ブラック・ナードから見た日本の漫画、アニメ、そしてそのサブテキスト(=言外の意味):オマール・ホルモンさん インタビュー
僕たち人間は、いい言葉には惹かれるものだし、それが賞賛されると思うんです。でも、僕たちはをその賞賛をそれぞれ違う形で表現しているんだと思う。だから、僕もコスプレ(dress-up)を始めたんだ。
#ブラック・ナード #Black Nerd Problems
culture
2023/12/29
インタビュイー |
Omar Holmon

ブルックリンを拠点とする詩人、文化批評家、パフォーマー、ナード・コンテンツ・クリエイター。彼の活動はMarvel Voices、The New York Times、Chicago Tribune、Huffpost、The Root、Lifehackerで紹介されている。ウィリアム・エヴァンスと共著したエッセイ集、Black Nerd Problems(2021)は、Blerd(=Black Nerd)のバイブルの役割を果たしている。オマールとウィルはウェブサイト「Black Nerd Problems」も運営している。

■ブラック・ナードという視点

柳澤田実:まず初めに、なぜBlack Nerd Cultureという視点でポップカルチャーについて発信を始めたのか教えていただけますか?

オマール:自分が得意なことだったから。ポップカルチャー、特にサブカルチャーについて語るということが自分にはできると思ったんです。それこそが僕の人生だし、共に育ってきたものだからね。しかも始めた当時は、誰もその話をしていなかった。だから、それが僕の個性でもあった。あるいは、ポップカルチャーの話をしていたのは白人だけでした。彼らは有色人種ではないので、大事な物事を見逃す。だから、僕は彼らが見逃していることについて話すことができるんです。

柳澤田実:オマールさんは既に詩人として活躍していらっしゃって、その上でブラック・ナードとしての発信を始められました。詩作とサブカルチャーについて語ることはどのように関係しているのでしょう?

オマール:何かを描写する時に、詩を読んでいた時の感覚が残っていると思います。詩を学んだおかげで、ある種の方法で言葉を操ることができる。だから、『はじめの一歩』について語る時、ただボクシングを題材にした素晴らしいアニメだと言うのではなく、ストーリーテラーが他のストーリーテラーの作品を評価するように評価していると思います。僕はいつも他の人がその作品を読みたくなることを目指しています。そのためにはどうすればいいか?言葉を際立たせ、もう少しドラマチックにするんだ。僕がそうやって、あることを言い換えたり誇張したりしながら話をすれば、「よし、今これをチェックしなきゃ」ってなる。それこそが僕の好きなことで、やっていることの核心なんです。自分の詩作能力を使って、他の作家の作品を強調し、評価すること。それが僕にとって一番重要なことです。

柳澤田実:オマールさんはTikTokやX(旧twitter)なども使って、サブカルチャーについてユーモアを交えて面白く発信していらっしゃいますよね

オマール:僕自身が面白いやつだからね。面白いと、これは単なるユーモアだからってあまり深刻に受け止めない人がいるかもしれない。詩の世界では、シリアスな作品と面白い作品とでは、明らかにシリアスな方が評価されてしまうんだよね。笑わせたからと言って、それがシリアスではないということじゃないのに。同じことを違うやり方でやっているだけなのにね。

■詩とラップとナード・カルチャー

柳澤田実:オマールさんの中では詩とサブカルについて語ることは繋がっているんですね。そのことを詩のコミュニティーの方たちはどう思っているんでしょう?

オマール:僕がやっていたのはスラム・ポエトリーなんです。スラム・ポエトリーはパフォーマンスで、みんなそれを何かのために使う形になっています。僕はこれを2000年から始めたんだけど、2007年から本格化しました。詩のコミュニティーの人たちは、僕がサブカルチャーについて発信することに驚かないと思います。いつも漫画の話をしていたから。そういう話をするのが好きで、それが現在プラットフォームになっているという感じなんです。

柳澤田実:言葉によるアートというと最近だとラップが流行ってますよね。日本でも実は60年代、70年代にはアメリカと同様に現代詩も盛んでしたし、最近では若い人に伝統的な詩である短歌も一部で盛り上がっているのですが、ヒップホップ、ラップの人気はそれのさらに上を行きます。

オマール:僕たちは詩とラップを別のものだとは言わないですね。学問的には違うのかもしれないけれど、僕らにとっては同じアートなんです。僕は偉大なラッパーになりたいけど、それは無理なんです。でも、彼らのように言葉で表現することはできる。彼らは韻を踏む才能があって僕にはないけど、素晴らしい絵を描くことに変わりはないと思っています。

■日本の漫画やアニメの特異性

柳澤田実:日本の漫画やアニメの特徴、独自性についてはどのように考えていらっしゃいますか?

オマール:日本のアニメの作家と漫画家の仕事に対する考え方はとても独特だと思います。彼らは過酷なスケジュールをこなさなければならない。健康を害することもあるけど、彼らは作品に愛情を注いでいるんだ。それは僕にとって、すごいことなんです。彼らはストーリーをとても愛している。僕は、月に一度しか出ないアメコミの大ファンでもあるけど、日本の漫画家は毎週毎週15ページを書くわけですよね。アメコミの場合、ライターとペンシラーは一つのプロジェクトに取り組むために別々の仕事をしています。ライターは著者としての仕事をして、ペンシラーは絵を描き、インカーは色塗りが中心で必要に応じて他の人々を助けている。先ほど話した『はじめの一歩』は恐ろしく長く連載されているけれど、基本的に一人の作者が書いていますよね。『NARUTO』の作者は15年間ハネムーンに行けなかった。

だから、技巧に対するひたむきさっていうのは、サムライが刀を7回折るような、そして刀を研ぐだけじゃなくて、致命傷になるようなことも経験するようなものだと思うんです。『はじめの一歩』の森川ジョージは本当に死にかけたんだですよね。幸いにも彼は良くなって、漫画も再開したんだけど、主人公が引退した時、怪我をして、「これが僕ができる最後のことなんだ」みたいな感じだったんだけど、作者が彼のキャラクターを通して語っているように感じました。現実の世界と、作品のレベルが総合されて語っているようで。僕は『はじめの一歩』は史上最高の漫画だと思っているんだけど、あんなことができる作家、漫画家を見たことがない。僕はそういう人が好きなんです。寝ることができていない、健康状態はそれほど良くない。それでもやり続ける。僕の兄もそんな感じなんです。ハンマーではなく、金床のような人。そういう人が作るものの最終的な仕上がりはとても美しいんだ。

柳澤田実:ストーリーテリングに関して日本の漫画やアニメに何か独自性を感じますか?

オマール:日本の漫画とアメコミの最大の違いは、先ほども言ったようにアメコミは、クリエイティブ・チーム、つまり、アーティスト(ペンシラー、インカー)とライターからなるチームを作る点だよね。プロレスのタッグチームみたいな。日本の漫画にはこれがない。漫画家はシングルレスラー。彼らはただ自分自身なんだ。もちろんチームは時には素晴らしい活躍をする。でも最近はアメコミも短くなって12号、つまり一年続いたらラッキーみたいな感じですぐに打ち切りになるんだ。そうするとすぐに新しいチームが入ってくる。でも日本の漫画家はチームじゃない。良い悪いは別として、彼らはとにかく続ける。ストーリーが変わらないところが僕は好きなんだ。アメコミみたいに厨房にたくさんのシェフがいるような状態が僕は好きじゃなかったんだよね。日本の漫画は、全てがそのままで何も変わらない。これは、新たに人が入って来たり入れ替わる制作方法とは対照的で、日本の漫画家が作るのは純粋な物語だと感じています。

■ナード=ファンであること

柳澤田実:最近は日本で「オタク」は悪い意味ではなくなってきているんですけど、“nerd”という言葉にもそういう印象があります。オマールさんはどのように考えていらっしゃいますか?

オマール:僕にとって“nerd”とは、何かのファンという意味なんだ。昔はネガティブな意味だったんだけれど、今は、ただファンであることを意味するし、何に対しても“nerd”になることができる。オタクも僕にとってこれと同じように感じられるけどね。どの程度ファンなのかのレベルは違うかもしれないけど。

柳澤田実:ナード(nerd)には知的であるとかそういう含意もあるんでしょうか?そういう記事も読んだことがあるんですけれど。

オマール:ああ、そうだね、それは違うタイプの “nerd”に当てはまりますね。メガネかけててぎこちなくて、みたいな。ステレオタイプにも違うバージョンがあるんです。この本(=Black Nerd Problems)を共著で書いたとき、僕はウェブスター辞典の“nerd”を「ファン」という意味に変えてもらいたい、あるいは別の意味を追加してもらいたいと思っていたんです。今は2023年で、この呼称は侮辱ではなくて、彼らはファンなんだと僕は言いたいんだ。僕の密かな使命は、「ファン」を補足として付け加えることなんです。

■なぜアフリカ系アメリカ人は日本のアニメや漫画が好きなのか?

柳澤田実:私は自分がよく聴いているアフリカ系アメリカ人のラッパーが、歌詞の中で日本のアニメや漫画に言及しているのを聞いた時とても嬉しかったんですが、日本のサブカルとブラック・カルチャーの興味深い影響関係についてはオマールさんはどのように思われますか?

オマール:僕の視点では、それって単にいい話だと思うんでう。アニメファンはかつて武侠物にはまっていたような人たちの新しいバージョンなんだと思っている。彼らは昔の武侠映画とか、 “Kid with a Golden Arm(黄金の腕を持つ子供)”とか、そういうのが好きだった。そういう映画を彼らは無料のチャンネルで観たんだよね。ケーブル・テレビも何も持っていなかったから、ただそういうチャンネルで映画を観るだけだった。

それで、ラップ・アーティストたちも、ウータン・クランのように、自分が観た映画についてラップするわけです。彼らはそれが大好きだったから。そうやって僕と同じようなことをする人が増えました。僕が好きな映画を見て、その映画について触れて、「それ僕も観たよ」とか「僕は観てないんだけど」みたいな感じで広がっていく。小さい頃の物語の読み聞かせのようなものですよね。日本のアニメはちょっと子供っぽく感じられるかもしれないけれど、メッセージがある。そして物語は自然に進んでいく。それで、ああ、この作品は喪失がテーマだったんだとか、この作品は償いについてだったんだとかわかる。アニメはエピソード形式で、1時間のストーリーだったり短い話の寄せ集めのアメリカのカートゥーンとは違う。エピソード・エピソード・エピソードで一つの大きなストーリーが語られていく。そのやり方は、さっきも話した技巧への献身にもつながっていると思います。

僕たち人間は、いい言葉には惹かれるものだし、それが賞賛されると思うんです。でも、僕たちはをその賞賛をそれぞれ違う形で表現しているんだと思う。だから、僕もコスプレ(dress-up)を始めたんだ。妻もアニメが好きなんだけど、彼女はインド系オーストラリア人で、友人は黒人なんだけど、コスプレしてヒップホップパーティーをするんです。これは作品への敬意の気持ちを表す方法なんだ。『NARUTO』のアカツキとか、ブラックの人たちはそういう日本のアニメのシンボルをボンネットにしたりする。これは文化交流で、アニメと一緒にロックしようって感じなんだよね。反対に日本人にはブレイクダンスを習っている人もいて、とてもクレイジーなダンスを披露したりしますよね。彼らは、ブラックカルチャーに対して身体的に感謝の気持ちを示しているんだと思っています。

柳澤田実:そういう影響関係が私も本当に面白いと思うんですけど、バックグラウンドが全く異なっていて、そのコミュニティに属してもいないのに、なぜ深く共感できるんでしょうね。

オマール:そうですよね。僕は自分の好きな漫画やアニメ作品を自分のものとして受け入れてると言えるよ。共鳴している。例えば『ハイキュー!!』ってバレーボールの漫画があるでしょう?登場人物はもちろん色々いるんだけど、あの作品ではチームこそが本当の主人公であり、中心はそのチームと彼らの旅なんだ。僕は陸上をやっていて、バレーボールも好きなんだけど、こういう経験があるんだ。自分ではそれまでではあり得ないほど高いジャンプを決めて、それでも負けた。バスに乗っているとき、悲しかったのを覚えている。最高のジャンパーだったのはオーウェンというメンバーだったんだけど、彼は下を向いていて、僕は「すごく良いプレイだったけど、どうしたんだ?」って言ったら、「ああ、ありがとう。でも大会には負けたよね」と言った。そのことを思い出さずにはいられないんです。

『はじめの一歩』を読むと、自分が体験した怪我のことを思い出します。自分のは誰かに殴られた結果の慢性脳症(CTE)じゃなくて、事故による負傷が原因だったんだけど。でも、僕はある種の怪我を経験したから、それに共鳴できるんです。この作品で主人公が初めて敗戦した時、誰も現実には死んでもいないのに、2週間は悲しかったよ...(笑)。泣きそうになりながら家の中を歩き回っていたんです。ジョーダン・ピールが言ったように、外から見ているだけでは理解できないかもしれないけれど、それを感じることはできる。それが物語の力ですよね。

■日本の漫画に見る集団主義とブラック・コミュニティー

柳澤田実:「チームが主人公」って言って下さって、なるほどと思ったんですけど、私はそういう日本の漫画の傾向、それは東アジアのアイドル文化にも言えることですが、集団で何かを成し遂げることを美化している点にアンビヴァレントな感情があります。日本の集団主義には悪い部分もあると感じていて、漫画やアニメの中に個人主義のモデルもあって良いのではないかと思うからなんです。

オマール:『ブルーロック』は読みましたか?

柳澤田実:学生が「集団主義を批判して、個人主義を称揚する漫画が現れた!」と『ブルー・ロック』について教えてくれましたが私自身は未読です。私が興味があるのは、日本の漫画やアニメにある集団主義的な傾向はアフリカ系アメリカ人にとって共感できる点なのかということなんですけど、いかがでしょう?

オマール:個人主義と集団主義ですよね? そうだね、僕たちは西洋の人間じゃないから、つまり、僕たちはアメリカ出身の人間ではないから、コミュニティが大きな意味を持つことがある。ある意味、奴隷制度は終わっているわけだけれど、集団主義は重要なものだと思います。

観てるかどうかわからないけど、アラバマ州のボートの事件に関するバイラルビデオが出回っていましたよね。ある黒人男性の警備員が白人たちにボートを移動するように頼んでいた。すると一人の白人男性が黒人の警備員を突き飛ばして、他の白人男性も数名加勢して彼を倒した。黒人男性が応戦すると、今度は黒人男性が一人また一人と加勢して、ボートから泳いできて加わった人までいて大乱闘になった。面白いことに、警察がそこにいたんだけど、彼は、「ああ、お前があの男を攻撃するのはもっともだ」みたいな感じで、男が椅子を振り回し始めるまでは、「俺が介入しなきゃ」みたいな感じにならなかったんだ。

そういう集団主義があって、特に黒人は、困っている黒人を助けるんです。黒人の女性は社会階層の一番下位だから、男性以上に助けを必要としているから、助けてあげて欲しいと僕は思う。僕たちはそういうコミュニティなんだ。僕たちは個人ではあるけれど、いつも危険なことがある時には集団になるし、それだけでなく、僕たちがアニメのイベントをするみたいに、お祝いをするためにも頻繁に集まります。

僕らは西洋に住んでいて、西洋人たちに大人になって、成功して、お金を稼ぐようにと教えられています。でも同時に僕たちはここの出身ではないから、いつも危険に晒されています。どこかに行くといつも仲間を探している。先のバイラル・ビデオにあったように、もし何かが起きたら結束する。例えばもし僕が走っている黒人を見かけたとすると、すぐに走り出すんだよ。「何が起こっているのか?」とか聞かないわけ。間髪入れずに一緒に走る。何から逃げているかはわからなくても危険があるってことだから。もうそれは生き方のようなものなんです。僕自身は西洋と自分のコミュニティという二つの世界の狭間で生きている感覚がある。自分はそれまで自分のコミュニティの人たちがいなかった領域に足を入れて、他の人を助けられる立場にもいるので、自分のコミュニティの人たちに助言したり、中に入れることもしている。だから、この国で黒人でいることには、二重の意味があるんです。個人主義を教えられながら育ちつつ、両親からは、お互いの面倒を見なければいけないと教えられているんだ。

柳澤田実:たくさんのことを教えて下さって、本当に感謝しています。国のなかで大半が人種的に同質である私たちにとっての集団主義とアフリカ系アメリカ人の方達のそれとは、社会的背景からしてだいぶ異なっていると思います。けれど集団主義と個人主義の狭間にいる点は同様で、日本人もこのことをもっと自覚するといいと思いますし、日本の漫画に根強い集団主義への志向も、個人主義との葛藤という視点から、もっと深く捉え直せるかもしれないと思いました。

■有色人種にとってサブカル消費は現実逃避ではない

柳澤田実:自覚ということで言えば、私はオマールさんの本を読んで、サブカルチャーの受容が単なる現実逃避になっていない点にとても感動したんです。多くの日本人は、日本の漫画の中に社会批判的な要素や理想的ビジョンがあるという認識に乏しいと思います。盲目的にエンタメとして消費している人が大多数で、それが残念なんです。

オマール:アメリカ人だって大多数はそうだよ。彼ら(=マジョリティである白人)は、僕のように深く解釈することを良いこととは思っていない。僕はX-MENのファンで、コミックブックが大好きなんだ。だから、どんな僕が作ったショーについても、「冷静になってくれ、複雑な政治的ストーリーを作るのはやめて、ファンタジーの話をしよう」って言われます。でもスーパーマンはナチスの犬を殴っていたようなものだし、キャプテン・アメリカはファシズムと戦っていた。X-MENが公民権運動中に登場したように、サブカルチャーは常に政治的なものなんだ。彼ら(=マジョリティである白人)がそれにうんざりしているからって、それは変わらないし、彼らは故意にそれを見ていないと僕は思う。「何も考えずに消費したい」って、そういう状態が彼らは好きなんだ。彼らは自分たちの表象を社会の至るところに見つけることができるし、防弾チョッキを着て歩いていて、頭の中でスーパーマリオの音楽が流れていて、マリオがスターをとって無敵状態で歩いている、そんな状態でいたいわけ。「自分には何も起こらない」って言ってるようなものなんだけど、現実には逃げられないことがありますよね。彼らにとってはそれは悪いことなんです。僕はアクシデントが大好きなんだけど。

僕にとって残念なのはX-MENで常に大量虐殺が起こっていることなんです。X-MENでは常に大量殺戮が起こっている。僕はこのような殴打を見るのにうんざりしているんだ。三人の黒人がチームにいるというこれまでで最も多様性のあるチームがあったのに、全滅してしまったんだよね。そうなると、僕たち(アフリカ系アメリカ人)は、なぜこんな暴力的な代償を払わなければならないのか、どんな重要な点を証明するためにこれを見せられなければならないのか、という話になるわけです。

日本の作品に関して言えば、こうしたタイプの物語について『ワンピース』は完璧なミームだと思います。これは友情に関する作品ですよね。でも『ワンピース』の主人公たちは実は政府を転覆させようとしているんだ。政府は今、自分たちを押しつぶすような体制になっていて、それは不当なものだという話になっている。それでも「これは政治的な話じゃない」って言う人もいる。冗談でしょ?そういうことを言う人たちはただストーリーのすべてを消費しているだけで、言われていることの全体像が見えていないから、「この物語は愉快だね」ってことになる。それに対して僕たちにとっては、全てのものにサブテキストがある。だから僕は、関連性を見出せるような空白にいつも突き当たるんだと思います。

Black Nerd Problemsの中にも書いたんだけど、『アベンジャーズ』5巻37号で、ファンタスティック・フォーのミスター・ファンタスティックの娘ヴァレリアが、彼女の父親が直面している問題に対するアドバイスを書いたメモを渡すんだけど、そのメモには「あなたは勝てない。負けない方法を考え始める時だ」と書かれていた。それを読んで、僕は、アメリカの黒人の経験のようだと思いました1。僕らはここの出身ではない。そして僕が言っていることが理に叶うように、実際制度が整備されているんだ。人種差別は恐ろしいものですよね。でも、それは複雑なルービックキューブでもある。わかるかな?ある面で一つ修正すると、別の面ではまたおかしくなって、また一からやり直さないといけない。それと同じように人種差別では、ある良い達成が、別の場面で自分たちを苦しめたりもするんです。だから、毎日、どうすれば負けないかを考えるんだけど、勝つことはできないんだ。そもそも負けるってどういうことなのか?殺されることなのか?嫌がらせを受けることなのか?勝てないなら、どうすればいいんだ?どうすれば負けないのか?どうすれば負けないことができるのか?どうやって次の日から一日を乗り切るか?こういうことを考えさせることが僕の仕事であり、良い物語があなたにもたらすものです。彼ら(=マジョリティである白人)はこういう物語を消費して現実逃避したいって?僕はすぐ現実に立ち戻るよ。

柳澤田実:オマールさんのサブカル作品の解釈は知的で深くて、いつも本当に感動するんですが、こういう解釈はやはり一般のファンには難しいものなのかなと思うのですが、どうなんでしょう?

オマール:いや、そんなことはなくて、普通のファンも素晴らしい解釈や議論をしていますよ。アメリカでもナードの世界にはゲートキーパーがいて、解釈を許さない傾向がある。自分も門前払いされたような経験があるんだ。でも、まずは自分の意見を恐れず持つことが大事だと思う。常識に囚われないようになることが大事だけど、それには時間がかかるとは思います。

■有害なファンにならないために

柳澤田実:日本ではオタクはしばしばカルト的になっていて、大量にグッズを消費したり、宗教のように崇拝したり、作品について批評し、洞察するのとは程遠い状態にもなっているのですが、アメリカではどうなんでしょうか?

オマール:アメリカでもそれはあるし、トレッキー(=スター・トレック・ファンダム)やスター・ウォーズ・ファンがそういう感じです。執着が全人格になってしまうんだ。彼らはそれを掘り下げて、自分の個性にしてしまうんだけど、僕にとっては、作品に敬意を示すことの方が大事なんです。経済活動に組み込まれる前の賞賛(アプリシエーション)なんです。だから、それはあまりカルト的ではないと感じています。

柳澤田実:有害なファンにならないための何かアドバイスはありますか?

オマール:自分がナード・カルチャーについて発信することは、皆のためなんです。これが僕の全てなんだ。ゲート・キーピングではなくて、「ありがとう」って言うことなんです。何かを自分の全人格にしてしまうと、誰もがそれにアクセスできるようになった時に、自分が何者なのかわからなくなってしまうよね。だから、有害なファンにならないためには、まず自分自身の個性を持ち、評価されるようにならないと駄目だと思う。自分の好きなものを自分のアイデンティティにしちゃいけない。普通の市民性をまず持たなきゃいけない。作品は皆のために作られたものだし、楽しむために専門家である必要はない。ファンであることは人との接し方も教えていると思うんだ。歓迎するのと「ちょっと待って」って、課題を与えてその人がそこにふさわしいかどうかを見るのとは全然違いますよね。

柳澤田実:アメリカの実際のファンダムでは人種的にもだいぶ混ざってますか?

オマール:ケース・バイ・ケースだよ。ファンダムが何であるかによる。スター・ウォーズがいい例だね。僕はスター・ウォーズが大好きだけど、そのファンダムには本当にいたくないんだ(笑)。この作品って悪の帝国と戦う話しだけど、スター・ウォーズファンは本当に帝国軍のように振る舞っている。彼らが自分たちのアイデンティティを長い間スター・ウォーズにしてきたから、それが変わった時受け入れられないし、あるいは彼らが望まないようには絶対に変えたくない。昔のままだと思いたい。それが問題なんだ。彼らは変化を受け入れることができないんです。

■ナードでいること、カルチャーを愛することの可能性

柳澤田実:最後に、ファンダムが持つ可能性についてお尋ねしたいです。サブカルチャーやアートを好きでいること、ナードであることにはどんな可能性があると思いますか?日本では大きな影響力を持つカウンターカルチャーが生まれにくいのですが、私はアニメや漫画などのサブカルチャーにはその潜在的な可能性があると思っています。

オマール:サブカルチャーによって考えが変わることもありますよね。ある個人が社会に影響力を持っている時に、その人がやっていることが何か見てみたら、自分が賞賛できるものかもしれない。美術館や博物館が人気なのは、人は他の個人が作ったもの、あるいは自分を超えたものを鑑賞するために行く。自分にはできないけど、その作品を評価することはできる。他の人がやっていることを評価できる。もしまともな人間なら、他の誰かがやったことをちゃんと賞賛できる。そうすれば、何か新しいものを手に入れる代わりに、よりコミュニティ的なものに向かって、自分の考えを変えたり、やり方を変えたりすることができるんだ。例えば、ある作品を見て友達に電話したくなって、そうやって誰かと話すだけで、その作品を作った個人を賞賛することになるし、その作品が個々人の考えを変えるきっかけになると思う。そうすることで詩やアート、サブカルチャーが、支配的なメディアの一部を変化させることもできるのではないかと思います。

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2023/12/29
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Omar Holmon

ブルックリンを拠点とする詩人、文化批評家、パフォーマー、ナード・コンテンツ・クリエイター。彼の活動はMarvel Voices、The New York Times、Chicago Tribune、Huffpost、The Root、Lifehackerで紹介されている。ウィリアム・エヴァンスと共著したエッセイ集、Black Nerd Problems(2021)は、Blerd(=Black Nerd)のバイブルの役割を果たしている。オマールとウィルはウェブサイト「Black Nerd Problems」も運営している。

インタビュアー |
柳澤田実

1973年ニューヨーク生まれ。専門は哲学・キリスト教思想。関西学院大学神学部准教授。東京大学21世紀COE研究員、南山大学人文学部准教授を経て、現職。編著書に『ディスポジション──哲学、倫理、生態心理学からアート、建築まで、領域横断的に世界を捉える方法の創出に向けて』(現代企画室、2008)、2017年にThe New School for Social Researchの心理学研究室に留学し、以降Moral Foundation Theoryに基づく質問紙調査を日米で行いながら、宗教などの文化的背景とマインドセットとの関係について、道徳的判断やリスク志向に注目し研究している。

Twitter @tami_yanagisawa

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