インタビュー |「消費されない」Z世代の価値観(後篇)
竹田さんは、日本人が「アジア系」というアイデンティティを持つことがどうして困難なのか、あるいはそのために解決しなければならない課題とは何だと考えていらっしゃいますか?
Z世代の心象──気づきから連帯へ、日本とアジアの連帯、Z世代的カルチャーが消費されないために。
culture
2021/06/04
インタビュイー |
竹田ダニエル
(たけだ・だにえる)

カリフォルニア出身、現在米国在住のZ世代。大手レーベルのビジネスコンサルタントやテック系スタートアップを経てフリーランス音楽エージェントとして活動し、アーティストのPRやマネジメントを行う。ライターとしては「カルチャー×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆、『現代ビジネス』『Forbes』『Newsweek』『日経新聞』『Rolling Stone』等掲載。『群像』『日経xwoman』『DIGLE』『日経COMEMO』『wezzy』で連載中。

日本とアジアの連帯

眞鍋ヨセフ

5月14日にお届けしたこのインタビューの「前篇」の最後で、日本がかつてなく貧しくなっている今こそ、アジア諸国のZ世代との連帯が考えられるのではないか、日本人が当事者意識を抱くためにはどうすればいいのかという問いを竹田さんに投げかけました。

竹田さんは『群像』(講談社、2021年5月号)の連載第1回「世界と私のA to Z」のなかで、「アジア系」というかつてはラベリングであった言葉に、今ではカウンターとしてアイデンティティを見出していると書かれていました。くわえて、今までは声を上げる習慣を持たず、穏便に生きる選択を大事にしてきたアジア人の文化が変容しつつあるとも書かれています。竹田さんは、日本人が「アジア系」というアイデンティティを持つことがどうして困難なのか、あるいはそのために解決しなければならない課題とは何だと考えていらっしゃいますか?

「世界と私のA to Z」連載第2回は『群像』2021年6月号にて掲載

竹田ダニエル

必ずしも、日本人全員が「アジア系」というアイデンティティを持つ必要はないと思います。ですが、もしある人が海外に進出することがあるなら、その時は日本人としての自覚と、アジアにおける日本という客観的な視点を持つ必要があるでしょう。それは、日本人としての誇りや愛国心などとはまったく別のものです。

国内教育においては、かつて日本が他国を占領し、たくさんの人々を虐殺した歴史は今も隠蔽されていますが、国外、特にアジア諸国では広く知られています。そしてインターネットやSNSの発展のおかげで、誰もがそうした歴史事実を知ることができる。にもかかわらず、そんな過去があったことをまだ知らないままアメリカに留学に来る日本人がほとんどなんです。また、ブラック・ライブズ・マター(BLM)運動のように、今こそ世界中で歴史認識を改めようというムーブメントが起きているにもかかわらず、日本人の関心は薄いままです。こうした状態では、グローバルを履き違えた現状を日本人が脱却することは難しいでしょう。

今まさに、黒人に限らず、アメリカ全土でどれだけ有色人種が抑圧され、機会を奪われてきたのかが、ようやく社会的にも認知され始めています。マイノリティや有色人種が2世、3世と世代を重ねて増え、映画や音楽などの分野でも、アジア人の活躍が脚光を浴びるようになってきました。今日は奇しくもクロエ・ジャオ監督『ノマドランド』が米アカデミー賞の3冠を獲得し、アジア系女性初の監督賞を手にしました。

それ以上に、今まで活躍できなかったのは確実にレイシズムの影響があったからだと、メインストリームのなかでも理解されつつあります。こうした世界的動きのなかで、アジア人としての自覚を持たないまま、日本人としての誇りや愛国心、日本というナショナリズム的なプライドだけを持って海外へ進出することはとてももったいないし、想像以上に残念なことだと思います。日本のアニメーションやポップカルチャーといったコンテンツが支持されることと、日本人が尊厳を持って扱われるかは別問題です。もちろんアニメやポップカルチャーが悪いわけではありませんが、表層的でつくられた「クールジャパン」に対してプライドを持つのだけではなく、史実を十分理解したうえで、アジアン・プライドを持って連帯し、文化をつなげていくことにこそ、大きな意味があると思います。

  クロエ・ジャオ監督(Gage Skidmore from Peoria, AZ, United States of America is licensed under CC BY-SA 2.0)

眞鍋

日本人は、ほかのアジア人以上にナショナリスティックな自意識を持っているように見えますか?

竹田

自意識を持っているというより、旧態依然とした日本人像に留まっていると表現するほうが正しいかもしれません。もちろん自国の文化に誇りを持つのは大切なことですが、実際のところ、「日本の文化」とは何かなんて、よくわかりませんよね。日本に住んでいても、着物を着るわけでも書道を嗜むわけでもないのに、なぜかアメリカに来ると、折り紙をすすんで折ったりする。もちろんそれ自体ダメなことではないのですが、西洋人が期待する、ある意味差別的な意味合いも含まれる「オリエンタリズム」を自らすすんで体現しようとする。その裏で日本の史実についてはまったく無知でもある。そこに、大きなギャップを感じます。

眞鍋

先ほども少し触れていらっしゃいましたが、国策としてまことしやかに「クールジャパン」が打ち出されていたり、日本政府が主導するかたちで日本人や日本の文化の“海外進出”は積極的に促されています。それにも関わらず、ほかでもない日本人自身が日本文化に対する表層的な評価にしがみついたままだと、アジアの連帯や世界の動きにさらに置いてけぼりをくらうことになってしまいます。歴史に対する知識不足以外にも、私たちはどういった視点や姿勢を補い、身につけていくべきでしょうか?


竹田

簡単にこれとは言えませんが、ひとつは、構造を広く捉えていくことがとても大事だと思います。例えば、芸術の分野で日本人作家が世界を目指していくのなら、「韓国の作品がたくさん評価されていて、日本は負けている」といった狭い視野に留まっていても意味はありません。敵は当然、韓国ではありませんから。そのときに、例えば「作品の評価という土俵にも、白人至上主義があるのではないか」あるいは「資本主義的なシステムが、創作の妨げになっているんじゃないか」と、個人が広い視点から話せるようになることが大切だと思います。そうすれば、自分たちを高めるだけでなく、必然的に連帯もしていける。「アジア人の連帯」とは、単純にアジア人同士を応援しあおうということだけではありません。内容は違っても、相手も同様の構造で差別されたり、不利益を被っている、だからこそ共に声を上げていかなければいけないという認識が、連帯につながるのです。私はそれがまさにZ世代的な価値観だとも思っています。


Z世代的カルチャーが消費されないために


眞鍋

僕が危惧しているのは、せっかく提示された「Z世代」という価値観も、このままでは、マーケティングのターゲットにされ消費されてしまうのではないかという点です。竹田さんはこの点を回避しつつ、「Z世代」という価値観を当事者たちのなかで成熟させていくためには、どのようなことが必要だと感じていますか?

竹田

以前「大人の求めるZ世代像」について書いたことがありました(「“大人の求めるZ世代像”への違和感」(『群像』講談社、2020年12月号)。それはまさに、Z世代に当事者意識が生まれるよりも先に、大人たちが「Z世代」という言葉を使って若者を括り、うまく資本主義的な文脈で操ることのほうが早く進んでいるような気がしたからです。

実際にアメリカでもすでに、「Z世代にはこういう特徴があるから、彼らに対してはこうマーケティングしろ」とか「彼らは生まれた時から携帯を使っていてテクノロジーが得意だから云々」と、大人たちがわかったような物言いで書いた文章が広く流布しています。一歩踏み込んで、Z世代の若者たちはどうして、あるいはどんな事象や人物から影響を受けてこういう状況をつくっているのかを深掘りすれば、いろいろな面白いことが見えるかもしれないけれど、そこまでに至らない言説がとても多い。

例えば、Z世代的な音楽には、絶望や悲しみといった特徴が共通して見られます。大人たちからすれば、「自分たちの時代も、絶望や悲しみ、反発はテーマだった」と言うかもしれません。しかし、その音楽が扱っているテーマ自体は同じだとしても、受容のされ方や、それが社会的に意味することが、大きく変わってきていることを感じ取れていないのです。具体的に言えば、ジェンダーやセクシュアリティからくる「孤独」や「わからなさ」といったものがそうだし、一方でそれが誰かのエンパワーメントにつながっているということも挙げられるでしょう。

つまり、Z世代的なカルチャーには共通して、細分化された「当事者への共鳴」という構造があるのです。かつての「マスからマスへ」という構造ではなく、ニッチなものとZ世代の消費者とがつながって、持続可能な関係を生み出している。だからこそ、かつての「70年代のティーンを扱った代表的な映画」のようなものはZ世代においては生まれにくいし、メディアによって「Z世代のアイコン」と呼ばれている人たちであっても、彼ら、彼女らを支持しているのは実際はあくまでも全員ではなく一部であり、だからこそ深みのある繋がりが生まれるという現象が自然に起こりえるのです。

加えてZ世代的価値観を持った若者は、自分の選択にとても意識的です。自分の属性や社会における位置づけを冷静に把握し、そのうえで自分がどのようなものを支持し、購入し、シェアしているかは自らのアイデンティティの延長線上にある問題だとも言えるし、自己表現の一部とさえ言える。だから、大人たちがそれらしくつくった、大雑把な「Z世代って、こういうの好きだよね」という押し付けのマーケティングは、おそらく成立しないと思います。本来的にあらゆるものを取捨選択できる時代に生きる私たちが、あえてそれを選択している自分に自覚的になることはやはりとても大切なことです。


Z世代の心象──気づきから連帯へ

眞鍋

連帯のあり方が大きく変わってきていますよね。SNSのようなテクノロジーが普及していない一昔前のフィジカルに誰かと「そうだよね」と言い合って、繋がっていくような共感のあり方と、SNSを媒介とするZ世代的な共感はまったくの別物です。今日のインタビュー中はお話を聞くにも、質問をさせていただくにも一喜一憂していたのですが(笑)、今のお話を聞いて、僕が念頭に置いていた連帯は、どちらかと言えばフィジカルなものや目に見えているものにとらわれすぎていると感じました。また同時に、僕が感じているような孤独も、共有することで共感を生み出すことができた場合、Z世代的な連帯になりうるものなのだという気づきもありました。

こうしたなかで私たちは、先行する世代が規定するようなものではなく、現実を変えうるZ世代的な価値観をどのように形成できるのか、そしてそのためにもどのように連帯していくことができるのかを気に掛けたいですね。竹田さんの発信が共感する人々を増やしているように、私たち「elabo」もこれから気づきの連鎖を生み出していく媒体になることができればと思います。

竹田

気づきといえば、私の現在の考え方を形成したのはTikTokだったかもしれません。どんな動画が自分に流れてくるかを選択しているのはアルゴリズムですが、私の場合はラディカルなものが多かった。誰かが「これって変じゃない?」と疑問を投げかけると、別の誰かがコメント欄でそれを社会学的な観点から説明する。そんなディスカッションがされているものが多くて、とてもエデュケーショナルだったんです。それらはすべてが正しいわけではないかもしれないけれど、彼ら、彼女らなりの論拠が示されていて、気づき、発見につながっていきました。そうしたことをきっかけに、「おかしい」と思ったことをひたすら言語化していくことで悩みが解放されていった経験も、私には新鮮でした。自分がおかしいと思っていたことはやはりおかしいことだったんだ、そう思うことはちっとも変じゃなかったんだと気づけるだけで、大きな意味がありました。だからこそ、人々とつながっていくことの意味、連帯の可能性は、今こそとても大きいと信じています。


眞鍋

気づきを発信することが同世代との連帯に繋がり、そして別の世代にも連鎖していく。先ほどの「(Z世代との)連帯の可能性は、今こそとても大きい」という言葉は「elabo」のスタートにあたって、とても勇気づけられます。「「多様性と変化を積極的に受け入れたいという価値観を選択した者」がZ世代である」という言葉に共感している僕自身、今回、このような形で竹田さんご自身の経験を踏まえた、より深く示唆に富んだ話を伺うことができ嬉しく思います。

同時に「elabo」としても僕個人としても、今後取り組まねばならない課題などが見つけることができたと思います。今日は、本当にありがとうございました。


[2021年4月26日、Zoomにて]

culture
2021/06/04
インタビュイー |
竹田ダニエル
(たけだ・だにえる)

カリフォルニア出身、現在米国在住のZ世代。大手レーベルのビジネスコンサルタントやテック系スタートアップを経てフリーランス音楽エージェントとして活動し、アーティストのPRやマネジメントを行う。ライターとしては「カルチャー×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆、『現代ビジネス』『Forbes』『Newsweek』『日経新聞』『Rolling Stone』等掲載。『群像』『日経xwoman』『DIGLE』『日経COMEMO』『wezzy』で連載中。

聞き手 | 眞鍋ヨセフ /写真 | 森岡忠哉
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