南アフリカ人としてのイーロン・マスク
ここ数か月、Twitterをめぐる話題が絶えない。去年10月末、テスラ社CEOとして知られるイーロン・マスクがTwitter社を買収したことが日本で大きな話題となった。
#イーロンマスク #Twitter
politics
2023/03/25
執筆者 |
かぎろひ
(かぎろひ)

国防に並々ならぬ関心がある。好きな格言は「汝平和を欲さば、戦への備えをせよ」

■南アフリカ人としてのイーロン・マスク

 ここ数か月、Twitterをめぐる話題が絶えない。去年10月末、テスラ社CEOとして知られるイーロン・マスクがTwitter社を買収したことが日本で大きな話題となった。マスクはCEOとして合理化を進める一方で、言論空間としての性質を重視しトランプ前大統領などのアカウントの凍結を解除した一方、自身に批判的な人物のアカウントを凍結したことは物議を醸した。加えて、今年に入ってからはCEO辞任の是非を問う投票結果をうけ辞意を表明したほか、2月始めには突然一般ユーザーのアカウントが大量に凍結されたことも記憶に新しい。

もちろん、彼による一連の言動には賛否両論があるだろう。しかし、ここで注目しておきたいのが、なぜ彼が巨費を投じてまでTwitter社を買収し、過激な言論であれ許容される空間を築こうとしたのかということである。あくまでも私個人の推察に過ぎないが、生い立ちが彼の言動に影響を及ぼしているのではないかと考えられる。生い立ちとはつまり、彼が生まれ少年時代を過ごした1980年代の南アフリカ社会の情勢である。というのも、彼自身は南ア時代について多くは語らぬものの、発言や行動の節々から社会的な抑圧や統制への嫌悪感が窺えるからである。

イーロン・マスクは1971年に南アフリカ人の父エロールとカナダ人の母メイのもと、首都プレトリアで誕生する。しかし、マスクが9歳の時に両親は離婚。マスクは父のもとに身をよせて1989年まで南アで過ごした。

マスクは南アで過ごした少年時代について、あまり語りたがらない。彼の少年時代として度々言及されるのは、学校において激しいいじめを受けていたことや父が厳格であり確執があったことなどである★1。もちろん、このような彼の経験が現在の人物像に大きな影響を与えたであろうことは容易に想像できる。しかし、ここではより広い視点―すなわち当時の南アフリカ社会が彼の人格に与えた影響について考察したい。

■南アフリカにおける白人とその歴史

 

マスクは、先述したとおり南アフリカ人とカナダ人の間に誕生したため人種的には白人に属する。一口に白人とはいっても、南アフリカの白人は大きく二つのグループに大別される。一つのグループはアフリカーンス語を話すアフリカーナーやボーア人と呼ばれる白人、すなわちオランダ系白人である。もう一つのグループは、19世紀以降に入植した英語を話すイギリス系白人である。まずは、彼が少年時代を過ごした1980年代の南アフリカ社会について論じる際に前提となる、南アフリカの白人史を概観したい。

南アにおける白人の起源は大航海時代の1652年に遡る。オランダ東インド会社のヤン・ファン・リーベックが喜望峰を補給拠点としたのを皮切りに、18世紀半ばまでに現在の南アフリカ起源となるケープ植民地が成立した。植民地の規模が拡大し、重要性が増すにつれて移住者も増加した。この時期の移住者の内訳はオランダ人のほか、フランス本国での迫害から逃れたユグノーのフランス人やドイツ人も一定数存在していた。かれらは、ボーア人やアフリカーナーと総称される、後にやってくるイギリス系白人とは異なる文化を持つ白人の民族集団の先祖となった。

1793年にイギリスがケープタウンを占領し、1815年にケープ植民地は正式にイギリスへ割譲された。1820年からイギリス人の入植が始まったほか、1833年には奴隷制が廃止された。しかし、オランダ系白人たちは奴隷制の廃止により経済的に不利益を被ったため、1838年より「グレート・トレック」と呼ばれる英領ケープからの大移動が始まった。オランダ系白人(以下ボーア人)たちは移動の途上で先住民と激しく争いながら進んだ。ボーア人たちは1850年代にケープ植民地の北側にオレンジ自由国とトランスヴァ―ル共和国を建国し定住を始めたが、先住民との激しい抗争はかれらに黒人への恐怖心と敵愾心を植え付けた。また、この時期からオランダ語で農民を意味する「ボーア人」からアフリカ人を意味する、「アフリカーナー」を民族として自称するようになっていった。

一度はイギリスの支配から脱したボーア人たちであったが、1867年にオレンジ自由国でダイヤモンドが、1886年にトランスヴァ―ルで金がそれぞれ発見されると状況は一変した。ゴールドラッシュにあやかって南アに移住するイギリス人が急増し、鉱山の採掘権を巡ってボーア人国家と度々衝突するようになった。イギリスは鉱物資源を確保すべく、二つの共和国の併合を目論み二度のボーア戦争を起こした。特に1899年から1902年までの第二次ボーア戦争は凄惨を極め、ゲリラ戦に対抗すべくイギリス軍による非戦闘員の強制収容が行われた。結局、1902年に二つの共和国はケープ植民地へと併合されて戦争は終結。ボーア人(以下アフリカーナー)の間には強い反英感情を残し、かれらは民族意識を強め排他的で権威主義的になっていった。また、戦後の白人社会では政治と経済の両面においてイギリス系白人が主導権を握った一方、多くのアフリカーナーが農地を失い貧困層へと転落した。ボーア戦争はこうした両民族の間に格差という形で対立の火種を残した。

第二次大戦後の1948年に国民党が政権を握ると、政治の主導権はアフリカーナーへと移った。この時期から、アフリカーナーとイギリス系白人の政治的対立や分断も緩和されていった。背景として、1960年代からアフリカ諸国が黒人を主体に相次いで独立したこと、南アフリカ国内でもネルソン・マンデラを主体とした黒人解放運動が激化したことが挙げられる。こうした状況で、南アの人口構成上黒人に対して圧倒的に少数となる白人の利権や雇用を守る名目でアパルトヘイト政策が徹底して行われるようになった。アパルトヘイト体制下でも白人の自由は引き続き保障されたものの、非白人には一切権利が認められず、抵抗すれば徹底的に弾圧された。また、白人であってもヘレン・サザマンのように反アパルトヘイトを唱えた者は監視された。結局、アパルトヘイト政策はネルソン・マンデラが釈放される1990年まで続いた★2。

■マスクが過ごした1980年代の南ア社会

マスクが多感な10代を過ごした1980年代は、アパルトヘイト体制末期にあたる。この頃、南アフリカはアンゴラ内戦とナミビア独立戦争の二つの紛争に介入していたが、いずれも泥沼化していた。加えて、国際社会からアパルトヘイト政策に対して経済制裁を課されていたこともあり、経済的にも行き詰まりつつあった。国内では黒人による反アパルトヘイト運動が激化しており、白人が攻撃される事件が相次いだ。また、人種間だけでなく黒人部族間の対立も激化し暴動やテロリズムが頻発するなど、当時の南アは極度に治安の悪化した不安定な政情にあった★3。

マスクの生まれ育ったヨハネスブルグやプレトリアなどの大都市郊外の白人居住地は、そんな現実の南ア社会から隔絶された空間であった。また、白人居住地には使用人以外の黒人の立ち入りは許可されず、そこに住む白人たちが目にする情報は全て南ア政府に検閲されたものだった。当時の一般の白人のなかでも子供たちは、アフリカーナーもイギリス系白人も問わず政権のプロパガンダによりアパルトヘイトの現実について盲目にさせられていた。つまり、かれらはアパルトヘイトに関して議論する以前に情報を手に入れること自体が困難な状況に置かれていたといえる。

当然ながらマスクもこのような環境下で少年時代を過ごした。しかし、マスク一家は当時プロパガンダを流布していた政権のアフリカーナーたちとは一線を画していたといえる。マスクは母語がアフリカーンス語ではないこと、母がカナダ人であることから推察するにアフリカーナーではなくイギリス系白人に属する。アパルトヘイト体制下においてイギリス系白人は、経済的な実権を握るエリートのような人種であった。一方、政治的な実権を握るアフリカーナーに比べると経済的に豊かな傾向があり、比較的リベラルな立場に立つ者が多かった。実際に、マスクの父エロールはプレトリア市議会議員に選出された際にはアパルトヘイトに批判的な進歩党から出馬している。また、マスクが3年間過ごしたプレトリア男子校はイギリス系の学校であり、校長がアパルトヘイトに批判的でありエリートの黒人生徒を受け入れるなどリベラルな校風であったといわれる★4。保守的で権威主義的なアフリカーナーが主導権を握る南アの白人社会のなかで、イギリス系の人々や文化はいわばリベラルなカウンターとして存在していたといえる。

当時の南ア社会の中ではリベラルな環境の中で育ち、そこでマスクは自由主義の影響を強く受けたといえるだろう。しかし、それでも彼はアパルトヘイトの弊害から逃れることは出来なかった。マスクは在学中に、同級生の黒人に対する差別発言を嗜めたためにいじめに遭ったといわれる。当時の南アにおいて白人におかれていた状況から鑑みて、マスクの言動は利敵行為であると映ったのかもしれない。彼は南アの中ではリベラルとされる環境にいたとはいえ、情報統制という形で白人の学生たちとともにアパルトヘイト体制から抑圧される存在であったのも事実である。

■南アでの経験が彼にのこしたもの

1989年、マスクは徴兵を避ける為に南アを去りカナダへ移住。単に兵役から逃れるためとの見方もできるが、プレトリア男子校でリベラルな考えにふれて過ごすうちに、南ア社会の現実が見えてきたことが一因と考えられる。ここでの現実とはつまり、白人である自分が兵役に就くことがアパルトヘイトへ加担すること、つまり自分から抑圧者へと転じることであると悟ったのであろう。彼は、これまでどれほど自分が不自由な環境にいたか改めて実感したに違いない。その後の彼の経歴が、目を見張るものとなったのはよく知られている。彼は閉鎖的な南ア社会に抑圧され、内に秘めざるを得なかった才能をカナダやアメリカの自由な社会のもとで花開かせ、頭角を表していったといえる。情報統制、いじめ、徴兵。おそらく彼は、こうした南ア時代の社会的抑圧のトラウマから「自由」を至上とするようになったのだろう。

注.

★1―― マスク氏の父、息子の少年時代語る AFPインタビュー(2022年6月14日)

    【記事リンク】https://www.afpbb.com/articles/-/3408588

★2―― ロバート・ロス著、石鎚優訳『南アフリカの歴史』創土社、2009年

★3―― ナーレナード・トンプソン著、宮本正興訳『南アフリカの歴史』明石書店、2009年

★4―― イーロン・マスクが語らない「南アで育ったトラウマの過去」を父親が明かす クーリエ・ジャポン(2022年5月24日)

    【記事リンク】https://courrier.jp/news/archives/288976/

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