2020年代の欲望と疎外の編成──私たちが同じ空間を生きていないことについて
「やあ、この先にいい飲み屋があるよ」「オススメのダイエット法をきみだけに紹介したいんだ」「新しい住宅ローンがあるの知ってるかい?」あなたは人気者だ。街を歩くだけでたくさんの声がかかる。街頭でも、駅でも、テレビをつけているときも。たくさんの誘惑があなたに熱い視線を送る。誘惑の主は、広告でありメディアだ
#ボカロ #カゲロウプロジェクト #仲谷鳰『やがて君になる』
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2021/05/14
執筆者 |
鮎川ぱて@しゅわしゅわP
(あゆかわ・ぱて@しゅわしゅわP)

ボカロP、音楽評論家。2016年より東京大学教養学部非常勤講師を務める。東京大学先端研協力研究員。本業は「若者をあなどらない業」。LGBTQ、障害当事者、若者などマイノリティの味方をするアライ。ウニ銀レ。代表曲に「SPL」など。
東京大学での講義「ボーカロイド音楽論」(通称「#東大ぱてゼミ」)の書籍化を準備中。ご興味のある出版社の方、ご連絡をお待ちしています。
Twitter: https://twitter.com/ayupate

あなたはどのようにしてマジョリティでありつづけてきたか

 

「やあ、この先にいい飲み屋があるよ」

「オススメのダイエット法をきみだけに紹介したいんだ」

「新しい住宅ローンがあるの知ってるかい?」

 

あなたは人気者だ。街を歩くだけでたくさんの声がかかる。

街頭でも、駅でも、テレビをつけているときも。たくさんの誘惑があなたに熱い視線を送る。

誘惑の主は、広告でありメディアだ。

 

思えば昔からそうだった。

トレンディドラマはあなたのほうを向いていた。あなたが大学生の頃に見た『東京ラブストーリー』(1991)の主人公は広告代理店の若手社員だった。あなたが見上げるのにちょうどいい程度に年長の社会人だった。

 

そして、あなたが好きなものはみんな好きになった。

あなたたちの好きなものは流通する。市場に大量供給されるものは、人の目に入りつづける。単純接触効果。人はそれ好きになる。だからあなたたちの前後の幅広い世代もトレンディドラマを見ていた。小学生も見ていた。

 

あなたたちがちょうどアラフォーになった頃に放送されたドラマは『最後から二番目の恋』(2012)。主人公は45歳と50歳だというから、これもあなたたちにとって少しだけ見上げる格好の設定だ。

 

これまでずっと、日本のマーケットがあなたを無視することはなかったし、それは高い確率でこの先もずっと変わらない。2040年代の高齢者サービスはあなたたちの多様で大きな需要に応えるかたちで進化していることだろう。施設に流れる音楽のメインはおそらくJポップだが、渋谷系→キリンジ→ceroと渡り歩いてきたあなたの要望も無視されない。同世代のなかで相対的にはマイナーな需要であっても、そのマーケットサイズはおそらく商業的に成立するに十分だ。

 

──「数が多い」とはこういうことである。

上記の「あなた」に想定したのは48歳。現在の日本の平均年齢であり、同時に、現在の世代別人口分布における最後のピーク、団塊ジュニアの中心の年齢だ。

 

「消費せよ、消費せよ」という呼びかけに疲弊することもあったかもしれない。あるいは、「誘惑に負けるものか!」と言って、誘惑をすり抜ける術をあなたは身につけているかもしれない。その身のこなしももう半世紀近くを経て身体化され、意識せずとも実行できるようになっているかもしれない。

そうだとしても、それは言い寄られることに慣れているというだけだ。やはりあなたにとっての風景は誘惑に満ちている。

あなたはモテるのだ。

 

これから始まるエッセイは「私たちは同じ空間を生きているのか」という問いについて考え、ひとつの仮説を提示するものである。「私たち」には、2021年の日本を生きるすべての世代が含まれる。

結論を先に言ってしまうなら、答えはノーだ。私たちはすでに、少なくとも意味論的には断絶した別の空間を生きている。

この時点で念のため言い添えておくが、このエッセイは必ずしも特定世代を批判するものではない。生まれる時代と場所はすべての人にとって選べないものとしてある。本稿が特定の生得的属性を悪だと名指すようなことはない。

けれども、ここで指摘する構造と問題についていっしょに考えてみてほしいとは強く思っている。どの世代の人にも。これはそういうエッセイだ。

 

私を疎外しながら続けられる官能的な攻防戦

 

団塊ジュニアにとっては、いつもどこかに誘惑が待ち構えている現実空間。同じ空間は、現代の若者にとってはどのように見えているだろうか。

全体としては大人向けの広告ばかり、廃校になった小学校は再利用で老人介護施設に。地域の子ども祭りは参加者不足で数年前に中止になったらしい。

なるほど了解。「街は私のほうを向いていない」。端的にそう言語化しうる状況だろう。けれども実感はそれだけには止まらない。あなたが10代の頃けっして鈍感ではなかったように、現代の10代も鈍感ではない。「自分が見られていない」ことだけではなく、自分を疎外しながらなされる欲望同士の交錯をこそ感じるだろう。自分ではない誰かと誰かが、上のほうで欲望の空中戦をやっている。

 

誘惑するとは、欲望せよと欲望することだ。「I want you to want me」──こう思うことが恋愛感情であるとする考え方がある。であるなら、広告はつねに、恋愛感情を抱いている。「メディアはマッサージ」──過去の偉大なある論者はこう言ったらしい。であるなら、広告は愛撫だ。差し伸べられるその手のすべてが望まれるものではないのはもちろんのことだが、それを振り払う手さえ、その埒外にいる誰かの目には交歓的な接触に見えてしまったりもするだろう。

 

あの子はあの子が好き、あの子はあの子が好き。そうやって相関図のなかに張り巡らされるたくさんの矢印が、ただ自分だけを逸らしていく。それはどんな経験たりうるだろうか。

ここで2つの、若者の支持を集めた傑作が想起される。

10年代後半に人気を博した『やがて君になる』(仲谷鳰、2015〜19)というマンガの主人公は、アセクシュアル(無性愛者)という設定だ。自分以外の多くの人がなんらかの欲望原理で交歓していることはわかる。だが自分だけはその原理を共有できない。

仲谷鳰『やがて君になる』(KADOKAWA〈電撃コミックスNEXT〉)

あるいは、10年代前半に一世を風靡した一連のカゲロウプロジェクト作品。日常世界(理不尽な構成)からは迫害されるが、そんな日常とは別の論理を知り、持ちえてしまった少年少女たちの連帯の物語。それぞれに目に関する能力を持つ登場人物たちの中で、モモというキャラクターは人の視線を集める能力を持つ。それは親などのまわりの視線が自分に向かわないことを不満に思う潜在願望と対応関係を持つ能力として描かれる。なお彼女はその能力を得たあとも、それを持て余し疎外感は簡単には解消されない。

(余談だが、『現代ビジネス』に寄稿した「うっせぇわ」論(「「うっせぇわ」を聞いた30代以上が犯している、致命的な「勘違い」──わかった気でいる年長者に言いたいこと」(2021年3月5日))において、筆者はこのように書いた。「現代において、10代はLGBTQと同程度にマイノリティである」。セクシュアル・マイノリティには固有のシリアスな困難があり、にもかかわらず両者を数の少なさ「だけ」で重ね合わせるとしたら、それはたしかに非礼でありうるかもしれない。それを承知のうえでもなお、筆者がいろんな場面でこのアナロジー表現を繰り返すのは、「欲望からの疎外」という問題に注視しているゆえである。どう考えるだろうか。)

 

われわれがともに生きるこの実空間は、公平ではない。息を吸って吐くように、それをまさに「ふつう」のこととして、欲望の交錯を生きている人がいる一方、となりにはそれと関わらず生きている人がいる。マジョリティとマイノリティは物理的に共生しながら、意味論的に断絶している。

生きることの論理を共有しない「other side」の存在を描くユースカルチャーコンテンツが人気を集めた例をさらに挙げることで、この見立ての説得力をさらに補強することもできるだろう。たとえば『東京喰種』『プロメア』。

 

(Each) you are king

 

話題は変わり、次は、現代の実空間の一部をなすインターネットについて語りたい。

 

ここまで語った街の風景なりなんなりをよそに、あなたはスマホを見る。電車に乗りながら、中吊り広告よりもスマホを見る。なんなら街を歩きながらスマホを見る(いけません)。

なぜか? それは、スマホがあなたを見ているからだ。

あなたはスマホを見る。すると、スマホはあなたを見返してくる。先ほどの「I want you to want me」は「I watch you to watchme」とほとんど同義だ。どちらが先だったかなんて、もはやわからない。あなたとスマホは視線を交わし合い、蜜月にある。そしてときに、あなたはそれと触れ合う。見ることとは違い、一方向的に触れるということは原理的にありえない。触れるとき、あなたは必ず触れられている。あなたの指先はスマホに触れられている。渾然一体の「Itouch you to touch me」。

 

なんのことはない。ターゲティング広告のことである。

スマホはあなたが見ているものを見ている。その履歴から、あなた個人の欲望にフィットする誘惑=広告を差し出す。その広告がじっさいあなたが手を伸ばしたくなるようなものかどうかはさておき、あなたはその広告が自分のほうを向いていることはわかる。相関図の中心にいるのはあなたで、すべての矢印はあなたにつながっている。

もちろん、これは若者のスマホに固有の仕様というわけではない。本稿冒頭の「あなた」もスマホを触るときには相関図の中心だし、相変わらずモテていることだろう。けれども、実空間で欲望に疎外される若者にとって、実空間と、スマホから広がるインターネット世界の落差は想像するにあまりある。

私たちは同じ世界を見ていない。スマホに関しては、文字通りの意味でそうである。同じサイトにアクセスしたとしても、ディスプレイに映る世界は同一ではない。あなたのディスプレイは、「すとぷり」や乙女ゲーの広告を表示したことがあるだろうか?

 

ホストクラブではソファごとに空間が分かれていて、顧客はほかの客を意識することなく「自分が一番」だと感じ、自分の時間と空間を楽しめる(と聞く)。けれども電車で隣席した「あなた」と「あなた」は、スマホと見つめ合うかぎり、ホストクラブの2人の太筋客同士よりもっと遠い。両者を包含する「全体」は存在しない。スマホはあなたを欲し、見つめ、触りながら、こう言う。「You are king.」

スマホが必ずあなたを見つけてしまうということ

 

小学生も『東京ラブストーリー』を見ていた。当時の大人(団塊世代だろうか)もファミコンをしていた──これらの例で端的に示したように、かつての旧メディア環境においては、数的多数派はそれだけでも強者なのに、前後世代を巻き込んでレバレッジを得るかのごとくさらに強者化していた。そのあり様が、人々の幻想する「全体」なるイメージを後ろ支えしていた。その頃、マジョリティは「全体」に等しいと幻想されていた。

(テレビという旧メディアの親玉を例に挙げるなら、80年代以降、視聴率競争に勤しむ民放各局は進んで「数的強者」である団塊ジュニアを取り込んでいった。「全世代から受信料を徴取する」ゆえに、各世代に対して公平に貢献しようとするNHKだけが率先して、全体から取りこぼされる当時のマイノリティ=高齢者向け番組を制作・放送していた。「日本の四季」だとか。2021年においてはどうか。NHKは率先して、現在のマイノリティ=若者向けの番組を制作・放送している。「沼にハマってきいてみた」だとか。)

対照的に、ターゲティング広告には、隣接する世代を巻き込む力はない。電車で30cmとなりの他者とさえ断絶しているのだから。ゆえに、強者がより強者になるレバレッジは緩和される。少なくとも、ここで示した構造を理解するマジョリティは、自分たちが即「全体」ではないことを同時に理解すべきである。

テクノロジーはマイノリティを救う。すなわち若者を救う(LGBTQを救う)。

 

それは「巣食う」ではないのか?──言うまでもなく、本稿はターゲティング広告自体を肯定するものではない。プライバシーの侵害、政治的悪用の可能性など問題は山積である。本稿の視点によっても、「欲望のエコーチェンバー」とでも言うべき問題は看過できない。履歴によってひとたび潜在的マーケットと見做されてしまうと、何度も執拗に誘惑し、なかったはずの欲望や強迫観念を捏造し増幅しにかかってくるアレだ。脱毛、ダイエット、体臭予防……そして陰謀論(これだけ広告を語っておいてなんだが、某Tubeを見るときは最速で「広告をスキップ」を押せる位置に親指かカーソルをスタンバイすべし。ってもうみんなやってますね。「みんな」?)。

 

悩ましいのは、Qアノンとか、ピーター・ティールやらニック・ランドやらを煮詰めて悪魔進化した差別主義とか、それらのいわゆる「マイナーな危険思想」もまた、ターゲティング広告と同様の論理によって、かつてに比べ力を得てしまっているだろうことだ。ある学生が、ピーター・ティールを発見して開眼する様子をTL越しに目の当たりにしたことがある(自分の受講生ではなく、過剰干渉になってはいけないと思い声をかけるのを控えてしまった。後悔している)。自分の学生時代、久しぶりに会った友人が「自分は真実を知った!」と言って落合信彦の本を薦めてきた日のことを思い出した。

──ことは複雑だ。2人ともが、本を読む習慣を持たなかった。文化資本を前提に知的交歓をする環境のなかで、おそらく彼らは疎外されていた。スマホは、インターネットは見つける、あなたの疎外感を。「Ifind you to find me.」スマホは巣食う。だがほかの誰かは彼らを救おうとしたか?

 

新しい疎外を発見しなければならない

 

まとめよう。

本稿は、本誌を主宰する柳澤先生、飯尾氏からのご連絡を受け、依頼文にあった「現在の年長世代とZ世代とでは、インターネットなるものの認識が違うのではないか」という問題提起から、メールの往復を経て、たくさんの別案を捨てたうえでこのかたちに着地した。別案にあったのはたとえばこうだ。

 

・「現実=意識/ネット=無意識」だと誤解し、ネットで抑圧された願望を噴出させることに慣れてしまった2ちゃんねらー世代と、Z世代との隔絶

・表裏一体のホモフォビアと同性愛願望が、あまりにもそのまま表出する「淫夢」なるカルチャーがやっと退潮しつつあること

 

これらの案は結果的に自分から棄却したが、本質的には本稿と通底したテーマを持っている。インターネットがいかに欲望と官能の空間たりえてきたかということだ

 

客観的に俯瞰した気分で語るなら、自分を中心とする空間(ネット)と自分を中心としない空間(リアル)を横断する若者世代のほうが、もともと存在しなかった「全体」なる幻想を持っていない分だけ冷静なのだ、とまとめられるかもしれない。結果、知らないFF外の人にいきなりリプを送るハードルが、おそらく上世代のほうが低い(「うっせぇわ」論がバズったときクソリプがたくさん来てびっくりした。その多くが昨今筆者のTLでは見なくなった2ちゃん語で書かれていたからだ)。

けれどもそれはそれとして、インターネットは「You are king」と呼びかけつづけ、「Each you are king」な世界は拡大しつづける。AR技術によって、メガネ越しの実空間の風景があなたに応じて広告を表示するようになったら(街の看板を消したり、そこに別の広告を表示する技術が開発されていると聞く)、本稿で考えた「若者の冷静さ」の根拠は失われることになる。そして団塊ジュニアはもっと増長するだろう。

10年代を通して一般化し、身体化したスマホというデバイスがインターネットにもたらしたインパクトは、それが触覚的で無距離的であるということだった。キーボードを経由することを通して辛うじて担保されていた、距離失認に対するブレーキが一気に取り払われる。指先から世界の再編成が始まる。スマホからスパチャを送ることの官能性はいかほどのものだろうか。筆者は経験がなくまだその世界を知らない。

 

「テクノロジーはマイノリティを救う」。それでも筆者は、このテーゼを翻すつもりはない。と同時に、フロンティアでこそ倫理が問われるということを、われわれは大航海時代=帝国主義時代に学んでいる。ソシャゲは規制されるべくして規制された。

欲望と、欲望させることをめぐる倫理は、今後どのように再編成されていくべきだろうか。それはおそらく疎外の再編成でもある。誰かにとっての疎外の解消が、ほかの誰かにとっての新しい疎外の生成になるということは残念ながら起こりうるし、そのとき冒頭の「あなた」のように、ときに我々は疎外に気づき損ねる。

不可視領域に疎外が追いやられたからこの再編成は正しいのだ、ということには断じてならない。「I want you to find me」と呼びかけが聞こえなかろうと、交歓的ではなかろうと、こちらから疎外を発見しなければならない。

いま進行しつつある再編成の意味と構造を注視し、あなたとは別の「あなた」を想像しつづけることが、「互いに干渉しないバラバラの並行世界を生きる」以外の可能性を切り開いていくだろう。撤退戦が回答でないことだけはわかっている。

 

今日も素知らぬ顔で、スマホを舞台にした官能的な戦争は続いている。

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2021/05/14
執筆者 |
鮎川ぱて@しゅわしゅわP
(あゆかわ・ぱて@しゅわしゅわP)

ボカロP、音楽評論家。2016年より東京大学教養学部非常勤講師を務める。東京大学先端研協力研究員。本業は「若者をあなどらない業」。LGBTQ、障害当事者、若者などマイノリティの味方をするアライ。ウニ銀レ。代表曲に「SPL」など。
東京大学での講義「ボーカロイド音楽論」(通称「#東大ぱてゼミ」)の書籍化を準備中。ご興味のある出版社の方、ご連絡をお待ちしています。
Twitter: https://twitter.com/ayupate

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