くなってしまいましたけど、翁長前知事だったり、自分たち世代にとっては元山さんだったり、そういうみんなのモチベーションを上げてくれる人たちは、基地への反対や負担の改善を願う人達のヒーロー的存在になったと思うんです。それが毎年出てくるか、2年に1回、3年に1回こんなアクションができるかって言われると難しいとは思います。でも、沖縄は、戦後77年間誰かが犠牲になりつつもそのポジションになって運動を継続してきたんだろうと感じています。決まった人がずっと何十年も運動してるわけじゃなくて、誰かがやっている時は誰かが休んで、頑張った人がまた休んで、休んでた人が出てきて、というのを繰り返している。それが沖縄であって、長年その中心になってきたのは、沖縄戦の体験者ですよね。この人達が本当にいなくなってしまったときのことを考えると、正直怖い。実際にそれを経験した人たちが訴える重みが、社会からなくなったときの沖縄って、本当にどうなるんだろうっていう不安があるからこそ、自分は沖縄戦や基地被害を発信する側として動いているつもりです。

同時に基地問題って、沖縄の投票だけでは変えようがないと思っています。いくら地方自治体で反対したからって、実行するのは政府なわけで。基地被害の当事者は県民全体で見たときに少ないけど、そういった人たちの声をどこまで真剣に聞いて、「いつか自分の身にも起こるんじゃないか」というところまで当事者意識を持っているか、そういう人たちを県内、県外まで広げていけるかはやはり重要ではないかと思います。

 

沖縄の基地問題がイデオロギー対立になっている問題

 

長井:elabo編集部内でも話題になっていたのは、沖縄の基地問題がイデオロギー対立に巻き込まれていることが本当に良いことなのかという懸念でした。沖縄だけに基地負担が偏ることは本当に良くないというのは前提として、その改善のために介入するのが県外の人だと左派ばかりになるというのが現実的に改善を生み出すために良いことなのか、地元の方との感覚のズレがあるのではないかという疑問です。自分自身もどうやって関わっていったらいいのかという迷いがあるのですが、いかがでしょうか?

 

元山:自分自身も辺野古のゲート前での運動を大事だと思っている一人ではあるので、それを見ると、やはり人数が居るということは大事なことだと思っています。そういう意味で、別にどこの誰だろうが、ゲート前に座り込みをして、少しでも工事を遅らせて、状況が変わるのを期待する人が一人でも多くいた方がいいとは思いますね。県外から来ていようが、他の国から来ていようが、基地の建設に対しておかしいと思っていれば、その人がどこの誰であっても全否定することはできないんじゃないのかなと思いますね。

同時に県外の方たちには、自分の地域できることを積極的にやってほしいなとは思いますね。先ほど仲本君が言っていたように、基地問題は沖縄県だけで解決できる問題ではないので、ご出身のところや馴染みのある地域、あるいは友達や職場の人とか、少しでも話せるような人たちに伝えていくというのが解決の一歩にもなると思うので、「やりやすい沖縄でだけやる」というのに対しては、ちょっと違和感を覚えますかね。

ジェンダーであれ人種の問題であれ、マイノリティーの問題は同時にマジョリティー側の問題であるということは往々にしてある。それは基地問題にも当てはまると思うので、そういう意味では、基地問題は本土の人たちの問題でもあって、それに対して活動したい思ってくれる人がいるんだったら、それはありがたいことだと思います。基地を押し付けている日本政府や、それを直接的・間接的に民意によって沖縄に米軍施設の7割が集中してるという状況があるので、それに対して申し訳ないから、問題意識を持っているからやる、というふうな気持ちで参加してもらえたらいいなと。

仲本:実は名護市長選の結果を受けて、「名護市民にはがっかりした」みたいなことを言っている方を見かけて。

 

元山:(苦笑)

 

仲本:左翼としての目的の実現を名護市民に求めている外部の人がいるんだということを知った時には何と言って良いかわからない気持ちに襲われました。その方には、そもそもなんで名護市民がこの選挙をしなきゃいけないのかということに根本的に向き合っていただきたい。沖縄には、現状を変えたいけど、基地建設に関わる人が自分の親戚や知り合いにもいるとなると、自分が動くってことは、この人たちを間接的に傷つけることになるんじゃないかという不安から動けない人が本当にたくさんいると思うんです。なので、そういう県民の葛藤っていうのを本土からやってくる人たちはどこまでくみ取れていて、向き合ってくれるのかな、というのはありますね。本来は沖縄のために活動してくださる人達が、自分の地域でいかに周囲を巻き込めるのかというのがすごく大事だと思うんです。

 

沖縄の住民にとって基地問題は「普通の生活をしたい」ということ

 

仲本:沖縄に住んでる人間からすると、基地問題って右か左かっていう対立じゃないんですよ。ただそれに対する考えを選挙で反映するなら、右と左のどちらかを選ぶしかないってだけで。そして、県外から来る人たちはいわゆる左を持った人たちが多く加わってくる。でも、沖縄にいる人間にとって基地の経験は、音に悩まされたり気が付いたら有害物質が流れてたっていうことを日々新聞で知るということです。基地が無ければ起きないような問題が、毎日のように生活のあらゆる面で関わってくる。そうなると、「日本の防衛のために基地がほしい」「軍隊を持たずに平和を作りたい」とかそういう話じゃなくて、もう本当にただ普通の生活をしたいだけなんですよね。例えば、お母さんになって基地反対の声を上げるようになった方は、赤ちゃんに飲ませるミルクに有害物質を含んだ水を使うことになると気づいたのがきっかけだとおっしゃっていましたが、本当にそういうレベルの話なんですよ。

なので、そういった民意を示す方法が選挙しかないというのは問題があるし、右左でくくってしまうのもまた違う。実際、利害関係なしに、ただ純粋に、保守的な思想を持って基地を欲しいという人たちがどれだけいるのか、あるいは純粋に左翼的な思想を持って基地をなくしてくれと言っている人たちがどれだけいるのかと思います。「人としての生活の中での権利の話」が結局、「左の人たちを巻き込んで国政を動かさなきゃ」みたいな話になってしまうということに対して複雑な気持ちを抱きます。

 

当事者と非当事者の分断を埋めるために必要なこと

 

元山:当事者以外の人たちとどのように連帯できるのか。直近の話だと、ウクライナの情勢だって、僕自身そこには一度も行ったことないですし、友達もいませんけども、爆撃を止めてほしいとか子供や家族が亡くなった被害者の方々には、「そんなのもう嫌だ」、「こんなに悲しいことを繰り返してほしくない」っていうような、個人的な想いがまずあると思います。日本でも「戦争反対」のデモが起きていますが、それはとても大事なことだと思います。抽象的ではあっても、「戦争反対」みたいな大きな言葉じゃないと捉えづらかったり、ものを言いづらい状況があると思うので、「当事者」の方々と、そうでない方々の発信していることがより一致していたらいいと思うんです。

現在の沖縄の場合だと、今のところはっきりしてるのは、先ほども言ったように、翁長さんやデニーさんのように「日米安保に対しては容認だけども、こんなに沖縄が基地を負担してるのはまずおかしいでしょ」というのが大きな合意としてはあると思います。「日米安保破棄」みたいなことは、沖縄の中でもまだ少数なんですよ。なので、そういう文脈で沖縄のことを持ち出されるとちょっと違和感がある。自分自身は、沖縄の基地を考えていく上で、ゆくゆくは「日米安保」それ自体について考えないといけないなと思っていますけれども、でも「民意」としてそこまではっきり出ているわけではないんです。それなのに「沖縄の人は」みたいな形で言い切っていいのかと、疑問に思います。

こういうエゴイスティックな態度は、別に左側だけじゃなくて右側の人たちにもあるところだと思います。「イデオロギー」とは本来無関係な議論をイデオロギーてきなものに寄せてしまうのは、右にしても左にしてもそうで、先にも言ったように、名護市の渡具知さんが当選したから「基地建設を着実に進めよ」ということを、読売新聞産経新聞が書いちゃうわけですけど、そんな意図は渡具知さんにすら躊躇している。それぞれの考えを言うこと自体が悪いことではなくて、「当事者」に基づいて発言したり、発信したりするのであれば、そのことが「当事者」とどれだけ一致してるのかというところがものすごく大事なんだと思うんです。自分自身も県外に行った時にそういったズレを感じます。「当事者」としてそれを合わせていくことのるのも難しさも感じますが。

当事者意識に立って、意識を一致させていくためにも、選挙も含めた制度はやはり軽視できないと思うんです。例えば、96年に県民投票があった時に、ジャーナリストの今井一さんという方が、当事県知事だった大田昌秀さんにインタビューしたときに、こんなのは沖縄にやらせるべきじゃない、県民投票ではなく国民投票レベルでやることだという話をされていて、自分自身もそう思うんです。また、沖縄の歴史家・新崎盛輝さんは、国民投票をやるべきという下で、沖縄に基地を造ることに対して賛成か反対かを問うのではではなく、日米安全保障条約ないし日米安保について国民投票をやって、賛成が多い都道府県から順に米軍基地を負担するというような条件をつけるというアイデアを話されています。完成したら基地を受け入れることになるんだな、でも、反対したらどうなるのかな、とか、そういうことを国民に本当に真剣に考えてもらえるような機会を作った上で、基地負担が投票数に応じて割り振られますということであれば、かなり納得がいく。その結果、仮に沖縄の基地負担が多くなったとしても沖縄県民がそれを選ぶんだったら、自分は納得できます。

結果自体は受け入れて、「自分はそれでも嫌です」という意思表示をすることはあるかもしれないですけど。基地や原発を抱えた地域にしろ、当事者が「嫌だな」って思ってるものをちゃんとくみ取れるか、日本全体でどうやって真剣に考えていくのかと考えた時に、選挙だけでは本当に限界があるなと思います。他の仕組みも活用していったうえで、交渉などを行っていくことで、当事者と非当事者の間にある溝や分断みたいなものは少なくなっていくんじゃないかなと思いますね。

 

仲本:騒音の部分であるとか、環境の面とか、遺骨の混ざった土砂が使われることとか、いろいろな面から基地が批判されるってことは、もうシンプルに、何をとっても犠牲が伴っているということではないかと思います。そもそもシンプルに、沖縄県民の70%が反対したものに対して強行するのはどうなんだとか、もうどの面から見ても批判せざるを得ないのが基地建設ですよね。それでも強行されるから自分たちも難しく考えざるをえなくなるし、何か工夫した言い回しを求められる。もとは単純な話なのに、変わらないからこそ専門性が求められる。そうなった時に、最初は反対だったのに、難しい話になると自分は何も言えないからって離れていく人たちが多いのではないかと感じてます。

自分は基地問題に「人としての権利」として向き合ってもらっていいと思うんです。「じゃあ沖縄に基地がなくなったらどう防衛するんですか」とか、そういう質問も分からなくはないけど、シンプルに「沖縄に住んでいてこれだけ基地があって、もう嫌なんだよ。」というだけで間違ってないと思うんです。なぜ「防衛はどうするのか」といったことを沖縄の一県民に尋ねないといけないのか。ほかの地域が受け入れないから沖縄に集中しているというシンプルな構造があって、外で要らなければこっちも要らないって、本当にわかりきった話なのに。

 

長井:ウクライナで起きていることも、本当に「人を殺さないでくれ」っていうシンプルな事だと私自身は思っていて、難しい話にどんどんなっていく様子に違和感を感じているので、仲本さんのご意見に共感しますし、逆にその素朴なところになぜ立ち返れなくなっているのか、考えると辛いですね。「普通に考えたらおかしいよ」ってみんなわかっているはずだけど、やっぱりそれを言えない、言いづらい状況になっていると感じます。そういう素朴な実感を表に出せない空気がある。それでも、ウクライナの話で言えば、日本国内も含めて色々なところで反戦デモが今起きてますけど、それこそウクライナと何の縁もないような人たちもたくさん参加している事実を鑑みると、「嫌なんだよ」っていう素朴な感情を意識的に大事にしていく必要があるのかなと実感しましたし、それが連帯につながるのかなと思います。

 

沖縄が戦場になるリアリティは沖縄住民だけの問題ではない

 

元山:最後に一言だけ付け加えると、米中対立や台湾有事を見越してやっぱり基地が必要だみたいなことも昨今のテレビ番組等でよく取り上げられていると思います。辺野古の基地に対しても、反対するなら代替案を出せとか、安全保障はどうするんだみたいなことを頻繁に言われますよね。けれど、万が一、台湾有事や偶発的衝突が起きて沖縄にミサイルが発射される時に、140万人の県民をどうやって退避させるのか誰も考えてないんですよね。現在の日本政府の見解では、「それは自治体が考えることだ」と言われてるんですけど、宮古島とか与那国島も退避計画は考えられてないという問題があって、辺野古基地のみならず自衛隊の基地を造る、あるいはこれで安全保障をやっていくというときの案が、どれぐらいしっかりしているのかということがまず問われると思います。反対の立場に対して、「じゃあ対案を出せ」って言われる筋合いはないと私自身は思ってるんですけれども、じゃあ万が一、自衛隊員や住民が亡くなったときの補償をどうするのか、77年経っても何千何万と遺骨が沖縄島に埋まっているのに、仮に戦争が起きて終わった後、どのような状況になっていると想定して、その場合、誰がどうやって回収していくんですか、と聞いてみたいです。

国防を声高に叫ぶ自民党の一部や「ネット右翼」みたいな人たちって、どんどんやってしまえみたいな感じですけど、考えられてないことがたくさんあると思います。もちろん沖縄に行って基地反対運動に取り組む人たちに対しても注文したいことはありますけども、一方で「基地をどんどん造った方がいい、国防を強化した方がいい」っていう人たちも、ちゃんと考えているのかって言ったら全然そんなことはない中で、沖縄、琉球列島に基地が維持・増強されているので、その点も踏まえて考えて欲しいと思います。

 

仲本:ウクライナでの戦争をきっかけに、核共有や改憲の議論が加速していますよね。でも、これだけの基地を背負う沖縄県民としては、本当に有事の時にどう逃げるんだという不安があります。シェルターもない、地下道もない、じゃあ沖縄戦で使われたガマにどれだけの人が入れるのかとか、どれだけのガマが安全性があるのかとか、色々な問題点があるわけです。例えば、南西諸島の防波堤化が進む今日、そこに住む住民の避難計画はどこまで議論が進んでいるのかという疑問があります。結局、滑走路をつぶされるともう逃げられないわけですよね。でも、真っ先に狙われる場所はその飛行場や軍事施設になるわけで、そこを攻め込まれたら住民はどうするつもりなんだろうと思います。逃げられないなら、武器を取って応戦するしかないのか、そんなの自分たちにとってはたまったもんじゃないですよ。

なので、安全を保証するために武力を持つなら、軍拡の話をする前に、武器を持つことの議論や攻撃力を持つことの議論じゃなくて、どう市民を逃がすかっていう、「安全」のための議論をするべきだと思います。そこを解決せずに、核を共有しようとか9条改正した方がいいんじゃないかってなってることには違和感しかない。住民の安全が自治体任せであっていいわけがない。何のために専門家がいるのかって思うし、何のために誰の視点で政治をしてるのかっていうことを、考えさせられるなと思っています。

今回日本全体でウクライナの報道も増えてるし、戦争反対の動きも高まっている。けれどいざ沖縄が戦場になったときに「戦争反対」って、またその時に大きな声が本当に上がるのかなって考えてしまう。日本国内で戦争は77年間起きていないから「戦争反対」の意識が弱いのはおかしいことではないけど、77年間起こるかもしれない可能性が沖縄にはどの県よりも集中してきたわけで、そこに対してなんで声を上げてくれないのか。怒りの混ざった違和感を覚えています。沖縄の言葉で「しらふんなーぬ暴力」という言葉があります。見て見ぬ振りをする傍観者が当事者を傷つけることになる。という意味合いです。当事者と向き合い決して傍観者にならない。一人一人ができることを考え続けることが大事ではないでしょうか。

長井:元山さん、仲本さんがそれほどまでにリアルに軍事侵攻を受け止められていることを本当に重く受け止めます。大したこともできない自分に無力感を覚えつつ、実際に苦しんでいる人たちの痛みを大事に、具体的に自分たちが何をできるのかを考えたいと思います。今日は踏み込んだ部分まで考えをお聞かせくださり、本当にありがとうございました。

元山仁士郎(もとやま・じんしろう)

1991年、沖縄・宜野湾市生まれ。「辺野古」県民投票の会元代表。国際基督教大学教養学部卒業、一橋大学大学院社会学研究科修了、現在、一橋大学大学院法学研究科博士課程。1960〜70年代の米軍事戦略における、在日・沖米軍基地の位置づけを研究する。SASPL(特定秘密保護法に反対する学生有志の会)、SEALDs、SEALDs RYUKYUの立ち上げ/中心メンバー。19年1月に「辺野古」県民投票への不参加を表明した5つの市の市長に対してハンガーストライキを行い、全県実施を実現するために尽力した。

仲本和(なかもと・わたる)

1999年、沖縄県生まれ。沖縄国際大学総合文化学部社会文化学科4年。平和学ゼミ所属。2018年から県内外の学生への平和学習や沖縄戦ガイドなどの実践活動を行いながら、沖縄県における平和教育の課題、今後の平和教育の展望について研究を行なっている。2020年度から宜野湾市地域育成事業の採択を受け、宜野湾市嘉数区において戦争体験の継承の事業を展開。2021年4月から「南部土砂問題」に関わり、沖縄国際大学で12講義、ほか全国7大学でも講義や勉強会を展開。

長井真琴(ながい・まこと)

1999年、愛媛県生まれ。elaboyouthライター。関西学院大学法学部法律学科4年。副専攻で神学部のゼミに所属し、自己責任論にまつわる研究を行う。主な関心は、宗教と責任概念の関係、サブカルチャーの中のフェミニズムなど。

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元山仁士郎、仲本和

元山仁士郎 | 1991年生まれ。一橋大学大学院法学研究科博士課程

仲本和 | 1999年生まれ。沖縄国際大学総合文化学部

写真 | Syuhei Inoue(Unsplash)
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