コメディとアブジェクション(おぞましさ):正しさ「だけ」が評価基準ではない、という当たり前のことについて
2023年3月4日にNetflixで公開された、クリス・ロックの「Selective Outrage(クリス・ロックの勝手に激オコ)」を巡る議論が続いている。
culture
2023/03/25
執筆者 |
柳澤田実
(やなぎさわ・たみ)

1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。

Twitter @tami_yanagisawa

■反<キャンセルカルチャー>ネタのマンネリ化

2023年3月4日にNetflixで公開された、クリス・ロックの「Selective Outrage(クリス・ロックの勝手に激オコ)」を巡る議論が続いている。昨年のアカデミー賞でロックがウィル・スミスに平手打ちされた事件を受け、今年のアカデミー賞に合わせて公開されたこのショーに対して、様々な感想(「まだやってるの?」的な内容も含め)がSNSを賑わせた。このショーのなかでロックは、スミス夫妻の不倫問題をネタにし、自分は、ジェイダの不貞に怒っているウィルに八つ当たりされたに過ぎないと発言した【記事リンク】(https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20230306-00339952)。このロック側の応酬に対して一連の批評記事が上がると、今度はウィル・スミスが失望を表明し【記事リンク】(https://news.yahoo.co.jp/byline/saruwatariyuki/20230310-00340510)、さらにはNetflixでショーが公開される前のロックのツアーで何が語られていたのか等々【記事リンク】(https://www.washingtonpost.com/opinions/2023/03/17/chris-rock-slap-oscars-netflix/)、関連記事が続いている。多くの記事は瑣末な内容を扱っているに過ぎないが、幾つかの記事中やそのコメント欄に「『キャンセルカルチャー』登場以降、かつて強烈に面白かったコメディアンが面白くなくなってしまっているのはなぜか」という本質的な問いが散見されるようになった。それは「キャンセルカルチャー」そのものに対する批判でもなければ、コメディアン自身に対する批判でもない。かつて鋭い洞察力に満ちていたコメディアンのギャグが、今なぜか「面白くない」ことに対する、オーディエンス側の率直な当惑である。

この問いに対してよく見られる回答は主に二つある。一つは「何を面白いと思うかについての感覚が時代とともに変わった」というもので、様々な差別を促進したトランプ政権を経て、暴力への感受性が高まっている今、当事者ではない者が社会的弱者をネタにすることは許容されなくなったという説明である。この感覚がわからない人は「時代遅れ」だとされ【記事リンク】(https://www.refinery29.com/en-us/2023/03/11316648/chris-rock-special-selective-outrage-reaction)、このレッテルは鋭利で冒涜的なギャグで名をなした中高年男性のコメディアンたち、先述のクリス・ロック、リッキー・ジャーヴェイス、デイヴ・シャペルらに貼られている(https://www.vulture.com/2020/06/dave-chappelle-846-is-powerful-but-not-quite-perfect.html)。もう一つは「貧困階層から億万長者になったコメディアンたちは、自分たちのいじりが、もはや強者から弱者に対する攻撃(パンチダウン)になっていることに気づいていない」というものだ【記事リンク】(https://www.nytimes.com/2021/10/13/opinion/dave-chappelle-netflix-trans.html)(https://www.elabo-mag.com/article/20211011-01)。

どちらの回答も一部の真実を言い当てているだろうが、「面白くない」原因はそれだけではないように思われる。LGBTQに関するジョークで最も激しく批判されたシャペルにしても、2018年にNetflixでリリースされた「Stick and Stone(デイヴ・シャペルのどこ吹く風)」は、LGBTQやペドフィリア被害者、レイプ被害者の扱いに関して評価が批判が寄せられたが、結果的にはグラミー賞、エミー賞三部門の受賞し、彼を擁護する批評も多かった。しかし、2021年の「Closer(デイヴ・シャペルのこれでお開き)」になると「ポリティカル・コレクトネス」の名のもとに自分に向けられた批判への弁明に終始している印象が強くなり、かつては弱者のために戦っていたシャペルが、今や「キャンセル」に怯えるセレブリティ仲間のためだけに戦っているように見えることは否定し難くなった【記事リンク】(https://www.nytimes.com/2021/10/13/opinion/dave-chappelle-netflix-trans.html)。同様に現在議論を巻き起こしている(少なくともメディアはこの議論を引き伸ばそうとしている)

クリス・ロックにしても、2018年にNetflixでリリースされた「Tamborine(クリス・ロックのタンバリン)」に対しては、レビューサイトRotten Tomatoesで100%の評価を23人の批評家が与えている。対して、今回のウィル・スミス事件への応答を冒頭とオチに持ってきた「Selected Outrage(クリス・ロックの勝手に激オコ)」については、すでに優れたレビューが示しているように(https://www.nytimes.com/2023/03/11/opinion/roxane-gay-on-chris-rock-special.html)、ロックのいつもの明るく愉快な雰囲気も鳴りを潜め、もはや聞き飽きた長々しい「キャンセルカルチャー」批判の下りによって、彼らしいギャグやラストの見事なパンチラインの煌めきが相殺されてしまっていた。

社会正義/「キャンセルカルチャー」に対する賛否によって構成される対立軸が、彼らのギャグの可能性を不必要に狭め、つまらなくしているように私には見える。そしてNetflix社は明らかにこの対立軸を執拗に強調している。Netflix 社は2021年にシャペルの「Closer」が従業員たちのプロテストを引き起こしてもなお、2022年にはイギリス人コメディアン、恐れ知らずのリッキー・ジャーヴェイスに痛烈な「キャンセルカルチャー」批判を披露させた(「Supernature(リッキー・ジャーヴェイスの現実主義)」)。このショーは想定通りの批判を巻き起こしたが【記事リンク】(https://www.vox.com/culture/2022/5/26/23141865/netflix-transphobia-ricky-gervais-supernature-terf)、Netflix側は続け様に次のジャーヴェイスのスペシャル「Armageddon」を予告した。この2024年公開のNetflixスペシャル「Armageddon」に向け現在進行しているジャーヴェイスのツアーについて、レビュワーはジェーヴェイスのファンであるからこそ以下のように文章を始めている【記事リンク】(https://www.chortle.co.uk/review/2023/03/16/52721/ricky_gervais%3A_armageddon)。

「リッキー・ジャーヴェイスについて書くにあたり、実際にライブでコメディを見ることがほとんどない人たちを虜にする、相変わらずの古臭い<キャンセル・カルチャー>の話をしないですむならば、どんなに良いだろう。」

■「タブーを犯す」というアートの本質

シャペルは、2022年に母校のデューク・エリントン芸術高校で演説を行い、自分の名前が冠されるはずだった同校の劇場を「芸術的自由と表現のための劇場(Theater for Artistic Freedom and Expression)」と命名することを発表した 【記事リンク】(https://www.dailymail.co.uk/news/article-10936627/Dave-Chappelle-announces-school-theater-WONT-named-following-outcry-trans-jokes.html)。他の場所でもシャペルはスタンダップコメディを「言葉のアート(芸術)」と呼び、「表現の自由」の重要性を主張している。スタンダップコメディのショーが完成されたアート作品であることには異論がないし、特に極めて構成力が高いシャペルのようなコメディアンが「アーティスト」であることは間違いない。しかしそうであるからこそ、シャペルには「表現の自由」というもはや政治的立場(それは右派にも左派にもある)のシグナリングのようになっている空疎なフレーズよりも、「タブーを犯す」ことこそスタンダップコメディというアートの本質であると端的に言ってもらいたいと思う。

「全ての創造の始まりはまず何よりも破壊活動だ」というピカソの言葉を出すまでもなく、既にある枠組みを壊すこと、「タブーを犯す」ことはアート、創造行為の本質である。明確に社会的な禁忌を犯すことを目指した20世紀の前衛芸術以前から、この「破壊による創造」というアートの性格は一貫していた。新しい表現方法を作り出すということ自体、それまでの自分の思考を規定している枠組みを破壊し、誰も試みていない領域に踏み込まない限り不可能である。問題は、タブーをどのレベルに設定するかであるが、その設定するレイヤーが、20世紀後半になって明確に「社会」になったと言えるだろう。1950年以降、社会的な常識や規範に挑戦する様々な作品が生み出された。

スタンダップコメディは19世紀に遡る娯楽であるが、その始まりから政治や宗教や人種などをジョークにする社会風刺的要素が含まれていたそうだ。そのため保守派からの抗議や警察による取り締まりを受けることは20世紀以前からあったと記録されている1。1960年代、ユダヤ人のコメディアンたちが中心となり、ニューヨークとシカゴという大都市圏で、スタンダップコメディは繁栄していく。セックス、中絶、同性愛など当時タブーとされていたトピックをジョークにしたレニー・ブルースが人気を博し、1970年代にはテレビや映画を通じ、コメディアンたちは全国レベルのポピュラリティーを獲得する。1970年代の「社会正義」を求めるアクティビズムからも影響もあり、リベラルな思想を持つコメディアンたちが格差や差別を暴き出すスタンダップが隆盛を極め、70年代にはリチャード・プライアー、80年代にはエディー・マーフィーといったアフリカ系の大スターが誕生する。先述のクリス・ロックやデイヴ・シャペルは、プライアーやマーフィーに引き続いて現れた、明敏な洞察力によって社会的な問題を扱いながらも爆発的な笑いを生み出せる天才たちであり、ロックは80年代末、シャペルは90年代からキャリアをスタートして現在に至る。

非常に興味深いことに、70年代以降のスタンダップコメディと現代アートは似たような問題を抱えていく。クレア・ビショップが論文「敵対と関係性の美学2」や著書『人工地獄:現代アートと観客の政治学』(原著2012 年、邦訳2016年3)の第一章で解説しているように、70年代以降、現代アート業界では「社会正義」が中心的な評価基準になり、正義を実現する道具のような作品が増えていく。90年代にもう一度大きな転回があり、アートは一層アクティビズムに接近し、観客を作品に参加させる「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」が増加する。これらの作品を評価する際にも、「社会正義」が評価基準とされることが多く、参加者が心地よく市民活動に参与できているか、主催している自治体にどれくらい貢献しているかが評価される。ビショップは、70年代以降の変化を「美学的な言説の社会学への横滑り4」と呼び、90年代の転換を「倫理的転回5」と呼んだ。要するにアートの評価基準を支える「美学(感性学)」が自律性を保つことができなくなり、私たちが作品を判断する時に「いかにそれが社会的に正しいか」あるいは「いかにそれが道徳的に正しいか」を基準にするようになったのだ。

ビショップはこの傾向を厳しく批判し「対立」や「否定」こそがアート作品を成立させる重要な要素であると主張するが、以上の議論はスタンダップコメディにもそのまま該当するだろう。私は優れたスタンダップコメディを観る時に、文字通り挑戦を受けている時の心地よい緊張感を感じる。マイク一本で舞台=リングに上がるスタンダップコメディアンは、観客に安寧や慰めではなく、破壊をもたらしにくる。彼らは私たちが物事を捉えているフレームを破壊し、考えてもみなかった景色を見せようとする。

「ロバート・カーダシアンは、O.J.シンプソンを弁護して無罪にした時に、彼の娘は未来永劫黒人としかfuckしたがらないという呪いを神にかけられた6

(注:ロバート・カーダシアンはカーダシアン家の父親で弁護士として妻殺害の容疑を掛けられたO.J.シンプソンを無罪にした。彼の娘、キム・カーダシアンはカニエ、クロエ・カーダシアンはNBAのラマー・オドムと結婚するなど皆アフリカ系のアメリカ人と結婚し、離婚している。)

というロックのジョークや

「日本に原爆を落としてハロー・キティが生まれた7

(注:シャペルはここでパッキャオのホモフォビア発言を擁護し、アジア人男性が歴史的にアメリカ合衆国によってどれほど痛めつけられ、男性としての尊厳を奪われてきたかについて話している。)

というシャペルのパンチラインを聞く時、オーディエンスは、考えてもみなかった発想に文字通り打たれ、揺すぶられ、あるいは、深刻な問題が余りにもくだらないことを通じて語られるそのギャップに思わず笑ってしまう。そして、笑った後に、個々のジョークの真意について、繰り返し考えさせられることになる。これこそがスタンダップコメディの「美学(感性学)」だと言えるだろう。

そこだけ切り抜くといかにもセンセーショナルな上記のような発言は、あくまでも特定のライブで「ジョーク」として表現されたもので、現代美術の用語で言えば「サイトスペシフィック(場所特定的)」なパフォーマンスである。舞台上で俳優が言ったことがその俳優の真意である必要がないように、ジョークはそのコメディアンが本当に思っていることである必要はない。しかし、現代のソーシャルメディアは、こうした「サイトスペシフィック」な言動を、全て等価に情報化し、断片化して流通させる。結果、そのパフォーマンスが成り立つ文脈や特異性を共有しない人たちの感情を不要に逆撫でし、炎上する。結果、ソーシャルメディアが浸透した2010年以降、スタンダップコメディも現代アートと同様、ますます社会学的基準や倫理的基準に侵食され、独自の美学の基準を保てなくなっており、衝撃の少ない微温的なスタンダップが実際増えているように見える。

■アブジェクション

こうした状況に腹を立てて、ベテランのコメディアンたちが「キャンセルカルチャー」批判や「ポリコレ」批判をしているわけだが、やはりこれが得策とは思えないのは、「社会正義」という基準が非常に厄介なものだからである。現状この基準は賛成/反対のどちらかしか許されない形で機能しているため、「ポリティカル・コレクトネス」をあらゆる事象の判断基準にすることに疑問を呈するだけで、「社会正義」自体に反対していることになってしまう。「敵か味方か」の乱暴な論法に巻き込まれることが自明であるから、このテーマが俎上に乗るだけで暗い気持ちになるオーディエンスは増えていると思うし(私もそうだ)、コメディアン自身もおそらく無意識的に身構えてしまうために、痛々しく見える。加えてより深刻なこととして、冒頭に述べたように、このポリコレ批判という主題自体がジョークの可能性を狭めているように見える。予め想定されたタブーを犯すことはもはや芸術ではない。比類のない才能を持つコメディアンたちには、かつてのように私たちが自覚できていないタブーに踏み込み、認識の枠組み自体を揺り動かして欲しいと思う。

例えば過激な下ネタは、舞台上のパフォーマンスだからこそ心底楽しめるものの一つだ。スタンダップコメディ特有の過激な下ネタについては、アメリカ文学者ジョン・リモンによる著書Stand-up Comedy in Theory, or Abjection in America★8(理論におけるスタンダップコメディ、あるいはアメリカにおけるアブジェクション)(2020年)の中に、リチャード・プライヤーを題材にした素晴らしい分析がある。

アブジェクションとは、哲学者・精神分析家のジュリア・クリステヴァの概念で、自らの一部でありつつ、分離し、棄却したいおぞましいもの、しかし同時に惹きつけられ、欲望せざるをえないものを意味する。精神分析の文脈ではそれは主に「母」を意味するが、クリステヴァ自身、血や糞尿も含め様々な境界的なものを含む広い概念として、芸術作品の解釈に用いている。リモンはアメリカのスタンダップコメディが、1960年代に、当時のアメリカ社会におけるアブジェクト(阻害されたもの)とも言える、ユダヤ人やアフリカ系のコメディアンによって完成された経緯を個々のコメディアンの芸を分析することによって論じている。特に「スカトロジー」と名付けられたプライヤーの「Live in Concert」を分析した第5章で、リモンはアブジェクトであるアフリカ系のプライヤーが、白人オーディエンスが多数いるライブショーで、文字通りアブジェクト(おぞましいもの)であるスカトロや下ネタによって、いかに包摂的な世界を描き出しているかを分析している。

このショーの中でプライヤーは、動物好きの彼自身が飼っている様々な動物の話をしている。小型の猿や複数の犬を飼っているプライヤーはついにミニチュアポニーを飼い始めたのだそうだ。ところが糞が臭すぎる。ハエさえその匂いに寄り付かない。一方、ミニチュアポニーを「尻尾の長い犬」だと思っている犬たちは、喜び勇んで走り寄ってくる。ミニチュアポニーの糞がとても臭いので犬たちは一瞬当惑するが、「犬には人種差別(レイシズム)がない」ので、一匹の大型犬グレート・デンは言う。

「なんか知らんが、とりあえずやっちまおう(I don’t know what it is, but I’m gonna fuck it.)」。

人種、性別、あまつさえ種が違ってさえいても、糞尿や性、リモンの言い方では「獣性(bestiality)」においてはみんな同レベルというスウィフト的な世界がここにはある。プライヤーのジョークは万事この調子で進むのだが(お好きではない方ごめんなさい)、彼自身の滑稽で優しげな佇まいも合間って、このショーを観るたびに私は幸福な気持ちになる。おぞましくも、親しみ深い、アブジェクションによる包摂(インクルージョン)である。

プライヤーは「Rolling Stone Magazine」の「50 Best Stand-Up Comics of All Time」(2017年)(https://www.rollingstone.com/culture/culture-lists/50-best-stand-up-comics-of-all-time-126359/)でも1位を獲得しており、先述のクリス・ロックもデイヴ・シャペルも彼から絶大な影響を受けていることで知られている。ウィットに富み、生理的で、おぞましくも魅力的な笑いの世界。スタンダップコメディ特有のこうした笑いの伝統を持続していくためには、オーディエンスも作り手も矜持をもって、ジャンルで培われてきた感性や美学を大切にしていく以外にない。これはスタンダップに限らず、アートであれ、文学であれ、音楽であれ、漫画であれ、より細分化された全てのジャンルであれ、該当することだと思う。「社会正義」の実現を望み、そのために努力することは、これまで長い時代をかけて作られてきた各ジャンルの表現の評価基準を「社会的な正しさ」や「道徳的な正しさ」に還元することを意味しない。また、あえて全否定しようとすることでかえってポリコレに囚われる必要もない。何がなんだかわからない理由で泣いたり、笑ったりする人間である私たちは、なかなか言葉にし得ない私たちの感性の深度を、未だ探究していくことができるはずだ。

注.

★1――スタンダップコメディの歴史については以下の書籍を参照している。

             Wayne Federman, History of Stand-Up: From Mark Twain to Dave Chappelle, independent Artist Media, 2021.

★2――クレア・ビショップ「敵対と関係性の美学」表象文化論学会編『表象』05、星野太訳、月曜社、2011年。

★3――Claire Bishop, Artificial Hells: Participatory Art and the Politics of Spectatorships, Verso,2012.

              邦訳:クレア・ビショップ『人工地獄:現代アートと観客の政治学』大森俊克訳、フィルムアート社、2016年。

★4――この問題はアートに限らず、様々な学問分野に関して言えることであり、今後検討すべき事柄だと思われる。

★5――「そこでは、作者性のすべての形式は権威と同等とみなされて、全体化に繋がるものとしてはねつけられる。そしてそれを理由に、乖乱や介入、または過剰な同一化といった芸術の企図は、「非倫理的」であるとしてすぐさま斥けられる。こうした作者性の毀損は、能動的/受動的な観者、自己中心的な/協調的なアーティト、特権的な/逼迫したコミュニティ、美学の晦渋/わかりやすい表現、冷やかな自治体/明るいコミュニティといった、短絡的な対立概念を根づかせてしまうのだ」(『人工地獄』 (Japanese Edition) (p.56). Kindle 版.)ビショップはこの「倫理的転回」という概念を哲学の文脈から援用している。人道主義を教条化するこうした哲学の流行に対して、これに反対するジャック・ランシエールやスラヴォイ・ジジェクがいるという図式が示されている。日本でもフランス現代思想の「倫理的転回」は影響力が大きかったが(筆者もその影響下で大学院生時代を過ごした)、昨今の「ケア」概念(これも70年代のアメリカ発の概念である)の流行も含め、こうした傾向がどのような意味を持つのかについては今後検討が必要だろう。

★6――Netflix スペシャル「Selective Outrage(クリス・ロックの勝手に激オコ)」(2023年)内でのジョーク。 【記事リンク

★7――このジョークが披露されているのはNetflix スペシャル「The Age of Spin(デイヴ・シャペルのデタラメだらけの時代)」(2017年)である。

★8――John Limon, Stand-up Comedy in Theory, or, Abjection in America (New Americanists) , Duke University Press, 2000.

★9――Limonの研究をふまえたアブジェクション概念によるコメディ分析は、より近年の作品にも見られる。例えばイッサ・レイの「Black Awkward Girl」に関するアメリカ文学者・レベッカ・ワンゾの論文がある。 “Precarious-Girl Comedy: Issa Rae, Lena Dunham, and Abjection Aesthetics,” Camera Obscura, (2016) 31 (2 (92)): 27–59.【記事リンク

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2023/03/25
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柳澤田実
(やなぎさわ・たみ)

1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。

Twitter @tami_yanagisawa

写真 | Singlespeedfahrer ( Wikimedia Commons )
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