東京大学「ボーカロイド音楽論」第10回 サブカルチャーと書いてフェミニズムと読む
今回は、ボカロから出発しつつ、ジャンル的に、また時間的にカメラを引いて、サブカルチャーがどのようにジェンダーを描いてきたかについてより大きなパースペクティヴで考えていきたいと思います。
オタク文化で女性は多数派。周縁に追いやっているのは誰?
culture
2021/07/16
執筆者 |
鮎川ぱて@しゅわしゅわP
(あゆかわ・ぱて@しゅわしゅわP)

ボカロP、音楽評論家。2016年より東京大学教養学部非常勤講師を務める。東京大学先端研協力研究員。本業は「若者をあなどらない業」。LGBTQ、障害当事者、若者などマイノリティの味方をするアライ。ウニ銀レ。代表曲に「SPL」など。
東京大学での講義「ボーカロイド音楽論」(通称「#東大ぱてゼミ」)の書籍化を準備中。ご興味のある出版社の方、ご連絡をお待ちしています。
Twitter: https://twitter.com/ayupate

 東京大学教養学部には「ボーカロイド音楽論」という講義がある。2016年より開講されており(受講生マッド†ラワイルさんによる講義紹介「#東大ぱてゼミとは(ボーカロイド音楽論)」)、現在、世界の大学のなかでも唯一のボーカロイド音楽を主題とする講義として人気を博している。講師は「elabo」にすでに寄稿いただいている(「2020年代の欲望と疎外の編成──私たちが同じ空間を生きていないことについて」[2021年5月14日])、ボカロP・音楽評論家の鮎川ぱてさん。講義「ボーカロイド音楽論」は書籍化のため支援者を募集中だという。今回は特別に、その講義の1回分の内容をノーカットで特別掲載できることになった。本記事の回(第10回)は、ジェンダーの観点からJ-POPからボカロ音楽を高速で総覧する刺激的な内容になっている。
 興味を持たれた出版・メディア関係者の方は鮎川氏に打診してみてはいかがだろう。そして読者のわれわれは、全講義をまとめて読める日を楽しみに待つことにしよう。
 ──elabo編集部より

OP: OSTER Project「マージナル」

 

誰が周縁化されているか/しているか

 

 今回は、ボカロから出発しつつ、ジャンル的に、また時間的にカメラを引いて、サブカルチャーがどのようにジェンダーを描いてきたかについてより大きなパースペクティヴで考えていきたいと思います。

 まずその前段として、時事に関連したショート批評パフォーマンスから始めましょう。

 オープニングでかけた曲は、OSTERprojectさんの「マージナル」(2008)です。ニコニコ動画版の投稿コメントが素晴らしいので引用させてもらいます。

 

- どのカテゴリにも帰属感を得られない状態、マージナル。

- たとえその個性がコンプレックスになったとしても、たとえ奇異の眼を向けられようとも、それが自分の本当の姿であるならば、見失ってはいけない。

- アイデンティティを蝕むパラダイムなんかに負けるな。

- 僕らはここにいるんだ。

★1

 

 「マージナル  Marginal」という形容詞は、日本語訳すると「周縁的な、欄外の」というような意味です。古い議論ですが、昭和の批評家の鶴見俊輔は、芸術の領域の際にあり、専門家(プロ)による芸術とは見なされないもの、非専門家(アマチュア)による表現のことを「限界芸術  マージナル・アート」と名づけ、論じました。ぱてゼミではそのような議論に与しませんが、ボカロをマージナル・アートなのだと言って語りたい人も世の中にはいるかもしれません。

 ともかくこの曲は、力強い投稿コメントに似つかわしい決然とした名曲です。彼女は、2013年にサンリオピューロランドで同性カップルとして挙式したことでも知られています。

 

 ここで、この曲と同名のマンガ作品、萩尾望都の『マージナル』(小学館、1985〜87)を紹介したいと思います。萩尾望都さんは、昭和24年=1949年前後生まれで、新しい表現を開拓した少女マンガ家たちだと言われる「花の24年組」のひとりです。少女マンガの世界に新風を吹き込んだとされていますが、そのポイントのひとつが、物語のなかで同性愛を描いたことでした。いまで言うBLやGLですね。少年同士とか、男性同士が恋愛をする物語作品をBLと言いますが、萩尾望都の『マージナル』も、はたしてBL作品と言いうるものです。

萩尾望都『マージナル 1』

 BLという呼称はここ20年でかなり定着し、また一般の認知度も上がりましたが、それ以前に存在しなかったわけでは当然ありません。BLはかつては「やおい」と呼ばれていました。「ヤマなし、オチなし、意味なし」の頭文字をとってやおい。作品のなかで実際にヤマもオチも意味もないということは必ずしもないんですが、アマチュアで二次創作を行う同人作家が、自分たちの表現を言わば自虐的に謙遜するという当事者ゆえの言い方だったのだと思います。それが転じて同性愛を描く作品の通称になっていった。

 ボカロカルチャーは同人カルチャーでもあります。世界最大の同人即売会であるコミックマーケット(通称コミケ)は、ボカロPや絵師などボカロ関係作家にとっての主戦場のひとつであり、われわれぱてゼミも何度もサークル参加しています。みなさんご存じでしょうか、コミケは1975年開催の第1回から現在に至るまで、サークル参加者は女性のほうが多いそうです。第1回に至っては一般参加も含め全体の9割が女性だったと言います。「やおい/BL」は、当時から一貫して、女性参加者の重要な駆動力のひとつでした。

 オタクカルチャー(ぼくはあまり使わない用語ですが)は、世間の一部ではいまだ「男性ばかりカルチャー」と短絡的にとらえられていたり、メディアがそのように扱う状況が続いていると思いますが、実情は違う。ボカロカルチャーに対する外野の誤解と相同的ですね(ボカロファンの男女比は半々〜女性が少し多いと言われている)。ここにある問題は、実情と乖離することによって、女性が「いないことにされている」ことです。この場合女性は多数派でさえあるのに、周縁に追いやられている。追いやっているのは、誰でしょうか?

 

 

世界の中心で、ひとりの女性を犠牲にしつづける

 

 『マージナル』の世界では、男性のほとんどは男性を好きになります。それが「ふつう」という世界。そのはず、なぜならその世界には男性しかいないから。他者を愛することは同性を愛することと同義である。そういう単性空間なんですね。ネタバレは最低限に留めますが、全人類はあるウィルスに感染して、男性の子どもしか生まれなくなった。時間が経って、その世界における現代人はそれを自明のこととして受け入れている。

 けれどもその世界では辛うじて子どもが生まれつづけている。世界でひとりだけの「マザ」と呼ばれる存在、すなわち最後の女性が出産を続けているから。彼女ひとりが再生産の命綱で、高齢でふつうであれば出産能力を失っているはずなのに、彼女の身体をテクノロジーで延命して、出産行為だけを続けさせている。その後、「そうだと教えられていたがじつは……」と物語が転がっていくんですが、ネタバレはできないのでそういう世界として仮に説明しておきます。

 この作品は、ヤマなしオチなし意味なしではありえない、非常に高度に構成された見事なSFマンガです。そして、強い批評性を持っています。いま要約した設定だけですでに、ジェンダーの視点から批判がなされていると言っていい。

 すなわち、『マージナル』の世界は、ひとりの女性を犠牲にしつづけることで成り立っている。世界の中心で女性を非常に強力に抑圧している。だがそれは、現実の世界とどれほど違うだろうか。女性を犠牲にしつづけることで、男性だけによる単性社会が成り立っているという意味では現実そのままの戯画じゃないか。現実社会のホモソーシャリティ(同性同士の精神的な連帯=異性を疎外するもの)を過剰化して告発するという批評的表現になっていると思います。

 

 さらに踏み込んで考えてみましょう。『マージナル』の世界はなんのアナロジーたりえているか。

 昨日と今日、天皇陛下一代にあたり一度しか行われない特別な儀式、大嘗祭が行われています(この講義は2019年11月15日に行われた)。念押ししておきますが、ぼくはいろいろな考えがあって反皇室主義者ではありません。留保つきで象徴天皇制を支持します。

 天皇陛下は、日本国憲法によると、「国政に関する機能を有しない」象徴である(日本国憲法第4条)。そして「主権者としての国民」ではない。国民は、言論の自由、結婚の自由、信教の自由など、さまざまな基本的人権が憲法によって保障されている。けれども、皇室の方々は憲法が示す国民の権利保障の範疇には入らない。

 天皇陛下の御即位により、雅子様が皇后陛下となられました。戦後、すなわち日本国憲法制定後、民間から皇室に入られた方はまだ数人しかいらっしゃいませんが、それは強い言い方をすると、国民のなかから誰かを、国民としての権利を失わせるかたちで、中心に送り出さなければいけないという図式になっている。

 知っている人も多いでしょう、雅子様はご学業においても非常に優秀な方です。ご卒業されたのはハーバード大学ですが、その後一時期東京大学にも在籍されていました。だからちょっと先輩、ですねw 87年に、外務省に入省されます。同期の外交官試験合格者は28名で、そのうち女性は3名のみ。そもそも、キャリア外交官に女性がなりはじめた最初期の世代が雅子様の世代でした。これは驚くべき事実であり、ダボス会議によってジェンダーギャップ指数が低いと評価される理由のひとつです。管理職など上位職についている男女の差が大きく、総合職キャリアは男性、一般職ノンキャリアは女性という図式が長らく温存されている。残念ながら、30年以上が経った2020年代においても、この傾向は払拭されず、新卒キャリア官僚は男性が7割です。

 

 昔、友人がこう言ったことがありました。雅子様は、巡り合わせが違っていれば──別の世界線では、ともすれば最初の女性総理大臣になられていた可能性もあったんじゃないかと。もちろんあくまで軽口です。もし政界に興味を持たれたなら、多くの国民に支持されたんじゃないかと。

 しかし皇室に入られたからには、政治に介入してはいけないし、思想の表明も実質上禁じられます。ぼくも、象徴天皇制のもとで両陛下には政治的発言はしないでもらいたいと考えるひとりです。そのルールを支持しつつも、ただ一方で、ひとりの人間としての雅子様の心中を想像していろいろ考えてしまいます。

 駒場キャンパスの裏門を出ると渋谷区松濤というエリアですが、そのなかを少し歩くと、あるフレンチ・レストランがあります。雅子様が民間を離れられる前、最後に小和田家として外食されたのがそのレストランだそうです。雅子様はそこで、なにをお考えになったでしょうか。

 

 

象徴天皇制は、人を疎外するシステムではない

 

 1993年、結婚の儀をもって、雅子様は正式に皇室に入られました。その後の世論はこうです。「子どもはまだか」。もっと言えば「男の子はまだか」。大塚英志の『感情天皇論』(ちくま新書、2019)は当時の様子を「一億総姑(しゅうとめ)化」と表現しました。

大塚英志『感情天皇論』

 同書の議論を部分的に紹介します。その後ネット用語としても転用されることになった「お気持ち」という言葉がありますが、陛下のご発言は、社会に介入的な意味を持ってはいけないから、表明するのは「お考え」ではなく「お気持ち」でなければいけない。いまの上皇陛下、明仁様は、象徴としての天皇の「機能」を感情労働することに見出した。だから当時の陛下は、国民の気持ちに寄り添う感情労働を行なわれてきた。そんな陛下に対して、国民は好意=感情だけを送り返すことで応え、つまり天皇と国民は感情のみで交歓してきた。

 ただ国民が送った感情はポジティヴなものだけではなかった。90年代には「お世継ぎはまだか」という感情を強く送っていた。雅子様というひとりの女性は、その高い個人能力を発揮することではなく、妊娠することだけを社会から期待されました。当のその社会の中心で。

 湯川れい子さんが作詞した小林明子「恋におちて──Fallin love」(1985)のサビにある1フレーズを引用しましょう。

 

 I’m just a woman

 

 これは、フェミニズムのメッセージです。──単に女性ですと言うだけでなんでフェミニズムなの? と思った人もいるかもしれませんが、言葉を足すとこうです。「妻ではなく、母ではなく、単に女性なのだ」。

 社会や家庭が特定の性に期待してきた役割を「ジェンダー・ロール  性役割」と言います。外で働く夫のために家庭を守る妻、子育てを一手に担う母というのは、いかにもジェンダー・ロールであるものの例ですね。通念のかたちをとって人を拘束するセクシズムの一種です。それらに囚われることなしに、「私は単に女性である」。これはフェミニズムのメッセージたりうるものでした。

 『マージナル』の世界は「マザ」を、日本社会は雅子様を、ひとりの女性としただろうか。ひとりの国民を皇室に送り出すということは、国民であることも、女性であることも、彼女から奪ってしまってはいないだろうか。

 天皇制がどうあるべきかというのはあまりに難しい問題です。ぱてゼミではこれ以上の深入りはいったん避けておきますが、ひとつ言えるのは、現状の規範の通り、男系のみの血族が皇位継承権を持つということが維持されるなら、今後も、皇室に入ることで国民でなくなる人物は、つねに女性でありつづけるということになるでしょう。ぼくは、みなさんを思想的に誘導することはしませんが、個人の意見を表明しておくなら、反皇室主義ではないからこそ、「皇族には人権がない」などという暴論はいっさい許容しません。皇室に入られる方もそうだし、生まれ持って皇室であった方もそうです。あらゆる立場の人が、憲法に先立つ生得権としての人権を尊重されることを望みます。

 文化人類学者の山口昌男はかつて、「中心と周縁」という対概念を立てて、それらが両義的に作用することで社会は安定性を得るのだと論じました。これも古い議論なので詳述は割愛しますが、両義的とはつまり、社会は周縁に向かっても疎外するし、中心に向かっても疎外する。そうして逆ベクトルで疎外された聖と俗がなんらかのかたちで一致する──このようなモデルは、山口以外によってもしばしば語られるものです。

 しかし21世紀において、象徴天皇制とは、誰かを中心に据えることで、その人を疎外するシステムであるべきではない。そして、われわれが3回かけて考えてきたジェンダーとセクシュアリティの自由は、生得権としての人権に確実に包含されるものであると、ぼくは考えます。みなさんに思想強要するわけにはいきませんが、ともかくこれが、ぼくの「お気持ち」です。

 

 

恋愛シジョウ主義──バトルフィールドとしての合コン

 

 はい、ここまでが時事に関連した批評パフォーマンスでした。いかがだったでしょうか。これまで以上に、自分の頭で考えてみてほしい問題です。明示的にフェミニズムに接触する議論でしたが、今回の後半の議論にも関わってきますので、ただの前口上だと思わず覚えておいてくださいね。

 

 さて、前回最後に、存在させられること、値踏みされる身体という話をしました。その問題をさらに考えるべく、ここからタイムスリップをしてみましょう。

 

 時は20世紀。その最後のディケイド、1990年代の話です。みなさんは生まれる前だったり、生まれていてもまだ物心がついていなかった頃でしょうか。

 90年代は「恋愛シジョウ主義」の時代でした。これはダブルミーニングです。どういうことかわかりますか?

 

学生「恋愛が最高だっていう至上主義と……」

 

 もうひとつ。わかりますか?

 

学生「マーケットの市場ですか?」

 

 そう、その通り。「恋愛至上主義」と「恋愛市場主義」。その両方が同義化して前景化したのが90年代でした。同義化──つまり、恋愛を最重要事としながら、同時に(だからこそ)、相手の価値を市場での取引のようにシビアに値踏みし合う側面を強めていた。

 当時を象徴する2曲のJポップ楽曲を参照したいと思います。時代を席巻した、みなさんの親御さん世代なら誰でも知っているほどの有名曲であり、われわれが追ってきたアンチ・ラブソングとは真逆に、双方とも紛れもないラブソングです。

 まず1曲目は広瀬香美さん──ニコニコ的に言えば「ゲッダン」の人ですね★2。「ロマンスの神様」(1993)という曲を聴いてみましょう。

 

♪ 広瀬香美「ロマンスの神様」

 

 この曲は当時175万枚という大ヒットを記録したそうです。結論から言うと、この曲は合コンのことを歌っています。1番のサビ直前に「性格よければいい そんなの嘘だと思いませんか?」とあります。歌詞としてはなかなか見かけないフレーズですよねw 慎ましやかに「ほしがりません」と言うだけではなく、性格以外のスペックだって要求したい。そんな本音を高らかに歌い切るこの曲が響いたのは、明らかに男性ではなく女性だったでしょう。2番にはさらに具体的にこうあります。「年齢 住所 趣味に職業/さりげなく チェックしなくちゃ/待っていました 合格ライン」。そのあと顔面のチェックもありますね。主人公の女性が相手の男性のスペックを値踏みしているパッセージです★3。

 

 一言で断言しましょう。「ロマンスの神様」は、フェミニズムの楽曲です。この曲はあるセクシズムを決定的に批判しています。それは「男性は選ぶ主体で、女性は選ばれる客体である」というセクシズムです。

 先ほど見た皇室の問題にまさに色濃く残っているところの、家長はつねに男性であるという家父長制。それに利するかたちで、性愛行動において男性が積極的であるべきで、女性は慎ましやかにそれを待つべきだという通念が存在していました。たとえば、愛情の告白というのは男性からするもので、女性からするのは女性らしくない、だとか。

 そうではない、女性だって選ぶ主体である。陳列棚に並んで品定めされるのを一方的に待っているのではない、こちらだって男性を品定めして値踏みしているのだ。それを堂々と宣言している点で、当時の女性たちに「よくぞ言ってくれた」と支持されたのではないかと思います。

 

 続けてもう1曲ご紹介します。DREAMS COME TRUEの「決戦は金曜日」(1992)です。

 

♪ DREAMS COME TRUE「決戦は金曜日」

 

 ドリカムことDREAMS COME TRUEも、90年代Jポップを代表する人気ユニットです。そして「ロマンスの神様」と同じく、これも合コンの歌なんですね。

 バブル経済に沸いた80年代から平成初期90年代にかけて、「花金」という言葉が生まれました。土日休みの社会人にとって、金曜日は次の日のことを考えず一晩中夜遊びできる日。だから金曜日は「花の金曜日」だと。それを略したのが「花金」という言葉です。

 タイトルは、その金曜日こそが「決戦」なのだと言っているわけです。待ち遠しく楽しみで、緊張を感じながら本気を出すべきは、至上の恋愛が待っている金曜日。ぬかりない準備のもと緊張とともに赴く先には勝負が待っているのでしょう。だからこの曲を「合コンに向かう主人公の話」と解釈するのは一定程度妥当です。

 この曲の最大のポイントは、戦いのメタファーを使っていることです。「決戦」がまさにそうですし、1番には「戦闘の準備は ぬかりない」とあります。合コンで人でも殺すんでしょうかww

 はたして、市場とはバトルフィールドです。価値によってドライに取引され、「椅子取りゲーム」★4のように勝者と敗者が生まれる。獲得競争に負けないためにはときに他者を欺くことさえ必要となるかもしれない。ぼくは合コンに詳しくありませんが、合コンはそのような場所であると伝え聞きます。そうであるなら、それはまさに「恋愛シジョウ主義」を象徴する場としてあるでしょう。

 Neruさんの曲にもまた、戦場のメタファーがたくさん出てきます。「FPS」(2015)もそうだったし、教室を戦場と表現する曲もありました。Neruさんの曲において、戦場がつねに性愛の舞台のメタファーであるわけではないでしょう。しかしこの戦場の頻出は、性愛にかぎらない人間同士の関係すべてに「恋愛市場」の市場性が全面化していないか?ということを示唆していると思います。

 前回まで、Neru「東京テディベア」(2011)1曲を時間をかけて分析しました。この曲は「何と格闘しているのか」と。いまの議論を経たうえで同曲をもう一度聴いてみると、さらに聴こえ方が変わってくるかもしれません。

Neru「東京テディベア」

  

 メイル・ゲイズ──「見ること」をめぐるセクシズム

 

 2曲とも、主人公である話者が女性であり、当然のこととして主体的です。

 先ほど「男性は選ぶ主体で、女性は選ばれる客体である」という間違った通念がかつてあったと言いました。それと並行して、「男性は見る主体で、女性は見られる客体」というセクシズムが広く文化社会に浸透していた。これまで何人もの論者がそのように指摘してきています。

 たとえば、美術。教科書に載っているような歴史的に有名な西洋絵画は、なぜ裸体の女性が多かったのでしょうか。1973年に発表された、視覚文化論の古典的名著とされる『イメージ──視覚とメディア』のなかで、バージャーは端的に次のように言います。

 

 「平均的な西洋の裸体画では、主役は決して描かれない。主役は絵の前にいる鑑賞者であり、男であると想定される。すべてが彼に向けられ、すべてが彼のためにあらわれるのでなくてはいけない。女がヌードになったのは彼のためである。しかし彼は明らかに見知らぬ他人であり、服を着たままだ。」★5

 

 バージャーは、西洋美術においては「鑑賞者=所有者」なのだと論じます。男性は見ることによって、そこで描かれ客体化されている裸体の女性を「所有する」という欲望を満たしている。「所有する/所有される」という非対称性がそこにあるのだと。

 非対称性を隠し持つ視線の問題は、映画理論家のローラ・マルヴィによって「メイル・ゲイズ male gaze」と概念化されます。映画は、男性の「窃視欲望」を満たすものとして成立してはいないか。マルヴィはこう指摘します。窃視とは、自分は「見られる」ことなしに、一方的に「見る」ことです。

 これらは西洋美術や映画など、確立された文化ジャンルにおいてのみ見られる問題でしょうか。等身大のわれわれの日常に引き付けて考えてみましょう。日本ではいまだ、とくにオーバーグラウンドのテレビなどのメディアのなかでは、女性を「見られる客体」として描きつづけていないでしょうか。外国からの留学生であるぱてゼミ受講生のひとりは以前「日本に来て、電車の吊り広告が露出度の高い女性ばっかりで驚いた」と言っていました。バージャーは前掲書で「インド芸術やペルシア芸術、アフリカ芸術、プレ・コロンビア芸術などの非西洋的な伝統文化において、裸がそのように受動的なものではなかった」★6、性的に能動的にも描かれていたと書きました。はたしてこれは、2020年代日本の一般文化状況に当てはまるでしょうか。われわれ(ときに女性を含みうる「We」です)はいまだに、ほとんど裸体の水着姿の女性ばかりを広告イメージなどのなかに見ることに、慣れきってしまってはいないでしょうか?

 

 だからこそ、オーバーグラウンドではない同人カルチャーこそは、女性の味方でした。BLカルチャーでは、作り手としても鑑賞者としても、主体は女性です。BLは男性のあいだの性愛を多く描くものですから、そのとき女性は性的にも主体です。

 2016年にぱてゼミ開講直前に東京大学新聞から受けたインタヴュー(「初音ミクでエンタメはどう変わったのか? 東京大学初のボカロPによるゼミに迫る」2016年3月26日)のなかで、ボカロカルチャーの隆盛についてこのような説明をしました。「若者世代は、少数者になったゆえに、市場価値を見出されなくなった。与えられないなら自分たちで作ってしまえ。そうして自分たちのためのカルチャーを自分たちで作ったのだ」。この図式は、かつて女性が強いられた状況とそれに対してとった行動を、そのまま同型に反復しているのではないかと思います。

 登場ののち時間をかけて、BLもいまや商業出版の一大ジャンルになりましたし、ボカロも若者世代にはマイナーカルチャーとは言いえない規模を維持しつづけています。また、多くの人が声を上げて変えようと行動してきたおかげで、女性を客体化する傾向もこれでもまだ「昔に比べればマシになったのだ」という指摘もあります。

 同人カルチャーはオルタナティヴですばらしい。しかしどうしてオルタナティヴであるかというと、メジャーカルチャーが女性や若者を周縁に疎外する力を持っていたからだ、というその起源はいつまでも忘れるべきではありません。 

 

ルッキズムとセクシズムの過渡期的衝突(に抗う)

 

 これまでの議論に関連して、ここで、今後の時代を生きていくうえで、必ず覚えておいてほしい概念をご紹介します。

「ルッキズム  Lookism」。直訳すると外見主義です。カタカナ語でも人の見た目のことをルックスと言いますが、容姿で人を判断する考え方のことです。セクシズムやレイシズムがそうだったように、「それで他者を差別する考え方」という含意を持つことがあります。

 身長が高い低い、太っている痩せているなどの体つき、肌の色、目鼻立ち、美醜、それらさまざまな要素の集合体として語られる容姿の評価体系であり、「東京テディベア」を通して考えた「身体を性的に/社会的に再構成する」強固なイデオロギーです。身体にとっての象徴界★7と言っていいでしょう。特定の他者によらずとも、そこに実際に人がいなくても、私の容姿をゲイズして、値踏みしてくる視線。ときに人を「脳ミソ以外もういらない」★8とうんざりさせるようなものです。

 

 セクシズムはまだまだ残存していますが、これでもかつてよりは少しマシになった。いまそう言ったばかりです。ここからは定量的に語りにくいところですが、あくまでぼくの責任範疇で、ひとつの主観として次のように言おうと思います。

 

 以前より、社会のなかの「セクシズムの総量」は減ったが、一方「ルッキズムの総量」は増えた。

 

 ひとつの根拠はこうです。男性だけが「見る/値踏みする主体」であるというセクシズムが解体されて、「ロマンスの神様」が示したように、女性も「見る/値踏みする主体」になった。これが完全に果たされたなら、「値踏みする主体」の総人口は単純に2倍になります。だから過渡期としての現代においては、セクシズムの解体とトレードオフに、社会のなかのルッキズムの総量が一時的に増えざるをえない。これは当然のこととも言えます。

 だからといって、セクシズムの解体というプロジェクトがダメなわけではありませんし、それは止まるべきではありません。女性ばかりが容姿を値踏みされたり、容姿について好き勝手言われていた過去のほうがいいということにはならない。

 男性は、自分たちがルッキズムの負荷を被らないで済むための通念を構築していた。たとえば「男は顔じゃない」という言説です。化粧をしたりして自分の見栄えをよくするのは女性の役割で、男性の役割は稼ぐことに尽きる──ジェンダー・ロールとルッキズムが絡み合っていますね。男性が髪や眉毛をいじっていると「男のくせに」「女々しい」と同性から揶揄される。言葉を足すなら、「ルッキズムを被るのは女性たちだけでいいという通念を男性たちで一致団結して維持しようとしているのに、その統一を乱すな」というようなことだったのでしょうか。もっときれいに見られたいという男性の欲望が同調圧力によって抑圧されていたという側面も一方にあるでしょう。

 ともかく、性別が条件となってルッキズムを免れられるという時代ではありません。身近なネットカルチャーでも、半ば冗談とはいえ「かわいいは正義」「ただしイケメンに限る」という標語が流行ったりしましたよね。マンガやアニメなどのサブカルチャーでは、キャラクターは描いたら描いたようになるから、性別に関わりなく基本的に全員が美形だったりする。そしてぼくらはそれを当たり前に享受している。だから、「東京テディベア」の叫びに、性別を問わず任意の聞き手は移入できる。

 

 ルッキズムは美醜に集約されることばかりではありません。ジェンダー・イメージと密接です。骨格が細いかどうか、体毛が濃いかどうかなど、通念的なジェンダー・イメージとの対応関係を見出されやすい要素は存在するでしょう。同じ男性であっても、男性的表徴が強いかどうかにも差異はある。

 第7回に、井手上漠さんという人物を紹介しました。2020年の東京ガールズコレクションのランウェイを歩くなど、モデルやタレントとして活躍されています。2018年の第31回ジュノン・スーパーボーイ・コンテストに出場し、DDセルフプロデュース賞を受賞したころから注目が集まりました。

 あえて無防備に言いますが、井手上さんはきれいな人だと思います。漠さんは自身の活動を通して、性別に囚われる必要はないんだというメッセージを発信している。それによって救われた人はきっとたくさんいる。そのことすべてを、ぼくは肯定的に考えたいと思います。

 そのうえで言わざるをえないのは、過渡期としての現状の日本の文化環境では、そのメッセージを発信できる人が、美しく中性的な人物だけになってしまっていないかということです。気をつけなければいけないのは、ジェンダーを越境でき、アンチ・セクシズムを体現できるのは、美しく中性的な人だけではありえないという点です。

 

 ここで、井手上漠さんのとなりに、レディビアードさんというプロレスラーの方を見てもらいたいと思います。髭とか胸毛とか、いわゆる男性的身体表徴を強く残したかたちで、女性的な衣装を着ている。

左:『井手上漠フォトエッセイ normal?』(講談社、2021)、右:『永遠の髭少女 レディビアード(DVD)』(DDTプロレスリング、2014)

 ふたりは、ジェンダー越境的であるという点では同じはずです。でもレディビアードさんのほうは、笑っていいもののようにされていないか。もっと踏み込んで言うなら、「これは笑っていいものだ」という演出がなされてしまっていないか(当人や関係者は否定するでしょう、しかし少なくとも、笑われることに譲歩している)。それで誰かは傷ついていないだろうか。ここにある通念が、誰かが自分の望むジェンダーを自認するのを阻むのだとすれば、ぼくはそれに抗議するほかありません。

 さらにもうひとり、となりにこの方を紹介させてもらいます。ジョナサン・ヴァン・ネスさん。Netflixの人気番組『クィア・アイ』に出演し、アメリカで人気を博している美容の専門家です。画像は、世界的に知られる女性誌『コスモポリタン』のイギリス版で、2019年に35年ぶりに女性以外が表紙に起用されたときのものです。髭に女性的な衣装、それはレディビアードさんと同じです。でもそこにある差はほとんど歴然ではないでしょうか。ヴァン・ネスさんは、自分をコミカルになんて見せていない。「髭は男性の表徴」とか、そんなルッキズムの分節体系は二の次にして、堂々と、自分であることを楽しんでいる。これは、誰かを勇気づける笑顔ではないでしょうか。

ジョナサン・ヴァン・ネス

ルッキズムは必ずよりシビアに問われていく

 

 このルッキズムの問題についてはとくに、聞いていてしんどいと言う学生も少なくないかもしれません。自分と無関係ではありえないから。値踏みする側としても、値踏みされる側としても、自分はルッキズムと無縁であると断言できるような人はほぼいないでしょう。ぼくも例外ではありません。

 だからと言って、みんなしているのだからそのまま温存すればいいという話にはなりません。より美しい人を愛好するのは「本能」なのだとか、本質主義的な主張をする人はいます。しかし、どんな外見が美しいとされるかは時代と地域に大きく依存していて、文化的に構築されたものにすぎない。

 端的な例を示すに留めますが、平安美人といまの美人のイメージは違うし、19世紀末のアメリカでは太った体型の男性はモテたと言います★9。肥満は豊かな食生活、すなわち富の象徴だったから。ここでルッキズムは明白に自律的ではなく、ほかの価値基準=権力がひしめき合う場所としてあります。本質主義者が言う「本能」が希求する美しさとは、少なくともそのようにノイジーな何かです。

 

「かわいい」もそうではないか。自分よりも「弱い」こと──支配可能で下克上しない対象である、という価値判断が潜在していないか。一方それを自演する者にとっては、無害であることによって他者に魅力的だと感じてもらう戦略である。少なくともかつてはそうでした。いまも、対象を積極的に矮小化する★10マウンティングの言葉として「かわいい」が用いられる場面もある。

「かわいい」はこんにち、より自律的な美性としての側面も持つかたちへと進化していきました。誰かのための「かわいい」でなく、自分のための「カワイイ」──そうして「かわいい」は「カワイイ」に進化した。

 そのような理解にぼくも基本的には賛同するところですし、ある特定のファッションスタイルをまとっている人を「媚態的だからいけない」「セクシズム温存的だ」と断罪してしまうことには慎重であるべきだと思います。けれども、これを消費する側が自己正当化するロジックとして濫用することにはそれ以上に警戒すべきです。「かわいい」が進化したことは、ノイジーではなくなったということではない。そう理解しています。

 

 予言しましょう。2020年代を通して、ジェンダーの議論におけるルッキズムの問題はよりシビアに検討されていくことになります。外見の美醜や身体的特徴について言葉にするのは、もっとデリケートなことになっていくはずです。もうすでにその萌芽は見られますし、ぱてゼミが開講した2016年から現在までのあいだにも、その高まりは感じます。

 明らかなのは、ルッキズムは少なくとも、すべての人を幸せにする論理ではないということです。セクシズムの総量は以前よりは減ったけど、ルッキズムの総量は上がった。後者の増大を、特定の性別の問題としてではなく、すべての人にとっての問題として解決していくことが、今後のジェンダー論の課題のひとつとなっていくと予想しています。──予想が的中したら褒めてくださいねw

 

 ルッキズムに抗うとはどういうことでしょうか。通念=権力=身体の呼び声によって誰かを選択し好むことを禁じ自罰するということでしょうか。あるいは、身体の呼び声に抗って、選ばなかったはずの誰かを選ぶことでしょうか。自分自身をより美しく/かわいく見せようとする欲望は自罰されるべきでしょうか。

 本当に難しい問題ですし、ルッキズムをめぐる「ふつう」が推移するとは断言できても、具体的にどのように推移すべきかまでは、ぼくから解答を提供するみたいに話すことはできません。みんなそれぞれに考えてみてほしいと思いますが、思考の補助線にしてもらうべく、ここでふたつの作品を外部参照したいと思います。

 

 ひとつは、SF作家テッド・チャンによる短編小説「顔の美醜について」★11。タイトルが直球ですね。SFなのでまだ現実には存在しない技術が登場します。それは「美醜失認処置(カリーアグノシア)」。「容貌の評価を専門とする神経回路を閉鎖」することによって人の顔の美醜を感じなくなる技術で、手術も要らず、かつ可逆である。それを導入しようとするコミュニティと反対する勢力の言説による攻防を通して、ルッキズムの本質を問う鋭い作品です。導入派はたとえばこう言います。「あなたのお子さんを、外見の問われない環境でのびのび育ててあげたくないですか?」。反対勢力の代表格は化粧品業界と広告代理店。ルッキズムは、強者を優位に立たせるだけでなく、劣等感を煽ることで儲けたい人にとって必要なものなのでしょう。さまざまな立場の人の意見が矢継ぎ早にモンタージュされていく構成で、先ほど話した「ルッキズムは本能だ」と主張する学生や、人工的な神経回路への介入ではなく、教育で解決すべきと主張する学生も出てくる。結末においても唯一解を押し付けるような作品ではありませんが、カリーをひとたび外した少女は、もう一度カリーをつけることを決断してこの小説は終わります。

 もうひとつの作品は、D[di:] 『キぐるみ──(で、醜さを隠そうとした少年のはなし)』★12。これもいわばSF作品です。主人公の住む街では、醜いことは罪である。美しくない人間には着ぐるみの着用が義務づけられるという「「かわいい」至上主義」の街。説明するだけで気分が悪くなるようなディストピアですが、その内側にいる人間にとっては「ディズニーランドのように楽しげで清潔な」ユートピア。そのかわいい姿を外から来る観光客に「見られる」ことによって街の経済が成立している。「かわいい」の束縛に絶望した主人公は街を飛び出します。しかし外の世界もルッキズムの市場にすぎなかった。あの街が単に世界の縮図だったことを思い知ります。さらには、主人公はルッキズム強者でないからには性的価値を差し出せ、という暴力的扱いを外の世界で受けてもいる。バッドエンド作品ですね。

 

 

ボカロはいかにして性表象の搾取を迂回したか

 

 結局みんなかわいいものが好きなのだから、みんなかわいくなってしまえば解決ではないか。全員がルッキズム強者になればいい。たとえば10年代後半から、VチューバーことバーチャルYouTuberという文化が生まれましたが、みんなヴァーチャル空間で理想の身体を持てば、それはルッキズムの克服である。──そのようなアイディアが解決になりえないことを、とくに『キぐるみ』のほうは描いていると思います。

 10年代後半、Vチューバーの登場とともに一部に「バ美肉」という言葉が生まれました。「バーチャル美少女受肉おじさん」の略であり、男性が女性の身体表象をまとうVチューバーのことです。この言葉はぼくには支持できるものではありません。「受肉」という部分がとくにダメです。ここで「美少女」のイメージは外形的な肉体のみに還元されています。

 ここまで女性を客体化して消費することを批判してきましたが、自己のイメージとしてまとっているなら、それが「女性の客体化」という批判を免れる口実になるということはけっしてありません。

 

 今日の冒頭で、オタクと言って男性のみを想定するのは不当なセクシズムであると言いました。それはそうとしつつ、いわゆる男性オタクの文化がジェンダーの視点から批判されるべき問題を抱えていたことは事実です。

 最大の問題は、そこに女性がいないことです。典型的に図式化して言うとこうです。男性が、理想とする女性キャラを表現し、それを男性の受け手が消費する。現実の女性の内面はいらない。女性は男性の望む身体表象としてあればよくて、その内面は男性にとって理想的なものを(フィクションなのだから)インストールすればいい。女性への欲望をエンジンとしながら、理想を設定するのも消費するのも男性ばかりでホモソーシャル。女性排除的。つまり、ミソジニーの結果として理想的女性の客体化がある。これがフェミニズムの視線からの男性オタク向け二次元カルチャー批判のひとつです。「バ美肉」★13はまさにこの図式を反復しうるわけです。

 とくに創作のうえでは、実在しないどのような人物も描出できてしまいます。「私は私的欲望としてこのような女性を描きたいと思ったのだ」。そのような創作の自由は制限されるべきと言いたいわけではありませんが、しかし、描かれた女性表象は、その一方的な客体化や描き方の質によって、多くの人に検討され批判されていくでしょう。それらの声との交渉の結果、10年代を通して、アニメなどにおける女性の描かれ方は全体には改善傾向にあったと伝え聞きます。

 トランスジェンダー当事者の方をはじめ、現実の自己身体イメージに違和を持つ人たちにとって、バーチャル空間で自分の身体イメージを書き換えられることは、大きな福音になると思います。その自由と尊厳が尊重されるべき一方で、「Vチューバーは身体イメージを描くことで外部化しているのではなく、そのイメージを自身にまとっているのだから、これは客体化ではない」という言い方が、前段の批判を解消するものになったわけではありません。いま技術によって、「それになる」ことによる客体化、そして搾取が可能になった。新しい技術が、新しく誰かを救った一方、同時に「新しい搾取が生まれた」というのが正確だと思います。

 前者を肯定しながら、後者を警戒すること。そこには困難もあります。両者を区別し裁定できる他者とは誰か。前者が後者だと誤解されるとき、「新しい傷つき」が生まれないか。新しい問題はいつも難しい。またしてもぼくは明確な回答を提出するようには話せませんが、問題がすぐに解けないからと言って、そこに問題があること自体から目を逸らすわけにはいかないとは強く思っています。

 ここで、有名なフェミニズムのスローガンを紹介します。

 

 個人的なことは、政治的なことである

 The personal is political

 

 たとえばある人が「結婚したい」という欲望を持っているとする。遍く欲望が個人的なものだとしても、それは社会(政治)と無関係だろうか。社会がこのようではなく別のあり方だったら、その欲望は同様に存在しただろうか。上記のスローガンは、1960年代以降のアメリカにおける第2波フェミニズム運動が、婚姻や、前出のジェンダー・ロールの問題を問うていく中で、広くフェミニストの中で共有されたものとされます。

 ジェンダー論ゾーン初回で、ぼくも「性は私的な領域」であるとひとたびは言いました。ただし、それは政治的でもある。

 断言しますが、そうであったとしても、私的欲望を内面のなかに持つこと自体は、断罪されるべきではありません。けれども、それに基づいて、実在する誰かを選んだり、能動形で自由にキャラクターを描いたり、あるいは特定の身体イメージをまとって「それになる」ことは、他者=社会との関係を免れません。特定の場合には、そのアクションは(その根拠となる欲望の質までを含めて)他者や社会から断罪される場合もあるでしょう。

 バーチャル・リアリティについては後の回でより詳しく触れますが、身体の自己表象を自由にコントロールする技術は今後も進化していきますし、基本的にはそれは歓迎されるべきものです。一方で、フロンティアの自由においてむしろ旧来的なセクシズムやルッキズムを温存どころか増長させないように、慎重さが求められるとも考えます。開拓地においてこそ倫理が必要であることは世界史も語っているところです。

 ボカロというフロンティアのシーンには、リスクが明白にありました。人間が入力した通りに歌ってくれるのだから、初音ミクを「主人の意のままになる服従的な少女アンドロイド」として主従関係のなかに置く想像力はありえたものだし、実際にそのように描いている有名曲も初期にはあった。しかしそれは主流をなすことなく現在に至ります。

 誰かが倫理を高らかに謳ったわけでもない。むしろ、資本の介入しない「感性のリベラリズム」が実現するかつてのニコニコ動画において、シーンに自然に選ばれたのがアンチ・セクシズム的な楽曲群だった。その事実と、それを象徴するかのような「砂の惑星」が描くミクのイメージを、ぼくはシーンの一員として誇らしく思います。

ハチ「砂の惑星 feat.初音ミク」

 

湯川れい子に敬意を込めて──かつて恋愛主義はリベラリズムだった

 

 恋愛シジョウ主義、そしてルッキズム。自由競争の名の下にそのようなバトルフィールドが存在している。戦いが嫌いだから行きたくない人もいれば、そもそも行こうという内的動機がない人だっている。

 湯川れい子さんはかつて「人は思春期を迎えると、ラブソングを求める生き物なんです」と言いました。しかし「人は思春期を迎えると戦場に行きたくなる生き物なんです」というのは、少なくとも人間すべてには当てはまらない。

 すでに我々は、湯川さんのこのテーゼを批判的に検討すべく、ボカロシーンに現れたアンチラブソングたちを分析してきたわけですが、ここで言っておきたいのは、名前を挙げて批判するということは、ときに、その議論の続きを書き足していくに十分な先人としてリスペクトするということでもあるということです。

 

 湯川さんは、戦後日本の音楽文化史上で最重要のフェミニストのひとりです。女性で初めて日本のラジオでディスクジョッキーを務めた人でもあり、男性中心主義的だった音楽評論の世界に切り込んでいった論客であり、前述の通り作詞家としても活躍されました。

 いまわれわれは湯川さんの恋愛主義を批判的に更新しようとしていますが、湯川さんの恋愛主義は、先行世代の批判的乗り越えとしてありました。湯川さんよりも前の世代にとって、恋愛によってパートナーを獲得するのは誰もに許されたことではなかった。湯川さんのお母様は、配偶者になる人の顔を結婚式で初めて見たそうです。個人同士ではなく家と家の問題とされる。皇室の話にも繋がりますね。

 湯川さんにとっての恋愛主義は、家的なものから個人が開放される自由を謳歌する思想としてもあったでしょう。つまり、湯川さんにとっての恋愛主義は、リベラリズムだった。

 冒頭で引用した小林明子「恋におちて」に加え、湯川さんの作詞家としての代表曲をもう1曲ご紹介しましょう。アン・ルイスの「あゝ無情」(1986)。

 

♪ アン・ルイス「あゝ無情」

 湯川さん一流の非常に濃厚な歌詞世界の楽曲です。注目したいのは「本音をいえば結婚したい まさか愛してる」という箇所です。ふたつのベクトルが交錯していて、深い。

 全体には「悪いけど 良くモテてます」と自分の魅力に自信ありげで、ちょうど直前で「強がりが 出ちゃう」と言っているけれどもそれは本気ではない。では強がりや建前ではない、個人的な本音がなにかというと「結婚したい」。世間や家は結婚を強いてくるけど、本音の感情では別の人を愛しているの、という古典的な不遇の図式ならばわかりやすいのかもしれませんが、そうではまったくなくて、「結婚」を私的な欲望のレイヤーに置いている。「まさか」と自分にとってアンコントローラブルな感情としての「愛」との対応物として、結婚を置いています。

 これを、恋愛主義的に結婚という行為を「個人的なこと」へと奪還したのだ、というようにも解釈できるかもしれません。しかしそれでも、結婚は社会契約のひとつです。同じ恋愛主義といっても、この曲の7年後の「ロマンスの神様」が象徴する合理判断的な「恋愛シジョウ主義」とはずいぶんとトーンが違います。

 ボカロは、ユースカルチャーであることもあり、ラブソングのなかにおいても結婚が描かれる例は、少なくとも有名曲のなかではあまり多くありません。

 なのですが、例外的に歌詞中に「結婚」が登場するというボカロ有名曲を聴いてみましょう。2011年の曲です。

 

♪ Honeyworks「スキキライ」

 

 ぱてゼミはアンチ・ラブソングを追ってきていますが、ボカロシーンで正統派のラブソングの名手といえば、ハニワ★14ことHoneyworksです。先行世代の継承ではなく、「自分たちの世代のための恋愛主義」を確立しようという気概を感じて、同時代にとって重要なアーティストだと思っています。

「「Wedding」そうヴィジョンは完璧! そうだ、住むのは松涛あたりがいいな♪」というフレーズがありますね。リンちゃんもレンくんも中学生で、レンくんが勢いのままに好き好き言っていて、勝手に結婚するところまで想像して嬉しくなっちゃっている。

 結婚というものが出てくるニュアンスが「あゝ無情」とはずいぶんと違いますね。「好き」が「結婚したい」にすぐに短絡する想像力が、あどけなさの表現になっている。つまり「まだお子ちゃまだから期待を膨らますもの」という文脈で、結婚が出てきている。

 「あゝ無情」における、成熟した女性が本音のレイヤーで要求するものとしての結婚と、「スキキライ」における、子どもだから憧れられる結婚。あまりに差のある2曲だと思います。もちろんあくまで端的な一例ずつであるとはいえ、結婚という社会契約の相対化の手つきがそれぞれに味わい深い2曲であり、そこには25年という時間の幅を感じざるをえません。

 

 

ぱてゼミ型ジェンダー論はどう形成されたか

 

「スキキライ」はラブソングですが、それ以前の感性との距離感において、ぱてゼミが注視している新しい感性の受け皿としてのボカロシーン、なかでもそれが濃厚に現れた先としてのアンチ・ラブソング群と共通する時代性のなかにあると言っていいでしょう。ボカロに現れた感性の新しさと、それが「それ以前の感性の乗り越え」であることを明確に表現している点で、それ以前との蝶番の役を果たすような重要な曲ではないかと思います。

 この講義は「ボーカロイド音楽論」であり、そのなかのジェンダー論ゾーンでは、前回の通り「東京テディベア」という1曲が特に主役になりました。それ以前に見てきたアンチ・ラブソング群も含め、日本の文化状況のなかで離れ小島のように独立して浮いているということではありません。時間的前後関係や支持層の隣接関係などによって安易に表現同士を関係づけて「歴史」にすることも同時に警戒しなければいけませんが(Aがあったからその影響を受けてBが生まれたというような)、少なくとも、そこにボカロを包含する大きなカテゴリとしての「戦後日本サブカルチャー」のなかで、ジェンダーの視点を導入すると見えてくることはたくさんあります。個別具体的な表現作品同士の呼応関係はさておいても、確実に言えるのは、サブカルチャーを通して「旧来的なジェンダー/セクシュアリティ観」に対する抵抗がさまざまなかたちで試みられてきたという事実です。ときに直感的に、ときに戦略的に。

 

 さて、たくさんの話をしてきましたが、ぱてゼミ型ジェンダー論もついに終盤です。

 ぼくをここまでアライに育てたのは、紛れもなくボカロシーンです。シーンで出会った仲間には、LGBTQIAPのすべての当事者がいます。前回アウティングを強く批判した通りですので、当然誰がどうということは意地でも言いませんし、カムアウトしている人以外はどう検索してもわからないはずなので言いますが、それだけ多様な仲間が実際にいる。

 作家とリスナーの境が比較的弱いシーンだったから、本当にたくさんの人とコミュニケーションしたし、その多くは当時みなさんと同世代、10代だった人でした。ぼくは年長者ゆえに相談を受けることも多かったんですが、そのうちの少なからずが、ジェンダー/セクシュアリティの悩みでした。

 講義のなかで当然のこととしてお話しした「同性愛は病気ではない」とか、そういうレベル1の説明を何度繰り返したかわかりません。それは主に当人たちに対してでしたが、Skype越しに、その子の親御さんに説明するということもありました。親御さんが「同性愛を治すために精神科に連れて行く」と言い出したと。社会に情報が行き渡っていないために、この時代にもこんなことが起こりえてしまっている。説得しなければならない。間違ったことを教えられない。だから本を買ってきて勉強して。そういうことを繰り返すうちにアライになったようなものです。

 また、自分が典型的ではないことに悩んで、学校から足が遠のいている子も複数人いました。そこで不登校の子たちと少し接点を持ったことが、ぼくがROCKET(Room Of Children with Kokorozashi andExtra-ordinary Talents。東大先端研による、不登校児にオルタナティブな教育を提供するプロジェクト)に参加していたことのほぼ直接的な動機です。すべてつながっているんですね。

 

 この話を聞いて「ボカロシーンにはマイノリティ当事者が多いのだろうか?」と仮説した人もいるのではないかと思います。じつはぼくも最初、少しそう考えました。それ以前に比べれば、一気にと形容していいくらい、短期間に多様なみんなと触れられたから。ぼくの主観観測はそう誤解した。

 でもその仮説は正しくないのだと思います。ボカロシーンにも、ほかの日常空間にも、どこにでも同じだけマイノリティがいる。日常空間では彼らは言わないだけ。ボカロシーンでは、日常の人間関係とは切り離されたオンラインのみの関係性だったとか、ぱてさんがなんとなく温和そうに思えたとか、いろいろな条件が相まって、言ってくれたのだと思います。同級生などの、いわゆる「リアル人間関係」にはいっさい言っていないという子がほとんどでした。本来どこにでもいる彼らが、ぼくとっては、ボカロシーンを通してたまたま可視化された。そこが、インターネットというアンチ・フィジカルな場所だったことも直接に関係するでしょう。学校では世を忍ぶ仮の姿としてヒラヒラのスカートを履かなければいけないけど、ぼくはネットでは自由だぞ、とかね。

「10%がセクマイ当事者」と聞いても実感と合わないと思っていた人は、この話を踏まえて、その実感と実態を隔てる構造がどのようなものか、考えてみてくれると嬉しいです。

 

 ぼくは、今後ジェンダー/セクシュアリティ論は学校教育のなかで必修化されていくと確信しています。それはできれば中学校や高校など早い段階だと望ましい。みなさんは大学でこの議論に触れたわけですが、日本の若者の全員が大学に進学するわけではないからです。ここでやった議論は「2020年代に常識になる」べきものです。言い換えると、「知らなかった」では済まされない話になっていくということです。それほどの話が、大学に行かないと触れられないという状態であってはいけません。

 講義が終わったあと、もっと早く聴きたかった!という感想を寄せてくれた学生はこれまでもたくさんいました。そうだろうと思いますし、ぼくとしても、ジェンダー/セクシュアリティ論をすでに必要としている中高生に早くお届けしたいという気持ちです。

 社会がジェンダーをどのように扱うかは時代と地域によってさまざまです。いま自分を取り囲む状況が普遍的な姿であったり、正解であったりするわけではありません。そしてまた、それは「変えられる」ものです。まだまだ過渡期ですが、それでも着実に、変わってきている。

 教育に関しても同様で、それは変えられるものです。今後、若年世代へのジェンダー教育はどのように変わっていくのが望ましいでしょうか。必修化すべきだ、というぼくの意見を押しつけることこそしないものの、みなさんもいっしょに考えてくれると嬉しいなと思います。高校までの教育をいま通過してきたばかりだからこそより鋭い意見を出せるということもあると思うので。

 ジェンダー論第1回の冒頭でお話しした通り、「ボーカロイド音楽論」におけるジェンダー論パートは、あくまで入門的で限定的なものです。また、東大の中には複数のジェンダー/セクシュアリティ論に関連する講座が開講されていますが、どこに重心を置くかがそれぞれに違っています。ぱてゼミを受講したからもう免許皆伝!なんて思うことなく(繰り返しますが、あくまで入門編ですから)、東大のほかの講座はもちろん、関連書籍を手にとるなど、ほかの議論にもぜひ触れていってほしいと思います。ぼくも、自分の責任のかぎりでここまで講義しましたが、免許皆伝ではないという意味ではみなさんと同じです。だから、ぼくも引き続き勉強していきます。

 

 それでは、4回にわたるぱてゼミ型ジェンダー論はこれにて終了です。最後まで長時間聴いてくれてありがとうございました。お疲れ様でした。


★1──ニコニコ動画「【初音ミク】マージナル【オリジナル曲】」より。
★2──広瀬香美「promise」をラマーズPが動画的にアレンジしたものが昔のニコニコ動画の中で流行し、広瀬本人もその動画を「ゲッダン」と呼んで好意的に受け入れている様子だった。現在は削除されておりニコニコ動画では視聴できない。
★3──本段落のカギカッコ内は広瀬香美「ロマンスの神様」より引用。
★4──「東京テディベア」の投稿者コメントにあるキーワード。
★5──ジョン・バージャー『イメージ』(伊藤俊治訳、ちくま学芸文庫、2013/原書=1972)、80頁、同書3章「「見ること」と「見られること」」より。
★6──前掲書77頁
★7──象徴界(le symbolique)。ジャック・ラカンによる精神分析理論のなかの概念。広義の「言語」であり、各個人にはままならぬ「AはBという意味を持つ」という分節体系全般がこれに該当する。
★8──「東京テディベア」歌詞より。
★9──Kevin Loria「アメリカ人が考える、男性の「理想体型」 ── 150年の変化を振り返る」(2017年2月14日)
★10──真剣に怒っている人を「ムキになっちゃってかわいい」と言うことでマウンティングする(自分に余裕があるかのように振る舞う)など。
★11──テッド・チャン『あなたの人生の物語』(浅倉久志ほか訳、早川書房、2003)所収。
★12──D[di:]『キぐるみ──(で、醜さを隠そうとした少年のはなし)』(文春文庫、2009)
★13──学生から出た意見によると、(おそらくは)男性である視聴者が「中の人が男性(同性)だからという安心感のもとに、現実の女性に対しては言えないような性的なことを言ったり、性的なリクエストをしたりしている」という。
★14──ボカロシーンでハニワと言えば2作家いて、HoneyWorksとHaniwa氏(アメリカ民謡研究会)である。

アメリカ民謡研究会「言葉のおわり。」

culture
2021/07/16
執筆者 |
鮎川ぱて@しゅわしゅわP
(あゆかわ・ぱて@しゅわしゅわP)

ボカロP、音楽評論家。2016年より東京大学教養学部非常勤講師を務める。東京大学先端研協力研究員。本業は「若者をあなどらない業」。LGBTQ、障害当事者、若者などマイノリティの味方をするアライ。ウニ銀レ。代表曲に「SPL」など。
東京大学での講義「ボーカロイド音楽論」(通称「#東大ぱてゼミ」)の書籍化を準備中。ご興味のある出版社の方、ご連絡をお待ちしています。
Twitter: https://twitter.com/ayupate

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