カルチャーとポリティクス──文化が政治に利用されないために
文化が政治に繋がっているのは悪いことではなく、ただの事実です。日本ではそれを否定し続けた結果として文化全体が軽視されてしまい、むしろ政治に利用されてしまっているということは専門家にも最近問題視されるようになったと感じます。
#文化盗用 #セルフケア #オリンピック開会式
culture
2021/09/10
インタビュイー |
竹田ダニエル
(たけだ・だにえる)

カリフォルニア出身、現在米国在住のZ世代。大手レーベルのビジネスコンサルタントやテック系スタートアップを経てフリーランス音楽エージェントとして活動し、アーティストのPRやマネジメントを行う。ライターとしては「カルチャー×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆、『現代ビジネス』『Forbes』『Newsweek』『日経新聞』『Rolling Stone』等掲載。『群像』『日経xwoman』『DIGLE』『日経COMEMO』『wezzy』で連載中。

利権に破壊されたカルチャー──オリンピック開会式を振り返る

  

柳澤田実

今回、竹田ダニエルさんを囲んで「文化盗用(Cultural Appropriation)」などを筆頭に、政治と文化をめぐるトピックについて話したいですねと言っているうちに、東京オリンピックがあり、直近ではフジロックフェスティバルがありと、コロナ禍で、文化と政治について根本的に問い質(ただ)されるような出来事が続いています。

 

竹田ダニエル

「文化盗用」についてはアメリカでは議論し尽くされている空気になっていて、この問題に関して意識的になりすぎることはないくらいの風潮になっています。もちろんそれに対するバックラッシュも起きてはいるのですが、だいぶ議論が成熟している。それに対して、日本ではやっと「文化の盗用」というフレーズが知られ始めたくらいだと感じます。今日のこの対話では、私は専門家としての意見を述べるというよりも、日本でどういう意識をみなさんが持っているのかということを共有しながら、正解を求めるというよりも、「文化と政治」について多くの人が議論するためのきっかけが話せればいいかなと思っています。

 

柳澤

私も眞鍋ヨセフくんもスペシフィックな意味でこのジャンルの専門ではないですが、文化を大事に思う者としては、一連の出来事について話さなければならないことはたくさんあると感じています。「文化と政治」についての日本人の意識、ということで、まずオリンピックから始めましょうか? 20代、竹田さんと同じZ世代の眞鍋ヨセフくんは、いかがでしょう?

 

眞鍋ヨセフ

そうですね、自分が日本人の20代の意識を代表しているとはまったく思えませんが、まず率直な感想を言いますと、オリンピックの開会式は、僕は初っ端でがっかりしたというか、文化の盗用以前の問題として、これはそもそもカルチャーと言えるものなのかと疑問を感じて、直ぐブラウザを閉じました。それよりも今までオリンピックに対して持っていた感情、げんなりしている気持ちがあって、それでもお金をあんなに注ぎ込んでいたわけだから、ある程度のクオリティはあるのかなと思って観ていたら、コンセプトが全然わからない代物。全然期待してないのに裏切られたみたいな、変な感覚でした。翌日、Twitterに上がっている開会式に関する意見は気になって、部分的に記録映像でチェックし直しました。そこでやっぱり気になったのは、ブレイズの髪型にしているMISIAさんがそれを隠すように大きなハットを被って、多様性を訴えるかのような虹色のドレスを着て国歌を歌っていたことでした。彼女自身も意図はしてなかったのでしょうけど、その場の空気感も相俟ってチグハグな印象を受けました。もうひとつは、聖火を点火する係に大坂なおみさんを採用したという部分も、どうしても権力に利用されてしまっている構造が見えて、怒りというより脱力した感じでした。なので、文化盗用という文脈は、後から違和感として感じていた部分が言語化されて入ってきたという感じです。

 

竹田

個人的にも、開会式で本格的な文化が排除されているからこそ、MISIAさんのブレイズなどの細かいことが引っかかったし、それ以上に感じた矛盾は、MISIAさんのことには言及しないのに、大坂なおみさんの髪型については批判的なことを言う人が出てくるということでした。それは髪型のことを気にしているのか、それともただ差別したいだけなのかは判断できないですが、「多様性」をテーマにしつつも理解や経緯がないことは明確に見えてしまうと思いましたね。そしてその後で、MIKIKOさんの開会式原案が『文藝春秋』で公開されました。自分は日本の会社に勤めたことはないですが、ああいうふうに当事者ではない誰かの利権や都合によって、最も現場で創作してきた人たちの理念や蓄積が一気に壊されてしまうのだなということを目の当たりにしました。MIKIKOさんの原案を見る限り、式は理念やストーリー性などが考えられていたわけですが、ジャンベのアフリカ系パーカッショニストが事前に人種を理由に出演を外されていたり、モチーフだけの「復興」などが半ば強制的にねじ込まれたりと、別の排除が進んでいた。多くのクリエイティブに関わる人たちが開会式に、予定調和と利権への迎合が優先されている現実が残酷なまでに刻印されていたことを、多くの人が感じ取った出来事だったと思います。

 

柳澤

日本では全体として、「文化盗用」以前に文化が利権とお金に負けている状況がずっと続いていて、それが今回の開会式でとてもわかりやすく露呈しました。自分も含め文化に関心がある者、また実際にクリエイションに関わっていらっしゃる方たちは、皆この状況をわかってはいたけれど、実際目の当たりにして、本当に失望したのではないでしょうか。この流れで「文化盗用」についても確認したいのが、それは政治の問題であると同時に、経済的な問題であり、その両者が含まれた権力構造の問題なんだろうということです。今までもオリエンタリズムとかポストコロニアリズムというようなかたちでの文化搾取の問題は連綿とあったわけですよね。それがとくに「文化盗用」が問題になる場面、例えば黒人のTikTokerが最初に発信したダンスを白人のTikTokerが流行らせている現状に対して、黒人TikTokerがボイコットを起こしましたが、黒人たちが怒っているのは、白人が黒人たちの文化を盗んでいるということだけでなく、黒人の存在を抹消してお金を稼いでいるという現実に対してだと思います。つい先日もラッパーのLizzoがトゥワーク(Twerk)というお尻を振るダンスが、アフリカに由来することをTEDトークで話していました。とても印象的だったのは「私は門番になりたいわけではないけれど、問題は誰が門を作ったのかです」という言葉で、やはりオリジナルを締め出す門(ゲート)、経済活動も相まった権力構造への怒りなんだと再確認しました。

 

 文化は政治と繋がっている

 

竹田

ちょうどこの間入稿した来月発売の『群像』(講談社)9月号で、Z世代の間で起きているSNS上の人種問題に関する原稿を書きました。まさにSNSで「Z世代スラング」と言われているものがもとは黒人英語だったり、TikTokで流行っているダンスがもとは黒人クリエイターが作ったものであることなどに触れました。Z世代は、広く人種差別に敏感でラディカルであるという言説があるにもかかわらず、同時に黒人のカルチャーが「クール」なものとして認識され、インターネットでポップなメインストリームのカルチャーとして一般化され、消費されていくうちに、搾取や軽視に繋がっていってしまう事実に関する記事です。

「PAPER」が配信した、白人の子どもが黒人のカルチャーをメインカルチャーとしているインターネット環境で育つとどうなるかという内容の記事がありましたが、その例としてビリー・アイリッシュも引かれていて、「クールだから黒人のカルチャーを使っている」とか、自分たちの社会的立場を把握せずに使ってしまうというようなことも書かれていました。

まずここで一度前述のオリンピック開会式の話に繋げると、文化が政治に利用されてしまっているというのは本当にその通りですが、同時に言いたいのは、そもそも文化って政治と繋がってるじゃん、という話です。

 

柳澤

そうですよね。権力関係という広い意味での政治とつながっている。

 

竹田

そう、文化が政治に繋がっているのは悪いことではなく、ただの事実です。日本ではそれを否定し続けた結果として文化全体が軽視されてしまい、むしろ政治に利用されてしまっているということは専門家にも最近問題視されるようになったと感じます。例えば、アーティストは音楽だけじゃなくて、社会に関わる方法は考えればいくらでもある。もちろん「政治的な発言をするべきだ」とは言いません。今回のオリンピックもそうですが、政治的な権力や何か大きな力によって文化の力が潰されてしまった時に、一つひとつ何が問題だったのかという検証をすること、振り返るための考察が必要ではないかということなんです。

失敗から学ぶというシステムが欠落してしまう要因になるような、「前に進むしかない」とか「○○○しかない」構文の有害なポジティビティによって何かを乗り越えようとする風潮は強く感じます。文化が政治にいいように使われている状況には、文化に直接関わっている人にも責任があると思います。彼らは当事者だし、例えば「音楽しか作れない」というのは、社会に対して大きな力を持ちうる「文化」を軽視する考え方だと思います。普段から「スポーツの力」「アートの力」「音楽の力」だと言うわりに、こういう時には「文化は微力だ」みたいな、政治に関係ないみたいな態度になってしまうのは矛盾していると感じるし、本当にスポーツや文化の力を信じるのであれば、できることはいろいろあるはずです。

開会式の失敗は、もっと言えば政治や教育、メディアや広告代理店、権力構造も含めた大きなシステムに遡る問題で、それを個人の問題に帰着させてしまうのは誤りだと感じます。そういう表層的な理解や批判のままでは、永遠に同じ失敗を繰り返しかねない。

 

政治的主体の基盤になるアイデンティティ

 

柳澤

むしろ、自分たちには政治力があると思いたくない傾向さえあると思います。本当に深刻なことだと思うんですけど、当事者意識を持つことが病的にできなくなっている。当事者性について考えるうえで、みなさんの意見を伺いたいのは、アイデンティティの問題なんです。私たちは日本人としてのアイデンティティについても、当事者として自覚的に引き受けられなくなっている気がします。例えば、「君が代」ひとつとっても、最近は公立学校でも歌ったり歌わなかったりのようですが、「なぜ君が代が問題なのか」については教えられないことが多いようですね。その一方で、オリンピックでも物議をかもしたMISIAさんは、フジロックでなぜか「祈り」を込めて「君が代」を朗々と歌っていて、多くの人を唖然とさせました。SNSでも指摘されていましたが、正しい歴史認識に基づくアイデンティティティがないところに、スピリチュアルなものが挿入されることで、MISIAさんのような振る舞いが出てくるわけで、相当不可思議なことになっていると思います。

 

哲学者の高橋哲哉先生とZ世代の座談会(「私たちのアイデンティティと「戦後責任」──哲学者・高橋哲哉と沖縄、長崎、兵庫のZ世代との対話」)によって教えられたことなのですが、国粋主義的な意味ではなく、ポリティカルな当事者、責任主体として生きるために最低限必要な「国民としてのアイデンティティ」があるんだろうと思います。そもそも「国民として」とか「エスニシティとして」アイデンティティを持つことが前提にあって、はじめて「文化盗用」だって問題にできるわけですから。

 

眞鍋

例えば、理由も考えずにスポーツは応援するけど、日本人として自分の文化を真剣に大事にするとか、日本語を大事にするみたいなことは、マインドとして薄れていっている。国家という単位が大事にする対象ではなくなっているという印象があります。これを文化に対するアイデンティティとの関連を考えてみると、情報が過多で、処理しきれない状況があると思います。音楽にしろ、映画にしろ、ほかのカルチャーにしても、自分が何かを楽しみたいと思ったその分野にはすでに多くの作品が溢れているから、自分の好みや感覚的なものだけに頼らざるをえなくなってしまい、その感覚を問い直す行為なしにエスカレートした結果、受動的な消費しかしえないということがあると思うんです。受動的な消費者には作品に存在する文化的背景を考える暇がないし、その思考性も知らないままという大変な状況なのかなと。

 

竹田

そうですね。国民という当事者性の話に戻ると、アメリカの一部地域でも国家を歌わないという姿勢はあって、私も「星条旗」の歌詞を全部は知らないし、小学校の頃から「あれは戦争賛歌であって、人種差別や奴隷制度に基づいている歌だから、私たちの学校では歌いません」という学校もあります。リベラルな州では「星条旗」の代わりに、広大な空や荘厳な山々を歌う「America the Beautiful」を歌ったりしています。

アメリカの話を続けると、トランプの台頭に伴うナショナリズムの隆盛と崩壊の季節があっという間に過ぎていきました。最初は「Make America Great Again」が保守に響き、政権末期は「Fuck America」のようなフレーズがリベラルの若者のスローガンになった。バイデン政権のもとでは、搾取をはじめ非人道的なものの上に成り立っている価値観を廃し、隣人愛を持って、弱者にも目を向けよう、それが本当の愛国心であり、だからコロナウィルスの感染防止に努めようと議論が展開されていく。

 

一方で日本は、個人の暮らしが楽にはならず、文化や経済が衰退している客観的事実と向き合うことを避けるために「日本はすごい」と言い募る傾向が強まっているようにも感じます。「あの国はひどい」「あの国よりはマシ」というマウントはアメリカでも大いにありますが、気休めにしかならない。文化の中身はどうでもよくて、かつての栄光や大衆的な実績ばかり気にしてしまうことは、資本主義に汚染された先進国の宿命なのかもしれません。だからこそ社会的、政治的な関わりのある場においてアーティストたちが意志を発表することが大事だと思うのですが、長年の業界の抑圧的な風潮や一般人からの「ノンポリ」の要求が強く、発言する練習やそもそも発言をする場が形成されていないようにも見えます。

 

アーティスト、そしてレーベルやマネージメント等の裏方を含めて世界で繋がろう、他国から学ぼうとする動きを当たり前にしているなか、日本では特段「英語ができないから」という理由で海外の情報を取り入れることも、海外に向けて何かを発信することも難しく感じてしまう人が多く、多くの機会が失われてしまっている現場を多く経験してきました。最低限必要な「なぜ音楽を作っているのか」「何のために自分は文化に参加しようと思っているのか」という作り手としての意識を伝えることが是とされてこなかった分、政治的・社会的な意義を表明すると「音楽の場で政治の話をするな」と、むしろネガティブな風に受け取られることが多い。ジェンダーやセクシュアリティ、社会的なスタンスや個人的な信念を発信することがZ世代に人気のアーティストにとって最も強い武器になっているアメリカの状況と比較すると、たしかに乖離は大きいです。現状に目を向けたくないという受け取る側の否定の気持ちが、アーティスト、そして社会全体の学びの機会を失うことにも繋がっているようにも思います。

 

個人的なことは政治的なこと

 

柳澤

現状に目を向けたくないから当事者意識も持てない。非常に長い時間をかけてこのような心理状態に陥っているからこそ、まず「自分」というレベルから立ち上げ直さないといけないのでしょうか?

 

竹田

そう、「パーソナルなことは政治的なこと(The Personal is Political)」から立ち上げないと。

 

柳澤

さっきの竹田さんの話を伺っていて羨ましいと思うのは、アメリカには、いわゆるリベラルのなかにも、アイデンティティとしてのナショナリズムが強く存在していて、国民が自分たち自身の価値観を問い質すためのベースにもなっているように見えます。私にとって、トランプ政権からバイデン政権への、アメリカという国を再定義していく一連のプロセスは本当に感動的な出来事でした。

 

竹田

なるほど、でも、アメリカのナショナリズムが強いという感覚は意外にも思えます。国家のシステムがあまりに崩壊してしまっているとき、人々はそれに一切期待せず、自分に社会的に特権があるかないかを相対的に見つめますよね。自分は比較的恵まれていると認識すれば、同じ社会に住んでいる抑圧された人たちに向かって自分が起こしたアクションの結果を受け取り、自分が持ちうる影響力とはどういうものかを考えるように教育されていると思います。キリスト教的な観点から来ているのだろうと思う部分もあるのですが。そうしたことが当事者意識、政治参加、例えば自分が音楽を作った時に文化盗用を批判的に検討するという姿勢にも結びつく。

 

自分が起こすアクションには影響力があるということや、自分のアクションの結果が最終的には自分に戻ってくるということが経験上見えづらいという話は日本の友達からよく聞きます。未来的な思考が生まれにくいと感じるケースも多いです。さらに、自らの加害性や国の歴史上の加害性と向き合うことも教育の段階で組み込まれることが少なく、これに関しては例えば白人がBlack Lives Matterに対してAll Lives Matterで抗議したり、自分たちの「被害者属性」を主張することにも近い。このように「被害者意識」が非本質的な「当事者意識」にすり替わってしまっている場合も多く、その影響で文化の盗用やマイノリティの権利の話になると議論が進みにくいと感じることもあります。

  

理念が必要なのか、ヒーローが必要なのか

 

柳澤

「人権」や「正義」もそうなんですが、そもそも概念や理念を、日本人はリアルに捉えられているのか、と疑問に思いますね。進化心理学者・人類学者のジョセフ・ヘンリックたちが言うには、理念にリアリティを感じるってこと自体が西洋化された感受性なんですよね。こうした理解に立った時、この状況を変えていく具体的な改善策として、やはり理念から行くのがいいのか。そうではなく、グレタ・トゥーンベリさんのように声を上げている人々を、具体的にヒーロー、ロールモデルにしていくことがより有効なのか。私は哲学が専門なので余計に思いますけど、理念だけではなく、何らかの工夫が必要な気がしています。

 

人々を突き動かすものは「理念」か「情動」かという議論もありますが、最近の日本の状況を見渡せば、理念もなければ強い情動もなくて、自分がただ生き延びる日々の生活、自分が得た利権を守ることくらいしか行動原理がないように見えるんですよね。

 

竹田

サービス業などにおける情緒的搾取が激しすぎると思います。日本のサービス業の質がすごく高いというのも、結局そういう情緒的なものを「良いこと」とするのは、なんの疑いも抱かずに搾取されてしまっているということじゃないですか? 個人の意思のようなものをなくして、笑顔で自我を押さえ込んで日々を生きて、結局電車の中でTwitterに悪口を打ち込んでいるとか。より大きな権力に逆らえないから、小さな抵抗としてアンハッピーなものを発散せているというのはそういうことじゃないでしょうかね。

 

柳澤

文化なんて、皆がそこに「かけがえないもの」を感じて心を傾け、感動することが一番大事なところなのに、理念もない、感情も強く突き動かされないとなると、文化の存立の条件がなくなってしまっていることになる。文化の価値がわからなくなっていって当然ですよね……。その点に相当危機感を抱いています。

 

竹田

結論というか、落とし所にきましたね。私も本当にそう思うんですよね。例えばSIRUPの場合、彼にはすごく寛大な優しさがあって、ファンコミュニティで一人ずつファンと対話している。日本のインディペンデントアーティストが小〜中規模のコミュニティを形成して、コミュニケーションや学び合いの場を独自に作っている傾向は増加していると思います。社会問題に興味あるけどどうやって向き合ったらいいのかわからないという人たちにとって、好きなアーティストが「一緒に学ぼう」と手を差し伸べてくれることはとても力強いし、学校以外での「学び」を経験することはとてもポジティブなこと。自分の気持ちを言語化する能力を持ち合わせることで社会問題に対する解像度も高くなるし、最終的には「生きづらさ」も解消されますよね。

 

他方でよくあるのが、「それは難しい問題だよね」「いろんな意見があるよね」っていうゆるふわリベラリズムで、間違った平和主義。まさにいじめなどの加害性に力を持たせてしまう行為。例えばアーティストとファンの関係はただの偶像崇拝みたいな相互作用でよいのか、メンタルヘルスや持続可能性の観点からしても、今後議論されていく話題だと感じています。

 

眞鍋

理念を啓蒙として推していくのがいいのか、あるいはヒーロー像を押し出していくのがいいのかという議論とも繋がると思いますが、今の僕と同世代の若者は、少し上の世代の人たちよりは感情や意見を表明できるというか、表明してもいいというような感覚を持っている人が増えていると思うんですよ。僕はアーティストでいうとSIRUPさんのような人がもっと出てくるべきじゃないかって思いますし、勝手な意見かもしれませんが、「より良い社会」を実現しようとする人が、自分を利用しようとしたり、何も考えずに持ち上げようとする人を批判するくらい徹底的にヒーローに徹して欲しいと思います。経済的な利益への関心を排除して、正義だけの話を追求する必要──難しいですけど──があるのかなと思います。でも、実際声を上げる人を応援したい人口ってめっちゃいると思うんですよ。言えないことを代弁してくれる人を応援したくてもクソリプが怖くてSNS発信ができない良心ある人も確実にいる。その一方、媚びを売ったり、利用する人も出るから、それをも批判する強さと徹底した正義がいるという意見です。日本だととくに。

 

竹田

Gotchさんが運営しているD2021などはとくに良い例だと思いますが、自分たちの倫理的、人道的な正しさを貫くためには、持続可能なコミュニティを形成しないといけない。コミュニティを形成していけばいくほどに味方になってくれる人は増えるし、敵対する人は離れていくからそれはそれでいいという思考は、アメリカのアーティストの間では共有されていると実感しています。日本では「ひとりでも多くの人に聴いてほしい」みたいなことが言われがちですが、資本主義的な枠組みから離れて考えた時に、本当にそうなのだろうかと。

 

柳澤

どの話題においても、現在の日本社会では、さまざまな価値や理念が利権構造に徹底的に負けているという問題に行きついてしまいますね……。竹田さんがフジロックの開催に関して発信された一連のTweetのなかでとても大事な指摘だと思ったのは「そしてあえて言いますが、インディペンデントなアーティストばかりが意見表明の発言をし、批判を受けている一方で、経済が潤っていた時代の音楽業界で活躍してきたアーティストからはほとんど発言がないことにも気付いて欲しい。同じ業界、同じフェスでも、それぞれ全く境遇が違う」というものでした。既存の社会システムで権益を受けている人たちの沈黙もまた、音楽業界だけではなく、日本社会のあらゆる領域で生じています。反対にそういう「持つもの」への嫉妬心を利用して「既得権益を壊す」と言って人気を得るポピュリズムもこの沈黙とセットなんですよね。答えはどちらにもなくて、やはりシステムの内部にいる人たちが使命感を持ってシステムを変えようとする、そういう例があちこちで増えていってほしいと願います。

 

眞鍋

海外のアーティストであれば当然のようにしている政治的発言やコンシャスな言葉を発している日本のアーティストのことを、我々はもっと貴重だと思わないといけないと思います。

 

竹田

本当にそうですよね。今アメリカではLil Nas Xが人気者として盛り上がっています。ゲイの黒人として、セクシュアリティや社会のスティグマを作品のテーマにして、多くの人の共感を得ている。それを叩く人もいるわけですが、叩くほうが「保守的なみっともない大人」として顕在化するので、Z世代はますます一致団結する。たしかに彼もいろんな活動をしてくれているけど、この場合Lil Nas Xがヒーローというわけではなくて、Z世代からしたら「One of Us」「クラスの面白い友達みたいなやつがイケてる活動をやってる」って感じなんですよね。

 

柳澤

Z世代のヒーローは、クラスの中の「イケてる人たち」みたいな感じで牽引していくということなんですね。日本人だとそういうヒーローは誰でしょうね?

 

竹田

kemioくんとかそうですよね。

 

柳澤

そうですね! kemioくんのような、自然に社会に新しい選択肢を示していくインフルエンサーがだくさんいたら日本社会はどんなによくなるかと思いますよね。結局彼も今、日本にはいないわけですが(苦笑)。

 

眞鍋

Doja Catのコスプレしてましたよね(笑)。

  

セルフラブはエゴイズムではない

 

柳澤

日本の文化受容には、文脈も背景もなしになんでもかんでも受け入れて、ごった煮だから豊かなんだという大前提があって、かつてはモダニズムがないままにポストモダニズムに突入しているなんて言われていました。そういう状況のなかで、改めて、文化においても政治においても当事者性を持つためには、自分の主観的な感情を大切にして、言葉にするとか、さらにその感情を客体化して議論するとか、近代的な主体化、「自己」を立ち上げるプロセスをやり直さないといけないのかなと、もう何周目なのかと思いつつ、考えます。

 

竹田

コロナを経て、私は自分と向き合う時間ができました。人の命は大事で、セルフケアやメンタルヘルスと向き合うことを通して、自分が加害することの可能性、加害されていることの可能性、権力との関係性や社会の抑圧の仕組みに気づくことを、日本人にも期待したんですね。アメリカのZ世代にはそういう気づきがあって、コロナ禍を経て、例えば自分がクィアであることをカミングアウトする人々がものすごく増えました。人前に出ないことによってジェンダー・パフォーマンスをしないで済むから、自分が感じていた違和感を意識化して、解消するプロセスを多くの人が経験した。「これを期に変わらなかったらどうするんだ」という風潮さえあります。マインドフルネスやメンタルヘルスなど、自分を守ることから始めたとしても、自分の気持ちを言語化できるようになり、自分の気持ちを処理できるようになれば、無駄なストレスも感じないし、自分が属するコミュニティや社会をよくするためには、まずその自己の確立がベースになる。取っかかりとしてはこれが一番重要で、なにより日本でこれから開拓の余地がある分野だと思います。そうしたセルフケアもすぐに経済産業システムに利用されてしまっていくわけではありますが。

 

眞鍋

自分自身を大事にするという点で、日本のZ世代、若者の感覚を考えてみると、根本的にはどこまでも受動的というか、自分を取り巻く状況に危機感や不満を感じていても、次の一手を大人がやってくれるんじゃないかっていう甘えに近いものがあるように思います。ある意味でコロナ禍というのは全員が影響を被る問題でもあるので、これをきっかけに自分のなかで、露呈してきた政治や社会のシステムの不機能とか、自分の置かれている状況だったりをコロナ禍と同様に自分に関係する物ごととして捉える必要性があると思います。日本の教育システムの問題かもしれませんが、型に当てはまることに抵抗がない同世代が多いように感じます。実際に、型にハマって波風立てないように生きていけば、それなりの生活を送ることができてしまうという現状は否定できないと感じます。一回、型にハマると抜け出すのが難しいし、思考することもなしに過ごしてしまうし、考えないことって快感に近いと思うんです。そこから脱却して自分自身を捉え直す必要があるんじゃないでしょうか?

 

柳澤

考えないことが快感という発言は、私には恐怖なんですが(苦笑)。そういう発言の背景になっているシステム、黙って従っていれば、一番コストが少なく社会的な立場が保証される政治経済システムを見失わないようにしないと、と思います。そうしないと、当事者意識の土台になるべき「セルフ=自己」がエゴイズムと混同されたり、反対に、竹田さんが先に仰ったように、謎の平和主義で、システムに加担している加害性があたかも存在しないように思われてしまう。たとえばフジロック参加にあたって書かれたGotchさんのテキストに「エゴイスティック」という言葉がありましたが、アーティストやクリエイターが「演奏したい」という思いをエゴイズムと捉え、自戒するというのはあまりにも悲しい状況ですし、システムから外れる行為をとる人が、そういう感情を抱かされてしまっているようにも見えました。自分=セルフを大事にすることが他者のためになり、社会のためになるという考え自体は、西洋の哲学においては古いものですが、多少商業化された「セルフラブ」であっても、自己を立ち上げ、客観的に社会のなかに位置づける習慣が日本に根づくことを願います。

 

竹田

世界中でグローバリズムやテクノロジーの進化が加速化するなかで、音楽やアートなどの文化のあり方、そしてアーティストと受け取り手のあり方を再定義する必要性が徐々に高まっています。「アップデート」という言葉に縛られる必要はありませんが、世界が変わるにつれて、価値観や問題意識などもそれに従って変わっていかなければ、持続可能な「進化」は不可能。「完璧な正解」に近づくことを目標にするのではなく、問題提起をし、議論をし、連帯と学びを通して「より良い社会」を目指して行けたら、より多くの「救い」が得られるのではないかなと、今回の議論を通して改めて実感しました。

 

 

 

[2021年7月29日、Zoomにて]

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2021/09/10
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竹田ダニエル
(たけだ・だにえる)

カリフォルニア出身、現在米国在住のZ世代。大手レーベルのビジネスコンサルタントやテック系スタートアップを経てフリーランス音楽エージェントとして活動し、アーティストのPRやマネジメントを行う。ライターとしては「カルチャー×アイデンティティ×社会」をテーマに執筆、『現代ビジネス』『Forbes』『Newsweek』『日経新聞』『Rolling Stone』等掲載。『群像』『日経xwoman』『DIGLE』『日経COMEMO』『wezzy』で連載中。

聞き手 | 眞鍋ヨセフ+柳澤田実 /写真 | 森岡忠哉
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