「人種というカード」を回転させ、次の扉を開いたドラマ『BEEF(逆上)』
「アジア系アメリカ人の経験とは、自分は他の人たち皆のことを考えているのに、誰も自分のことを考えていない時のようなものなのではないか、と思うことがあります。」
#beefNetflix #ビーフ #逆上
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執筆者|
elabo編集部

Netflixドラマ「Beef(邦題:逆上)」が4月6日に公開された。既に様々なレビューで「これまで観たことがないドラマ」「アジア系アメリカ人の新境地」等々、その革新性に対する賛辞が鳴り響いており、A24が手がけた作品としても『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アットワンス』に匹敵する注目を集めつつある。タイトルとなっている「Beef(ビーフ)」とはヒップホップを聴く人にはおなじみの罵り合い、喧嘩のことだ。このドラマは、二人の主人公同士の執拗なやり合い=ビーフとその揉め事から芋づる式に派生するトラブルによってダイナミックに展開する。

全てはLAのホームセンターの駐車場で始まる。バックしてきたダニー(スティーヴン・ユアン演じる)のピックアップトラックに対して、ぶつかりかけた高級車SUVを運転するエイミー(アリ・ウォンが演じる)が、これ見よがしに長々とクラクションを鳴らす。カッとなったダニーに対し、エイミーは窓の外に中指を突き出すと、更に煽られたダニーは運転手が誰かもわからないままにエイミーのSUVを追跡する。一旦エイミーの車を見失ったダニーはナンバープレートから彼女の家を探し出し、近所の修理工を装って彼女の家に入り込み、洗面所に小便を撒き散らして復讐する。激昂した彼女が今度は逃げていくダニーのトラックのナンバープレートから彼の正体を突き止め、際限のないビーフの幕が切って落とされるのだ。

車種からも明らかなように、共に東アジア系のアメリカ人である二人の間には大きな経済的格差がある。建設業を営むダニーは事業を軌道に乗せることができず、しばしば窃盗などの犯罪にも手を染めながら、安いモーテルに弟と住んでいる。一方エイミーは、観葉植物の事業を一から始めてすでに財を成し、高級住宅街にある自分がデザインした豪邸に芸術家の夫と娘と暮らしている。この一見対照的な二人は、しかし、実はさまざまな点で似ており、特に感情的、情緒的にシンクロしているからこそ、互いに捕らわれ、怒りをぶつけ合うことになる。

■家族からのプレッシャー

二人の類似点を確認していこう。(以下では物語の展開にも多少言及するので、ドラマを未見の方はご注意いただきたい。)一つ目は、家族からの強いプレッシャーである。ダニーは韓国からの移民二世で、長男として両親や兄弟に経済的保証を与えなければならないと強く感じているが、全くうまくいっていない状況にある。弟に対しても強い責任感を持つ一方で、結果的に弟の自立を無意識的に阻んでいる。一方、エイミーのほうは、言葉の少ない中国出身の父と忍耐を旨とするベトナム人の母を持ち、父親の浮気を筆頭に様々な問題を見て見ぬふりをすることで維持されてきた実家を恨んでいる。こうした前世代の悪癖を継承しないためにエイミーが結婚相手に選んだのは、恵まれた環境に育った能天気な日系アメリカ人の芸術家二世で、彼が専業主夫となって主に娘の世話をしている。一家の大黒柱である彼女は、姑も含めた家族全員の贅沢な生活を経済的に支えなければならないプレッシャーと共に、黒い情念を理解できない夫を前に穏やかでポジティブでい続けなければならないストレスに押しつぶされそうになっている。

いくつかのレビューが指摘しているように、『エヴリシング・エヴリウェア・オール・アット・ワンス』が、親世代からの抑圧を反復して子供を抑圧してしまうアジア系移民一世の葛藤を扱っているとするならば、『Beef』は抑圧を次世代に伝えたくないアジア系移民二世の格闘を扱っている。ダニーを演じた俳優のスティーブン・ユアンは、同様に移民家族の長男であったダニーに過去の自分を重ね合わさずにはいられなかったと様々なインタビューで繰り返し語っている。と同時に、『Beef』の掘り下げ方が見事なのは、このアジア系特有の世代間抑圧が、すでに言い分けの常套句として使われていることまで描き切っている点だ。例えばエイミーはどこかで自分の性格の問題を、全て親のせいにするという仕方で、自分自身を見つめることを避けている。

■白人に従属するモデル・マイノリティー

二点目は、白人至上主義社会への無意識的な順応である。アジア系の移民は、白人優位社会に対抗するのではなく、行儀良く適応する「モデル・マイノリティー(社会的弱者のお手本)」であるであるがゆえの困難を抱えている。『Beef』はこの構造を、あからさまではない形で、しかし適切に印象付けている。まずこのドラマではほとんどの登場人物が東アジア系であるが、確かにここは権力構造上白人以外にはあり得ないという場面に、ピンポイントで白人が登場する。例えばそれはダニーの弟・ポールがネット上で知り合い、付き合いたいと願う若い女性であったり、エイミーの夫が密かに思いを寄せて仲良くなるが、相手は彼の美術界でのコネが欲しいだけであったという疑似恋愛の相手であったり、エイミーの会社を買収しようとする大富豪のレズビアン女性だったりする。他にも、これは本当に苦笑してしまう場面なのだが、富裕層のエイミーの結婚相手が白人ではないと知ってダニーが驚く場面も重要だ。「モデル・マイノリティ」が、白人からの承認を無意識的に求めてしまうことがドラマの中に折々に登場し、アジア系移民二世に内面化された白人至上主義を浮かび上がらせる。こうした白人至上主義の描写において『Beef』の描く世界は『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』が描いたような感動物語と一線を画している。このドラマの中では、男性たちが憧れる若い白人女性も、エイミーに「禅のような穏やかさがある」とオリエンタリズムを押し付けてくるリベラルな富豪の白人女性も、苦闘するアジア人である主人公たちに根本的なサポートをもたらすことは決してないのだ。

ダニー役のスティーブン・ユアンは、かつての『ニューヨーク・タイムス』のロングインタビューで、上記のようなアジア移民が無意識に内面化する白人至上主義への葛藤を丁寧に語っている。彼はドラマ『ウォーキング・デッド』のグレン・リー役で全米で有名になった際に、白人女性と付き合う東アジア男性を演じたという理由で多くの感謝のメッセージを受け取り、非常に困惑したのだそうだ。また彼は、常に白人をマジョリティとする「他人」にどう見られているかばかりを気にしてしまう、アジア系アメリカ人のノイローゼのような精神状態について以下のように述べている。

「アジア系アメリカ人の経験とは、自分は他の人たち皆のことを考えているのに、誰も自分のことを考えていない時のようなものなのではないか、と思うことがあります。(Sometimes I wonder if the Asian-American experience is what it’s like when you’re thinking about everyone else, but nobody else is thinking about you.)」

■自分を誤魔化す道具となるセラピーや宗教

上記からわかるように、ダニーとエイミーは経済状態こそ異なるものの、家族からのプレッシャーや白人至上主義社会による抑圧を自覚できないままに内面化し、触れたら一気に爆発しかねないほどストレスで満タンになっていた。加えて『Beef』の優れた脚本は、一般的にこうしたストレスを癒すものとして想定されているセラピーと宗教についても、それらが根本的な解決にはならないことを客観的かつリアルに描いている。エイミーの夫は典型的な西海岸のニューエイジ文化に染まった人物であるため、夫婦間の問題を解決するために不可思議な瞑想やセラピーセッションに頼ろうとする。夫に従いカップル・セラピーに参加したエイミーは、そこで自分の精神的不調の原因となっている抑圧的な両親の問題を流暢に話すのだが、先にも述べたように、原因を親に一元化することによって自分自身を見つめることから逃げているようにも見える。

一方韓国系アメリカ人のダニーは、昔のガールフレンドとの繋がりから自らの古巣である福音派のコリアン・チャーチに舞い戻る。共に教会育ちである製作者のリー・サン・ジンとユアンが議論を重ねて作り上げた、一連の教会の描写については、すでに米国内では大きな反響があり、専門家からも「非常にリアルだ」と高い評価が与えられている。エピソード3でダニーは教会の礼拝に参加し、福音派教会特有のメローな賛美歌を歌いながら号泣するのだが、この場面はずっと張り詰めてきたものが一気に涙と嗚咽となって溢れ出てくる感動的なシーンになっている。しかし、教会のリーダーに「大丈夫か?」と尋ねられるとダニーは、自分が自殺を考えるほど追い詰められた状況にあることを隠し、銀行から融資を取り付けるために教会を利用しようとして嘘をついてしまう。このように『Beef』では、それ自体は決して悪いものではないはずなのに、しばしば問題を回避するための道具になってしまうという、セラピーや宗教の現実の姿を見ることができる。

■業界に求められる「人種」というテーマではなく

結局のところ、ダニーとエイミーは、家族にもセラピーにも宗教にも救われることはなかった。むしろ最終話まで観た印象としては、両者の間で繰り広げられる激しい「Beef」によって徹底的に破壊されることによって、二人はかろうじて救済されたように見える(もちろんここは観る者の解釈に委ねられる部分だろう)。その片鱗は既にエピソード1に現れていた。二重三重に抑圧され自分のありのままの感情を表出できない主人公たちは、怒りのなかで初めて自らの傷つきやすさ(vulnerability)を晒し、そのように自分自身を露にできる相手だからこそ互いに惹かれる。製作者のリー・サン・ジン、主演のユアン、アリ・ウォンが語るように、エピソード1のラストシーンで、エイミー宅の洗面所で小便を撒き散らして逃げるダニーと追いかけるエイミーはどちらも鬼ごっこをする子供のような表情をしている。そして走り去ったダニーのトラックを見送るエイミーは、怒りつつも晴れやかな笑顔を浮かべているのだ。

このドラマは当初、韓国系アメリカ人のダニーと白人中年男性の「Beef」として構想されていたという。そのアイディアは実際に駐車場でSUVに乗った白人男性にクラクションを鳴らされてかっとなった製作者のリー・サン・ジン自身の経験に基づいていたのだそうだ。しかし、この白人中年男性を東アジア系の女性に変えたことで、「人種というカードを使わずに」豊かに実存的なテーマを追究することができたとリー・サン・ジンは語っている

「(白人男性をアジア人女性に変更したことは)人種というカードを取り除いたわけではありませんが、非常に興味深い方法でそれを回転させ、開放したのです。その結果、実存的な主要テーマに焦点を当てつつ、彼らの特殊性からアジア系アメリカ人のアイデンティティを有機的に浮かび上がらせることができました。(It doesn’t remove the race card, but it pivots it in a very interesting way and opened it up. And it allowed me to home in on the main existential themes, while letting the specificities of these people start to organically bring up some Asian American identity [issues])」

https://www.latimes.com/entertainment-arts/tv/story/2023-04-05/Beef-netflix-ali-wong-steven-yeun

この製作者本人の言葉が言い当てている通り、『Beef』はアジア系移民の特殊性から始まり、最終的に人間誰しもが抱える実存的な虚無感にまで触れることになる稀有なドラマである。オリエンタリズムでもなく、マイノリティ・ポリティクスでもなく、実存を巡る普遍的なドラマが東アジア系の俳優たちによって演じられ、違和感なくアメリカで受け止められる時代の到来をぜひ多くの日本人のオーディエンスにも見届けて欲しい。

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