SNSが誘発する二極化とその脱出術──この時代に流されないために
Twitterのトレンド欄には、今日もさまざまな言葉が並ぶ。しかし私は、それを見ることはほとんどない。なぜなら、SNSに自分の考えや言葉がコントロールされてしまう感覚に陥るのが嫌だからだ。
SNS以外に、自分だけの発信場所を持っておくといいと思う。
culture
2021/10/23
執筆者 |
木々海々
(ききかいかい)

水瓶座。いろいろなエンタメをつまみ食いしている。座右の銘は「共感より共存だ」。

Twitterのトレンド欄には、今日もさまざまな言葉が並ぶ。しかし私は、それを見ることはほとんどない。なぜなら、SNSに自分の考えや言葉がコントロールされてしまう感覚に陥るのが嫌だからだ。

「#開催してよかった」VS「#開催してよかったわけねえだろ」?

東京オリンピックは、日本政府の新型コロナウイルス対策、開会式を巡る騒動、アスリートの言動など、さまざまな角度から賛否両論が巻き起こったまま、すっきりしない形で閉会を迎えた。その時、Twitterのトレンドには「#開催してよかった」というハッシュタグが躍り出ていた。活躍したアスリートを称える言葉などが並んでいた。しかし程なくして、「#開催してよかったわけねえだろ」というハッシュタグもトレンドに現れた。そのツイート内容は、主に新型コロナウイルスの感染者の激増にもかかわらずオリンピックを開催し続けた政府への怒りや、アスリートの言動を人命軽視とみなす考え、開会式に起用されるはずだった小山田圭吾氏、小林賢太郎氏へのキャンセルカルチャー、あるいはそれに対する反対意見などさまざまな怒り、嘆きだ。それと同時に、一部「#開催してよかった」というタグをつけてつぶやいている人々への嘆き、呆れも見られた。

そうすると、今度は「#開催してよかったわけねえだろ」タグを使っている人に対して「また左翼が暴走してる」というような呆れが現れる。ここで、私は「彼(女)らは一体何と戦っているんだ?」という疑問が湧いた。たしかに、私もオリンピック前後の新型コロナウイルス対策が十分だとは思っていなかったし、小山田氏、小林氏へのキャンセルカルチャーが横行していた状況は悲しくて、とても見ていられなかった。どちらかと言うと開催には反対派だったと言えるだろう。しかし、反対派であったはずの私も、このように2つの「陣営」に分かれて喧嘩をしたいわけではなかった。SNSで意見が表明できるというのは大切だし、オンラインでのデモ活動は重要だと思う。しかし、本人たちが意図してのことなのかはわからないが、SNSでの発言はしばしば二項対立を生み出してしまう。

なぜ、このように不毛な結果を招いてしまうのだろう。社会心理学者のジョナサン・ハイトとトビアス・ローズ=ストックウェルは、この原因を以下のように分析する

「プライベートな会話のなかで絶えず怒りを表現していたら、友人はあなたを「面倒なやつ」だと思うだろう。けれども、観客がいる場合、怒りの見返りはそれとは異なったものになる。激怒することは、あなたのステータスを高めることになるのだ。」

ニューヨーク大学のウィリアム・J・ブラディーらが2017年に行った研究では、50万件のツイートのリーチを測定した結果、善い・悪いについての直感的判断を引き起こす、感情的な言葉が使われるたびに、ツイートの感染力が平均で20%増加することがわかったそうだ。またピュー・リサーチ・センターによる2017年の別の研究では、「怒りに満ちた意見の相違」を示す投稿は、Facebook上のほかの種類のコンテンツに比べて、「いいね!」や「シェア」などのエンゲージメントが約2倍になることが示されている。TwitterやInstagramにも備わっている「いいね!」機能などによって、他者からの自分の発言・考えに対する評価が可視化されてしまうこと、可視化された評価を自分への称賛と受け取ってしまうことが、この際限のない対立を助長しているようだ。

社会はAチームかBチームのどちらかに分かれて戦うゲームでできているわけではない。大抵の物事は、0か1かの両極端で測ることはできず、グラデーションになっているはずなのだ。実際、私はどちらかと言えばオリンピックに反対していたが、各大会で活躍する選手に対しては「すごいなあ」という気持ちで見ていた。一部言動に問題のあるアスリートもいると感じたが、そこから十把一絡げに「だからアスリートはダメだ」という気持ちにはならなかったのだ。

オリンピック閉会時にTwitter上で繰り広げられたこの一連の流れを見た後、私はそっとTwitterトレンドの言語を全く読めない地域のものに変えた。

日常に潜む二項対立・二極化への入り口

こうした二項対立・二極化は、何も政治や社会に対する意見に対してのみ起こっているのではないと思う。特定のコンテンツを一人のファンとして応援をしているときでも、「信者VSアンチ」の構造ができてしまったり、いわゆる「解釈違い」が原因で、匿名で感情的な言葉をぶつける人が現れたりしている。

私はミュージカル『テニスの王子様』シリーズが好きなのだが、今年始まったシーズンからはスタッフを一新したこと、また大幅に変更された演出や楽曲を巡って、賛否両論が起こっていた。単に議論があるだけなら、より良いコンテンツを享受するためには必要な流れだと思う。しかし、自分と異なる意見を持つ人や「良いところが多かったけれど改善してほしいところもある」「自分には合わなかったが好きな所が全くないわけではない」というグラデーションの中にいる人々のことを攻撃している人を見ると、そのような攻撃は本当に必要なのかどうか、疑問に感じてしまう。

私自身は演出や楽曲の刷新には比較的賛成なものの、一部の演出にはどうしても少しモヤモヤした割り切れない気持ちが残っている。しかし、まだシーズンが始まったばかりなので今評価するのも時期尚早だと考え、「ひとまずこれからも見続けよう、もしどうしても受け入れられないところがあれば離れよう」という結論に達している。しかし、こうした0か1かだけでは測れない立場の意見を、自分自身のSNSで表明するのには少し勇気が要った。SNSのフォロワー数もそこまで多くないし、匿名意見箱サービスには閑古鳥が鳴いているので杞憂に終わったが、それでもSNSで自分自身の賛否が明確ではない意見を出すことに躊躇いの気持ちが湧いてしまったのだ。本当は何も躊躇ったり戸惑ったりすることはないはずなのに。

ありふれた日常のなかであっても、大好きな作品について意見や感想を言うという楽しいはずの状況であっても、対立や二極化に囚われてしまうきっかけは、もはやどこにでも潜んでいる状況になっていると思う。そこで、最近私はSNSに振り回されないための脱出術を試している。

SNSにコントロールされない脱出術

まず、SNS以外に、自分だけの発信場所を持っておくといいと思う。私は、個人で書くブログや、波長が合う人同士での通話などを実践している。不特定多数に自分の発言が見られてジャッジされている環境では言いづらいことでも、躊躇うことなく言える環境というのは大切だと思うのだ。

ジョナサン・ハイトとトビアス・ローズ=ストックウェルも、SNSの問題は「繋がることそのものにあるのでは」ないと述べている。むしろSNS が「多くのコミュニケーションを、公共の場でのパフォーマンスに変えてしまうことにある」のだ。

「私たちはしばしば、コミュニケーションを、パートナーが交代で、お互いのジョークに笑い、相互に情報を開示することで、親密になっていくような、双方向の道のようなものだと考えている。しかし、その通りの両側に観覧席が設置され、その席を埋め尽くした友人、知人、ライバル、見知らぬ人たちが皆、判断を下したりコメントをしてきたら、どうなるだろうか。」

特定の相手とのコミュニケーションを、不特定多数に見られるパフォーマンスに変えることなく、コミュニケーションのままで完遂できる環境は、自分で意識的につくり、守らなければ、この先どんどん減ってしまうだろう。

次に、「SNSには世界のすべてが詰まっている」という思い込みから解放されるために、直にいろいろな人の話を聞いてみるという手段がある。いろいろな人に会うのが難しければ、本を読んでも良いと思う。とくに、いろいろな人の考えに触れられるという点ではエッセイやコラムがおすすめだ。読んだうえで、「自分と似たようなことを考えてた!」と嬉しくなるのも、「自分とは相容れない!」とモヤモヤするのもどちらも面白い。

「SNSに自分の意見をコントロールされているような気がする」と、私のように悩む人は、決して少なくないだろう。だからこそ、二項対立から抜け出すための脱出術を心得ておきたいと感じている。願わくは、二項対立から抜け出した先で、たとえわかり合えなくてもいろいろな立場の人々と同じ場所にともに生きられるようになりたい。

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2021/10/23
執筆者 |
木々海々
(ききかいかい)

水瓶座。いろいろなエンタメをつまみ食いしている。座右の銘は「共感より共存だ」。

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