自由が好きなフェミニストが、結婚したくなった
私は高校の時、服装や髪型を男っぽくすることで身を守っていた。韓国の「脱コルセット運動」(通称「脱コル」)と似たような考えで、化粧や恋愛、結婚など伝統的に女性性を強調するような行為は、避けていた。
#Z世代 #フェミニズム #結婚
identity
2023/04/17
執筆者 |
Erie Kawai
(かわい・えりー)

2001年生まれ。国際バカロレア取得後、モナシュ大学に在籍し、政治とメディア学を同時専攻する。日々海外のメディアや大学の授業を通して、日本と海外の視点の違いに注目しながら社会問題を扱う。

私は高校の時、服装や髪型を男っぽくすることで身を守っていた。韓国の「脱コルセット運動」(通称「脱コル」)と似たような考えで、化粧や恋愛、結婚など伝統的に女性性を強調するような行為は、避けていた。

この現象については、VOGUEの記事や、こちらの文献にて詳しく知ることができるが、私のやっていた「脱コル」は、社会からの押し付けられる「女性性」のプレッシャーをラディカルな方法で打破する手法として、化粧をしない、女性らしい格好をしないという行動を取るということだった。

日本の高校に通っていた私は常に「結婚は絶対にしない。するとしても同性婚が認められて女とするに限る」などと言っていた。自分自身はバイセクシャルなので、その可能性は十分にはあったが、今振り返れば、私は本気で結婚を嫌っていたわけでも、女性だけと結婚しかしたかったわけでもなかったと思う。

なぜなら、現在私は男性のパートナーがいて、真剣な付き合いをして1年以上が経っていて「結婚」という言葉に否定的な感覚がほとんどなくなってきたからだ。オーストラリアの大学に進学し、当地に住んでそろそろ一年半が経つが、どうしてそのような心情の変化が起きたのだろうかと、今一度考え直してみた。

その結果、私は「partner(パートナー)」はずっと欲しかったけれど、「妻」にはなりたくなかった、そして「parent(親)」にはなりたかったけれど、「母」にはなりたくなかったのだ、という事実に気がついたのであった。

幼い頃から私は、バーベキューでは、母の手伝いとして野菜を切ったりしたりもしたが、どちらかというと火おこしを父と一緒に楽しんだ方だったし、学業についても中学生の頃から海外大学に進学することを目指して、頑張って勉強してきた。

仕事面でも、子供の有無に関わらず、高収入で長期的なキャリアを形成したいと思い続けてきた。

しかし一昔前の日本のテレビや親の生き方に影響され、私は、日本で「妻」になるとは、夫の帰りを夕飯支度とともに待つことであったり、「激務」のオフィスワークから逃れて、幸せそうに寿退社することがスタンダードなのかと思っていた。また日本で「母」になるということは、主婦か、パートタイムとして低収入を受け入れながら子供の送り迎えをすることなのだと思い込んでいた。

私の母が、父の会社のために、妊娠のために、父の海外赴任のために、何度も転職しキャリアを諦めたように、「結婚し、母になること」というのは、他人に人生の全てを振り回すことを許さなければいけないのだ。そう思っていたからこそ、ショートヘアの高校生の私はこう言い続けていたのだ。

「結婚なんて、死んでもするものか」



■既婚女性は、早死にでもある

日本で結婚することが女性にとってマイナスであるということは、単に私の個人的な経験に基づく感慨ではなく、客観的な事実でもある。

例えば、日本では独身男性と既婚男性の平均寿命が15年以上も差があるのに対して、女性はその差は小さく、それどころか配偶者がいる方が少しだけ寿命が下がることがわかっている。

参考記事:「いのち短かし、恋せぬおとこ」未婚男性の死亡年齢中央値だけが異常に低い件

そのため、「結婚が女性の幸せだ」という思想は、明らかに結婚で得をする男性が作った嘘の言葉であり、私はそれを見抜いていたからこそ、「そんなものに騙されるものか」と結婚を断固拒否していたのである。

ところがオーストラリアに来て、共働き・家事分担が当たり前の文化に触れ、この結婚観が偏っていたことに気がついた。

もちろん、オーストラリアもまだまだなところはあって、男女の賃金格差は存在するし、子供がいることで幸福度が下がるという「親ペナルティ」が存在する。

参考記事: 「子どもをもたない幸せ」も感じられてこそ 少子化、専門家の提言

だが、私個人の経験としては、オーストラリアの方が、男女平等で、ジェンダーにとらわれない生活がある手応えを感じた。

例えば、私がパートナーよりも長時間のアルバイトをして、より多く家賃を払っていた時には、彼が夕飯支度をして待っていてくれたこともあったし、逆に私がアルバイトの求職中だった時期には、彼がデート代を多く払い、私が彼の部屋の掃除をしていたこともあった。

こうした経験を通して私は、徐々に結婚という単語に対して、拒否感が薄れていったのだった。

■男と女ではなく、個人として生きられる社会へ

結婚が、自由な若者を「旦那」と「お嫁さん」という社会的な箱に仕舞い込むわけではない。社会やメディアがそういったメッセージを押し付けてくるだけで、自分達には自分たちの結婚のあり方を決める自由があるはずだ。日本でも「結婚」には幸せなイメージがあるし、実際自由に過ごしているカップルもたくさんいる。

しかし、そうだとしても、オーストラリアなどの欧米諸国と比べると、日本では性別に基づいた役割分担が結婚に付随することは否めない。この状況をどうしたら変えることができるだろうか?

まず、共働き制度について考え直す必要がある。「欧米では当たり前の共働き」という言葉さえもう古い。なぜなら日本でも、もうすでに大勢の女性が働いているからだ。だからこそ、男性の労働時間の減少、それとともに家事の時間を増やすことが大切だ。

例えば、北欧では、男性の育休が義務付けられている。

参考記事:フィンランド、育休期間を父母同じに 父子一緒の時間を増やす

こうした制度を導入している国では「女性を雇うと働かなくなる期間がある」という考えには一切至らず、従業員を雇うというのは、その人がいつか半年ほど休職し、それに給料を払うという責任が伴うという意識が生まれる。つまり、女性を本質的にただの一従業員として扱えるようになるのだ。

加えて、婚姻に関するさまざまな融通性を高めることも必要だ。例えば夫婦別姓は女性のキャリアが築きやすくなるために一役買うし、ジェンダーレスの視点から、同性婚を認めることも重要である。結婚は現在すでに、男性と女性が決められた役割をこなして生きてゆくためというよりは、愛する2人が儀式として、また家のローンや治療の同意者になるなどの制度的な利点を得るためにするものになってきている。上記のような制度を必要とするカップルに性別など関係ないはずだ。

男や女という言葉が概念としてしか使われず、出生時の雄雌の意味とは違うものになっていくこの世の中で、日本の現在の婚姻に関する法律が時代遅れなのは間違いがないと私は思う。性別という社会的な役割分担が人々を生きにくくさせないために、日本は制度的にも変化するための一歩を踏み出す必要がある。そのためには、私たちも勇気を出して違和感を声に出し、変化を促していく必要があるだろう。

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2023/04/17
執筆者 |
Erie Kawai
(かわい・えりー)

2001年生まれ。国際バカロレア取得後、モナシュ大学に在籍し、政治とメディア学を同時専攻する。日々海外のメディアや大学の授業を通して、日本と海外の視点の違いに注目しながら社会問題を扱う。

Photo | Atsuya Morioka
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