When I Get Home:黒人の過去を定義する 黒人の未来を想像する
今月リリースされた、ビヨンセの最新アルバム『Renaissance』が大ヒットを記録している。6年前の『Lemonade』以降、社会派の側面を強調するスタンスに変わった彼女の最新作は、ボールルームカルチャーを敷衍した上で、女性、マイノリティをエンパワーする文句なしの傑作と言えるだろう。 
#When I Get Home #ソランジュ
culture
2022/08/05
執筆者 |
Ajibola Bodunrin

テキサス州ヒューストン出身の作家、思想家、クリエイター。ミュージックとカルチャーについて、そしてそれらがどのようにインターセクトし(交差し)、私たちを取り巻く世界の見方に影響を与えるかについて執筆している。

Instagram : @ajibodunrin

■解題  

 

今月リリースされた、ビヨンセの最新アルバム『Renaissance』が大ヒットを記録している。6年前の『Lemonade』以降、社会派の側面を強調するスタンスに変わった彼女の最新作は、ボールルームカルチャーを敷衍した上で、女性、マイノリティをエンパワーする文句なしの傑作と言えるだろう。

 

幼少期から姉ビヨンセと共に活動を続けてきたソランジュ・ノウルズも、姉を引き合いに出すことが失礼なほど優れたアーティストである。スターダムの王道を駆け上がった姉とは異なり、ソランジュは活動の当初から体制へのカウンター的なスタンスと社会的なステートメントを膨大な音楽ジャンルへのレファレンスと共に打ち出してきた。彼女が2019年にリリースした『When I Get Home』は類まれな世界観の構築と唯一無二のサウンドアプローチで、今なお高い評価を得ている傑作である。その一方で、そのサウンドや印象的なPVは決して一義的に理解しやすいものではなく、ソランジュが果たして、この作品で何を表現しており、それがアフリカ系アメリカ人にとってどのような受容をされてきたのかという記事や批評は筆者が知る限りほとんど存在しない。

 

今回、数少ない本格的なソランジュ批評とも言える、『When I Get Home : Defining the Black Past Imagining the Black Future』の翻訳を掲載する。『When I Get Home』と同時に公開された同名の映像作品を分析したこの論考は、Z世代のアーティスト・ライターであるAjibola Bodunrinによる。自身もアフリカ系アメリカ人である筆者のAjibolaは、『When I Get Home』をアフロフューチャリズムとアフロシュルレリズムという視点から分析し、その現代的な意義を論じている。アフリカ系アメリカ人が生きる現代を表現するために「過去」と「未来」のイメージをハイブリッドに用いるこれらの手法は、フェミニズムとも交錯するという。これらの方法を知ることは、ソランジュやビヨンセの作品はもちろんのこと、他の黒人アーティストの作品を理解する上でも有益な前提知識となるだろう。

 

記事で取り扱う作品は現在サブスクリプションおよび、サイトでの購入によってのみ視聴可能である。記事内においては〈〉にて、対応する映像の経過時間を掲載している。本稿を正確に理解するためには、一度視聴することをお勧めする。

 

Apple Music

https://music.apple.com/jp/music-video/when-i-get-home/1454474397?app=music&ign-mpt=uo%3D4

TIDAL

https://tidal.com/browse/video/125224274

 

■イントロダクション

 

ソランジュ・ノウルズ〔以下ソランジュ)自身の言葉を借りれば、『When I Get Home』はテキサスについての映像作品である。同名の彼女のアルバム『When I Get Home』の17のトラックと間奏に付随する映像としてまとめられたこのビジュアル・パフォーマンス・アートは40分に及ぶ。また、随所にテキサスの文化をモチーフにしたオマージュも盛り込まれている。この作品の構想は、2017年のハリケーン「ハービー」の被害を受けて考えられたものだが、それにふさわしく、破壊に対抗する方法を探るというアイデアが作品の中心になっている。この作品でソランジュは環境破壊だけでなく、Blackness〔=黒人らしさ〕の抹消に立ち向かおうするのである。

 

私たちの社会では、Blacknessが抹消可能なものとして扱われている現実がある。例えば、それは影響力だったり(アメリカ音楽のあらゆるジャンルの起源が文化的に乗っ取られていること)、身体(手錠縄と銃弾で執行される自警団の正義によって)、あるいは最も一般的な人間性(黒人のそれは何世紀にもわたる束縛と支配の下でないものとされてきた)も然りである。黒人の過去そのものが、このような抹消の主な対象となっている。白人の学者や人類学者は、文化的に適切だと思われるものを管理する立場から、黒人には文化的な歴史がないという物語を永続させてきた。このような過去の欠如は、ポピュラーカルチャーにおいて黒人の未来が不可能であるかのように見えることとも連関している。二つのSF、スペキュレイティブ・フィクションとサイエンス・フィクションはどちらも私たちの世界を超えた別世界や未来を想像するジャンルであるが、そのどちらに置いても白人男性は支配する立場に存在しており、黒人や女性を意味のある形で未来に含めることはなく、その未来の可能性を効果的に消し去っているのだ。

 

『When I Get Home』は、黒人を消耗品とするこれらの考えに対するソランジュの回答である。この作品は、多くのアメリカ人が知らぬ間に、そしてあからさまに刷り込まれている価値観に疑問を投げかけている。彼女はアフロシュルレアリズムとアフロフューチャリズムの概念を用いて、抹消とは無縁の世界を創造している。ソランジュは『When I Get Home』のビジュアルとリリックを通して、アメリカ文化がいかに根本的にBlacknessに根ざしているかを描き出している。さらに彼女はBlacknessの時間的な境界を破壊することで、黒人の未来がどのようなものになるのかを思考し始めているのだ。

 

■アフロシュルレアリズムとアフロフューチャリズム

 

『When I Get Home』の形式的な側面や、黒人の過去や未来の関係を分析する前に、この記事で引用し、応用するアフロシュルレアリズムとアフロフューチャリズムの概念を定義しておきたい。アフロシュルレアリズムとは、黒人を理解するためのオルタナティブな方法を模索するための学際的な美学であり、枠組みであると定義されている。この言葉はアメリカの革命的な作家であるアミリ・バラカ〔Amiri Baraka〕によって生み出され、アメリカの作家ヘンリー・デュマの作品を説明するために使われた。バラカは、デュマがいかにして自分の住む現代世界と接続した有機的なフィクションの世界を作り出すことができるかに興味を持っていた(Baraka, 2)。★1この現実世界との接続という考え方は、アフロシュルレアリズムの重要な側面であるだけでなく、『When I Get Home』においても適切なツールになっている。

 

ここで、作家でありアーティストでもあるD・S・ミラーを紹介したい。彼の論文「Afrosurreal Manifesto: Black is the New black - a 21st-Century Manifesto〔アフロシューリレアル・マニフェスト:ブラック・イズ・ニューブラック  21世紀のマニフェスト〕」★2におけるアフロシュルレアリズムという言葉の使い方は、『When I Get Home』の中でこの言葉がどのように機能しているかを説明する上で、最も役に立つものだと思われる。ミラーは、アフロシュルレアリズムを、過去を問い直し、黒人の生活の現代的な可能性を想像するためのツールだと説明している。彼の定義によれば、アフロシュルレアリストは、「現在」を「未来-過去」と捉えている。黒人や他の疎外されたグループは、その歴史において最悪な残虐行為を経験してきた、よってアフロシュルレアリズムは黒人の可能性を探るために未来に目を向け続けるだけではなく、その答えを見つけるべく過去を手がかりに現在を探訪するのである。(Miller, 114)。これに加えてアフロシュルレアリズムは、正常と考えられていることへの不服従と反抗の形として、ハイブリッド化を利用している。ソランジュは『When I Get Home』において、アフロシュルレアリズムを用いて、現代の黒人の生活の複雑さを表現している。例えば、彼女は作品全体を通してまるで夢の中にいるかのようなシークエンスを用いることで、テキサス人としての黒人の生活の代表的なイメージを表現している。しかし、彼女はこれらのイメージを、通常は現代のBlacknessに関連する形で使われていない黒人の過去に関連する他のモチーフと並置し、ハイブリッドに表現しているのだ。

 

一方で、アフロフューチャリズムは、アフロシュルレアリズムとは異なり、現在を超越した黒人の未来を想像することを主な目的としている。この言葉は、作家であり文化評論家でもあったマーク・デリー〔Mark Dery〕が1993年に発表した論文「Black to the Future: Interviews with Samuel R. Delany, GregTate, and Tricia Rose〔未来に向かう黒人:サミュエル・ドゥレイニー、グレッグ・テイト、トリシア・ローズへのインタビュー〕」★3で初めて使用した。ここでデリーは、Afrofuturismを次のように定義している。

 

20世紀のテクノカルチャーの文脈において、アフリカ系アメリカ人のテーマを扱い、アフリカ系アメリカ人の関心事を取り上げたスペキュラティブ・フィクション、さらに一般的には、テクノロジーや人工装具によって強化された未来のイメージを流用するアフリカ系アメリカ人の意義を指す。(Dery, 180)

 

アフロフューチャリズムは、単に黒人の未来だけにその関心の矛先を向けているのではない。黒人の過去と、それを消し去ろうとする積極的な努力が、アフロフューチャリズムの原動力とされるのである。映画監督であり、アフロフューチャリストでもあるコドウォ・エシュン〔Kodwo Eshun〕は、「Further Considerations of Afrofuturism(アフロフューチャリズムに関する更なる考察)」★4と題された論文の中で、帝国主義の元での人種差別の歴史、そして集団的な未来の創造から黒人が排除されているということから、植民地的記憶に異議を唱えるためには、対抗となる記憶を開発する必要があると指摘している(Eshun, 288)。しかしながら、ここで述べられている対抗的な記憶とは、黒人の過去の暗い側面を歪めたり、省いたりするためのものではない。むしろそれは、黒人のクリエイターたちに、自分たちが語りうるストーリーに対する主体性を与えるためのものだ。ソランジュは、黒人とテクノロジーの描写を通じ、対抗的な形でアフロフューチャリズムを実践している。

 

黒人として、私たちの生の現状は、抑圧と早死の可能性に満ちたものである。この現実は、私たちに、自分たちが存在する未来を想像することを困難にしている。しかし、このような状況だからこそ、私たちの可能性が構造的な抑圧に縛られない未来を想像することができるのではないだろうか。それは、私たちの現状から逃れたいという願望から生まれた未来である。

 

アフロフューチャリズムとは、ソランジュが現在の抑圧された状態を超えて、黒人の未来を想像するために使うツールと言える。この意味において、スサナ・モリス博士(Dr. Susana Morris)のアフロフューチャリズムの定義を用いながら、私は『When I Get Home』におけるその適用について説明したい。モリスは論文「More Than Human〔人間以上〕』★5においてアフロフューチャリズムを「西洋の進歩、アイデンティティ、未来の概念の枠を超えた、世界を知り、理解し、創造する方法」と定義している(Morris, 34)。ソランジュがこの作品において、黒人とテクノロジーを使ったのは、美学としてだけではなく、より大きな目的のためである。つまり、作品中の黒人とテクノロジーの並存は、ソランジュに、黒人の新しい可能性について語らせるのだ。

 

■黒人の過去

 

『When I Get Home』は、作品が始まった瞬間から、黒人の過去を定義し始める。作品の最初のビジュアルは、暗闇に囲まれた明るいスポットライトのショットで始まり、カメラは、頭と顔をダイヤモンドのショールで完全に覆った人物のワイドショットに目線を下ろしていく。そして、ワイドショットから人物の頭にクローズアップしてダイヤモンドが揺らめく様子をスローズームで撮影した後、突然、人物を後ろから撮影した別のショットに切り替わる。次にこの人物はダイヤモンドのショールを身にまとい、両手を広げてソランジュを見下ろし、両手を空に上げて賛美しているかのように見える。その姿は、西アフリカの伝統的な仮面舞踏会であるエグングン〔Egungun〕を彷彿とさせる。 

ナイジェリアのエグングンの衣装

 

この習わしでは、精巧な衣装と仮面を用いて、祖先やその他の重要な霊を表現する。特に、黒人女性であるソランジュが、祖先の象徴であるエグングンの像の前で日光浴をし、踊るというイメージには、深い意味がある。〈0:00~01:05〉

 

 

*こちらのYoutubeで公開されているMVは、冒頭の4分57秒まで本稿で論じている映像作品『When I Get Home』と同じものである。

 

このシークエンスの中で、ソランジュは繰り返し "I saw things I imagined. "と歌っている。この歌詞は、アフロシュルレアリズムの概念に直結している。植民地主義、奴隷制度、その他数え切れないほどの要因によって、黒人の過去はバラバラにされ、アフロ・アメリカンにとって簡単にアクセスできないものになってしまっている。ソランジュは多くの意味でこの仮面舞踏会を再構築し、現代の聴衆にとって具体的なものにしている。このシンプルな描写の中で、彼女はすでに、私たち黒人が現実世界では与えられない方法で、現在から過去へのリンクを作り始めているのである。先述したD・S・ミラーの「Afrosurreal Manifesto」には、「アフロシュルレアリストは、過去の儀式を回復させる。(中略)彼らは、新しい視点によって古い方法を再構築する」と記されている(Miller, 116)。このシーンは、黒人の過去とその精神的実践を表現するモチーフとして、エグングンの象徴を確立するのに役立っている。

 

曲とシーンが進むにつれ、カメラは2人の周りを回り、ソランジュはその人物の前で踊り、カメラはパンして暗闇の中に入る。次に暗闇の中から、人里離れた暗い舗装道路で馬に乗り、鳥籠のような仮面をつけた黒人男性が映し出される。このショットは光量が少なく、わずかに飽和しているが、道路、馬、そして馬に乗っている男も特に変わったところはない。〈01:05~01:20〉

 

しかし、このショットは別世界のものであるかのように感じられる。ソランジュの歌ではなく、宇宙船を想像させるシンセサイザーのような音が聞こえてきて、さらにこのシーンはこの世のものではなくなっていく。ここで初めて、ソランジュはブラック・カウボーイというモチーフを立ち上げる。★6このブラック・カウボーイが登場する部分では、ソランジュはもう歌っていないが、このシークエンスはオープニング曲「Things I Imagined」の中で起こっており、この曲の歌詞は、これらの映像のテーマと関連していることが改めて確認できる。

 

ブラック・カウボーイという概念は、抹消された黒人文化の典型的な一例である。カウボーイとはアメリカ文化を代表する歴史的人物像の一つである。彼らは野生の土地とネイティブ・アメリカンを手なずけるハンサムな白人男性として描かれることが多い。たとえ黒人のカウボーイが出てきたとしても、それは見過ごされた過去の遺物であり、今は必ずしも存在していないものとして描かれることが多い。ソランジュは『When I Get Home』の中でブラック・カウボーイを取り上げ、歴史的な存在としてのブラック・カウボーイを再構築しつつ、その現代的な影響力を肯定しているのである。

 

この冒頭の曲でソランジュは、エグングン像とブラック・カウボーイを作品全体のモチーフとして確立している。両者とも歴史的な過去に根ざしているが、ソランジュ自身が現在の黒人の状態を定義する上で大きな役割を果たしている。さらに、これらのモチーフは、彼女がアフロシュルレアリズム的なアプローチでこの映像作品の中のBlacknessを描き出すための基盤となっている。D・ミラーは『Afrosurrealism Manifesto』の中で、アフロシュルレアリズムの美学を「失われた遺産を扱うもの」と表現している。奴隷制の時代から奴隷解放の後も、テキサスの黒人はカウボーイとして働いており、南北戦争の後、テキサス州の牧場労働者の4分の1は黒人だった。何世代にもわたってこの仕事を続けてきたことで、ヒューストン市内の黒人家庭にはカウボーイ文化が根付いたのである。しかし、黒人のカウボーイをネットで検索すると、彼らの物語が消えてしまったことや、大衆文化の中で彼らの存在が失われてしまったことについての記事が数多く見つかる。

 

ブラック・カウボーイのモチーフは『When I Get Home』に何度も登場するが、中でも『My Skin My Logo』〈トラック11、映像においては21:30~22:38〉という曲の中で最もパワフルに描かれている。この曲のオープニングショットに登場するのは、未舗装の道路で馬に乗る黒人男性のグループである。他の黒人のカウボーイとは異なり、彼らは現代の普通の服装をしている。カウボーイハットやライディングジャケットの代わりに、Tシャツやベースボールキャップを着用しており、ある一人は、幼い娘を連れて鞍に乗っている。シーンが進むにつれて、アトランタのラッパーGucci Maneが、”my skin my logo!”と叫ぶのが聞こえてくる。この発言は、彼らのBlackness(=肌)が黒人描写の中心テーマであることを明らかにしている。

Black cowboy 

このショットに続いて、年齢も性別も異なる黒人たちが馬に乗り、典型的なテキサスのトレイルライドに参加している様子が映し出される。このトレイルライドは、黒人らしさとテキサスの伝統的な文化とが融合した文化的交差点と見なされるべきである。この表現のユニークさによって、ソランジュがトレイルライドをハイブリッド化し、カウボーイ・カルチャーという概念を覆す瞬間は、完璧なものになっている。

テキサスのトレイルライド 

曲中、ソランジュが“Comin’ down hard /Comin’ down clean /Coming down main”と歌いながら、背後でコーラスが”got the swingers on”と繰り返すシーンがある。この2つの言葉は、最近のヒューストンのヒップホップとカーカルチャーに関連する言葉であり、スインガー(Swinger)とは、ヒューストンの黒人なら誰でも知っているような、クラシックなワイヤースポークのホイールを指す。この歌を歌っているときに、小さな馬車に3人の男が乗っているシーンがあるが、その馬車の車輪にはスインガーが付けられている。このシーンで「ブラック・カウボーイ」は、D・ミラーの言うところの 「未来-過去」に到達する。この時点まで観客は、ブラック・カウボーイを、この文化における黒人の遺産を象徴するものとして見ていたが、このシークエンスではブラック・カウボーイの「現在」の姿を見ることになる。それに加えて観客は、ブラック・カウボーイがいかに文化の中にBlacknessを注入し続けているのかを見ることになる。

 

『When I Get Home』におけるブラック・カウボーイの使用は、アルバムにおいては『Exit Scott(interlude)』で一巡する。ここでソランジュは、1曲目で登場した鳥籠のようなマスクをしたブラック・カウボーイを再び登場させるが、今回そのフレームはより接近してカットされており、ショットは暗く、赤に染まり、別世界のような雰囲気を醸し出している。暗闇に入ると、ブラック・カウボーイがロデオに参加している小さなアーカイブビデオがフレーム内に現れ、乗り手は光に照らされるようになる。乗り手は暗い舗装された通りを歩き始め、彼が最初に登場したシーン〈01:05~01:20〉を再現する。もはや空想や非現実的な要素に覆われていないブラック・カウボーイは、アーカイブ映像によって彼のイメージを現実と今に根付かせることで、新たに立ち現れる。〈27:23~、下のYoutubeの動画では01:57~〉

 

 

アフロシュルレアリズムのおかげで、ソランジュは、ブラック・カウボーイを、失われたと思われているブラック・レガシーの持続力の表象として用いることができる。彼女の作品は、ブラックカウボーイの初期の描写が夢のようで幻覚的であったように、目に見えない世界から始まる。これらのイメージは、私たち黒人の過去と現在の現実的な瞬間と結び付き始めると、より強い力を持つようになった。非現実的なものが現実と結びついたこの瞬間に、ソランジュはBlacknessとその過去についてステートメントを出すことができるのだ。そして『When I Get Home』の中で、ブラック・カウボーイは、自分たちが認識している時間の枠を超えることができる。ソランジュは、過去における彼らの存在を確認し定義するだけでなく、彼らが現在も存在し続けることを示すのである。

 

■黒人の未来

 

『When I Get Home』全体に通じる、広範かつ重要なテーマは、黒人の未来という文脈におけるBlacknessが、ジェンダーやセクシュアリティといった他のアイデンティティとどのように交わるか〔インターセクトするか〕ということである。黒人女性として、黒人女性であることの未来を定義することは、ソランジュにとって本質的な使命である。アフロフューチャリズムについて、またアフロフューチャリズムがこの作品の中でどのように作用するかを考えるとき、先述したモリスの論文「More Than Human」の中で述べている分析を参照することには意味がある。モリスは、私たち黒人の現況は、白人至上主義と帝国主義に悩まされていると指摘する。それゆえに、黒人を未来の中心、その軌道の主体として思い描くことは、それだけで革命的な行為なのだ。彼女はまた、黒人女性が複数の抑圧的な体制の交差点に存在し、しばしば彼らの未来への想像力が無視されたり、衰退させられたりしていることを理解している(Morris, 33)。このことは、黒人男性や黒人女性が、フューチャリズムの描写が典型的に構築される場である科学小説や推理小説に通常登場しないことからも明らかである。これらの世界は、たいてい白人男性によって創作され、黒人女性の論理や感性をその作品に取り込むことはないのだ。モリスはさらに、アフロフューチャリズムと、黒人の内面の構築におけるその役割に焦点を当て、アフロフューチャリズムを、黒人アーティストが、黒人として期待される範囲を超えて探求するために用いる内部空間と定義する(Morris,35)。これらのツールを使うことで『When I Get Home』は、想像の未来の中心に黒人の女性性を置き、現在の文脈を超えて探求することができるのだ。

 

フューチャリストとしての描写が見られる最初のシーンは、『Can I Hold the Mic』の間奏と 『Stay Flo』という曲の中にある。〈トラック5,6、映像においては07:45~〉この部分は、SUVと思われる車に座った2人の女性が、大きなマイクをめぐって争っている映像で始まる。ビデオに写っている2人の女性は、『Knuck If You Buck』で知られるアトランタのCrime Mobのメンバー、ダイアモンドとプリンセスだ。

 

                          Knuck If You Back - Crime Mob

 

彼女たちは、お互いに笑い合いながら、どちらがマイクで話すかについてもめている。プリンセスが「Please can I hold the mic? 」と話し始めるが、ダイヤモンドがマイクを引っ張って話を遮る。ここで、プリンセスの態度が変わる。マイクを取り戻しカメラを真剣に見て、観客に向かって「I would like to say that」と話し始めるのだ。このショットで描かれている葛藤は、これから描かれるフューチャリストの描写に豊かな文脈をもたらしているように思われる。なぜなら、この場面では現代社会に生きる黒人女性たちが、自分の真実を伝える機会を得るために奮闘している姿が描かれているからだ。作品が進むにつれ、ソランジュはアフロフューチャリズムを用いて、黒人女性が、自らの経験を率直に話すことができる空間を作り始める。

 

プリンセスが発言を終える前に、作品は黒人女性の目を極端にクローズアップしたショットに切り替わる。〈07:52~〉周囲の状況はよく見えないが、ゴーグルのような透明な眼鏡をかけ、操作パネルのボタンのような無数のカラフルな光が顔に反射していることから、未来的なシーンだと思われる。カメラはゆっくりとズームアウトし、ボタンやライトが彼女の顔を点滅させ、彼女は目を閉じて深く考えているように見える。プリンセスの音声が途切れた直後、続きのようにソランジュのボイスオーバーが始まる。

 

“I can’t be a singular expression of myself/ There’s too many parts, too many spaces/ Too many manifestations, too many lines/ Too many curves, too many troubles/ Too many journeys, too many mountains/Too many rivers, so many.” 

 

「私を単一の表現にとどめることはできない/あまりにも多くの部分、あまりにも多くの空間がある/あまりにも多くの表現、あまりにも多くの線がある/あまりにも多くの曲線、あまるにも多くの悩みがある/あまりにも多くの旅、多くの山/あまりにも多くの、夥しいほどの川がある」

 

この音声は、プリンセスの「I would like to say that」の発言の続きとして機能するだけでなく、ソランジュが未来の黒人女性を代弁する形で、私たちの目の前で彼女が創造する未来的な世界に、これらの論理を吹き込むように導く。

 

ここから映像は、女性とその周囲の様子を写したミディアムショットに切り替わる。彼女は回路とワイヤーに囲まれていて、頭だけが露出しているように見える。そして後ろからのカットでは、SF映画のセットの一部のような大きなコントロールパネルの前にいるその女性が映し出され、何か未知の作業(おそらくナビゲーション)をしている様子が何度も映し出される。その女性は作業を続け、最終的には機械から文字通りの火花が飛び散るが、彼女は構わず自信を持って機械を操作し続ける。〈07:51~〉『Black to the Future: Interviews with Samuel R. Delany, Greg Tate, and Tricia Rose』★7において、マーク・デリーのインタビューを受けたアメリカの社会学者トリシア・ローズは、アフリカ系アメリカ人が技術を習得しているという事実は、アフリカ系の人たちの現在の技術へのアクセスが限られていることを考えると、一般的にある程度の畏敬の念を抱かせると述べている(Dery, 212)。この畏敬の念は、『When I Get Home』では、黒人女性がテクノロジーの達人として登場することで、より強く感じられるようになる。つまり黒人の女性が主流の文脈で技術に精通した人物として描かれることはほとんどないという事実を考えると、『When I Get Home』で描かれている姿への畏敬の念が高まるのだ。

 

シーンが進むにつれ、女性の周囲の様子が見え始め、私たちの畏敬の念はさらに高まる。彼女はメタリックシルバーのツーピースを着て、太ももまであるストラップヒールを履いている。現在の構築された論理の下では、おそらく彼女は過剰な性的対象化と物体化の対象となり、彼女の能力や技術的な知識は主な特徴として強調されることはないであろう。しかし、ソランジュが既に述べていたように、この女性は単一の表現に収まってはいない。この未来では、黒人女性はセクシュアリティの体現者であると同時に、未来的なテクノロジーを使いこなす存在なのである。アフロフューチャリズムとフェミニズムの結合について、モリスは『More than Human』で次のように述べている。

 

「それは、人種だけでなく、ジェンダー、セクシュアリティ、能力、その他の被写体の規範的な境界を越えるための(フェミニズムの)能力を拡大するものである。」(Morris, 34)。

 

この場面は安易に現代として設定することもできたはずだが、それでは女性を取り巻く意味合いは大きく変わってしまうだろう。アフロフューチャリズムを取り入れることで、この黒人女性は、現在の論理の下で彼女に与えられるであろう期待や特性を超えていくことができるのである。

 

場面が進み、新たな場所に切り替わる。〈09:20~〉ここでは、女性が大きなパネルを砂漠のような場所で引きずっている様子が、やや低めのアングルと中くらいのサイズで撮影されており、女性の身長が強調されている。パネルのサイズが明らかに大きいにもかかわらず、女性はパネルと同じくらい背が高く、誰もいない道を機械を引きながら、堂々と目的を持って歩いているように表現されている。ここで彼女は、性的な冷やかしを受けたり、人々が彼女の服装に疑問をもったり、あるいはその見た目から人々を脅かしたり、怖がらせたりするといった現代的な問題に対処する必要はない。この場面は、黒人の内面性が実現されている重要な例である。アフロフューチャリズムは何もないところに存在するのではなく、常に私たちの現在の状態、さらには過去の状態に対する反応なのである。ここにフェミニズムを取り入れると、アフロフューチャリズムは女性の現在の状況への反応となる。モリスがこの概念を用いた場合、アフロフューチャリズムのフェミニズムは、堂々とした黒人女性らしさを用いることで、Blacknessへの恐怖とMisogynoir (ミソジノワール)★8の両方に応答することができる(Morris, 37)。『Stay Flo』という曲が進むにつれ、観客はそれらの意味を体現しているのを目の当たりにする。ビデオのこのセクションで最も強烈な瞬間のひとつは、パネルの前に座っているメインの女性が、黒い服を着ている7人の黒人女性に囲まれているのを観る時に起こる。〈10:16~〉メインの女性は力強く、明らかにリーダーシップを発揮しているように見える。大きな機械の前でポーズをとっている彼女は、多くのメディアで黒人女性を描くときにはあまり用いられないカリスマ性と威勢の良さを醸し出している。彼女はパワフルに描かれているが、フレーム内の他の女性を犠牲にしているわけではなく、それぞれの女性は画面を横切って暗闇の中に入っていくとき同様にパワフルに描かれている。彼女たちは単にこの未来に存在しているだけではなく、この未来を所有し、コントロールするレベルに達しているのである。

 

この未来的な文脈における黒人女性の描写は、黒人の女性性に負わされた現在の規範的かつ体系的な境界線を覆すものだ。彼女たちは、多様性のボックスをチェックするために描かれているわけではないし、満たすべきノルマが存在しているわけではない。彼女たちは、敢えて非性的にされた〔desexualized〕女性でもなければ、過剰に性的にされた〔oversexualized〕女性でもないのだ。ソランジュが構築したこの未来では、揺るぎないパワフルな黒人女性らしさこそが現実であり、それはあけすけである以上に、確信に満ちていて、当然のものとされている。『When I Get Home』におけるアフロフューチャリズムは、黒人の現状が黒人女性らしさを滲ませ、増幅させる世界を、ソランジュが創り出すことを可能にしている。彼女の登場人物たちは、歴史的に未来の描写を支配してきた白人男性の感性から初めて解放された構造の中で生きているかのようである。

 

■おわりに

 

ソランジュは、過去、現在、未来を描く中で、忘れられた歴史、実現していないフラストレーション、正常化されたインターセクショナリティを利用しながら、Blacknessを中心に据えている。彼女はBlacknessの存在を掘り起こし、隠されていた場所から抽出しているのである。Blacknessが常に抹消されている世界のなかにあって、ソランジュは『When I Get Home』ではBlacknessを世界の支柱として保持している。アフロシュルレアリズムとアフロフューチャリズムはどちらも、それぞれ現代と未来の文脈におけるBlacknessの可能性を再び想像し、説明することに根ざしている。ソランジュは、社会がどれだけ黒人を葬り去ろうとしても、黒人はこれまでも、今も、そしてこれからも存在し続けるということを観る人に理解してもらいたいと考えている。さらにソランジュは、Blacknessが過去に実際に社会を動かしてきたように、インターセクショナルなBlacknessは、白人の世界の中に綺麗に収められた一面ではなく、未来社会の原動力になりうるということを観る人に伝えたいのである。アフロフューチャリズムとアフロシュルリアリズムは、黒人の学者やアーティストにとって、過去・現在・未来の描写に黒人が主体的に関与できる現実を構築するための、非常に重要なツールである。そして、ソランジュによる『When I Get Home』の映像作品は、これらの概念を応用して、私たち黒人の存在のニュアンスを映像と音で表現したアフロフューチャリズムとアフロシュルレアリズムの傑作となっている。

 

*記事の原文は以下からアクセスできる。

When I Get Home: Defining the Black Past Imagining the Black Future

https://medium.com/@abod/when-i-get-home-defining-the-black-past-imagining-the-black-future-d1bf4730736c

★1 ―― Baraka,Amiri. “The Works of Henry Dumas — A New Blackness.” Black American LiteratureForum, vol. 22, no. 2, 1988, pp. 161–163.

★2 ―― Miller,D. Scot. “[Document] Afrosurreal Manifesto: Black Is the New Black — a21st-Century Manifesto.” BlackCamera, vol. 5, no. 1, 2013, pp. 113-117. 

★3 ―― Bould,Mark. “Afrofuturism and the Archive: Robots of Brixton and Crumbs.” ScienceFiction Film and Television, vol. 12, no. 2, 2019, pp. 171–193.

★4 ―― Eshun, Kodwo. “Further Considerationson Afrofuturism.” CR:The New Centennial Review, vol. 3, no. 2, 2003, pp. 287–302.

★5 ―― Morris,Susana M. “More than Human: Black Feminisms of the Future in Jewelle Gomez’sthe Gilda Stories.” TheBlack Scholar: On the Future of Black Feminism, Part 2, vol. 46, no. 2,2016, pp. 33–45.

★6 ―― ソランジュがこのアルバムでカウボーイのモチーフを用いた理由、テキサス州ヒューストンを今作品の基盤にしていることはトレバー・ノアのデイリーショーにおいても言及している。

 

また、アルバム16曲目にあたる『Exit Scott (interlude)』においても、ヒューストン出身のフェミニストでレズビアンの詩人パット・パーカー(Pat Parker)の詩をサンプリングしており、ソランジュの徹底した姿勢を垣間見ることができる。

https://www.bustle.com/p/the-pat-parker-sample-on-solanges-album-is-a-tribute-to-a-poet-who-fought-for-justice-equality-16440012

★7 ―― Dery,Mark. Flame Wars: The Discourse of Cyberculture /. Durham, NC: Duke UniversityPress, 1994.

★8 ―― 黒人女性に向けられたミソジニーを意味する。

 https://dictionary.cambridge.org/ja/dictionary/english/misogynoir

その他の参考資料

Francis, Terri. “Close-Up: Afrosurrealism:Introduction: The No-Theory Chant of Afrosurrealism.” Black Camera — A MicroJournal of Black Film Studies, vol. 5, no. 1, 2013, pp. 95–112.

culture
2022/08/05
執筆者 |
Ajibola Bodunrin

テキサス州ヒューストン出身の作家、思想家、クリエイター。ミュージックとカルチャーについて、そしてそれらがどのようにインターセクトし(交差し)、私たちを取り巻く世界の見方に影響を与えるかについて執筆している。

Instagram : @ajibodunrin

訳・解題 |
眞鍋ヨセフ

24歳。elabo youth編集長、Kendrick Lamarを敬愛するHiphopオタク。映画、アート鑑賞、読書が趣味。

クラウドファンディング
Apathy×elabo
elabo Magazine vol.1
home
about "elabo"