マイルドヤンキーに馴染めなかった私たちのボカロ:鮎川ぱて『東京大学 ボーカロイド音楽論講義』を巡る座談会
鮎川ぱてさんの『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』(文藝春秋)が出版されたこの機会に、本書を出発点に、2000年代以降の日本の音楽シーンのなかでボーカロイドがどういう可能性を開いてきているのか、Z世代でボカロを聴いてきたelabo編集部のお二人にお話を伺うことにしました。
#東京大学ボーカロイド音楽論講義 #鮎川ぱて #ボカロ 
culture
2022/09/24
座談 |
木々海々
(ききかいかい)

水瓶座。いろいろなエンタメをつまみ食いしている。座右の銘は「共感より共存だ」。

■確かにアンチ・ラブソングから始まった

elabo編集部(柳澤田実)

elaboでも一部公開させていただいた(https://www.elabo-mag.com/article/20210716-01)鮎川ぱてさんの『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』(文藝春秋)が出版されたこの機会に、本書を出発点に、2000年代以降の日本の音楽シーンのなかでボーカロイドがどういう可能性を開いてきているのか、Z世代でボカロを聴いてきたelabo編集部のお二人にお話を伺うことにしました。私はボカロシーンをよくわかっていない大人として色々教えていただきたいと思っています。まず今日話してくださるお二人が、どのような経緯でボカロを聴いてきたのか教えていただけますか?

木々海々(以下、木々)

私は小学校高学年、4、5年生ぐらいのときに、たまたま自分でネットが見れるパソコンの環境を手に入れて、それでその時にちょうど、学校の友達にも同じようにネットでYouTubeを観たりする子が増えてきた時期でもあって、たまたま友達から面白いよって勧められたのが始まりでした。当時はニコニコ動画がメールアドレス作ってログインしないと見れなかったからのでおそらく、YouTubeに無断転載で上がっていたのを観たと思います。

人の声で歌っていないっていうのがまず自分の中ですごく新鮮で。親世代も全然知らないものだから、「自分は大人が知らないものを知ってるんだぞ」みたいな、ちょっとした優越感みたいなものを持ちつつ、またそれとは反対にオタクのディープなところに踏み込んだ感もあって、世間的にやばい人みたいに思われないかなみたいなという劣等感もありました。優越感と劣等感どっちにも挟まれながらずっと聴いていたみたいな感じですね。積極的に聴いていたのは中学生ぐらいまでで、中学三年ぐらいなるとまた全然違うものとかに関心が湧いてきたりして、それに離れていったっていう、感じですね。

elabo編集部

年代的にはいつくらいなんでしょうか?

木々

大体2011年から2012年くらいですね。

真嶋要(以下、真嶋)

私も小学校の高学年くらいに最初にアニメにはまって、その繋がりで仲良くなった友達に教えてもらってボカロを聴き始めました。年代でいうとやはり大体2011年ぐらいかな。当時は今よりも「とりあえずこれを聴け」みたいのがあったので、そういうのを聴きながら育ってきたかなという感じです。中学校の間はずっと聴いていて、高校に上がった2015年ぐらいに一旦ボカロから離れました。ぱてさんも本で書かれてたと思うんですけど、ちょうど2015年ぐらいってちょっとボカロが下火になった時期だったんですね。昨日、「1年以内にミリオンを達成したボーカロイド曲一覧」っていう、どなたかが作ってくださってる一覧を見てたりもしたんですけど、他の年だと10曲以上あるなかで、2014年•15年って2曲〜4曲しかなくて全然盛り上がりを見せてなかったんだなということは改めて感じましたし、私自身もそんなにボカロを聞かなくなった時期がちょうどその時期でした。ただずっとオタクではあったので、オタクをしてると、何かと流れてくるものなので、何だかんだずっと今までうっすら聴いてはいるかなっていう感じです。ただがっつり聞いてたのはやっぱり、2011年から13年くらいって感じですね。

elabo編集部

以前インタビューに応じてくださったラッパーのSkaaiさんも(https://www.elabo-mag.com/article/20220805-02)みなさんと同世代の24歳だと思うのですが、アメリカに行った中学生の時期にものすごいボカロを聴いたそうで、「歌ってみた」を自分でも投稿したっておっしゃっていました。



木々

私も「歌ってみた」の動画はちょいちょい見てましたね。プロみたいに歌が上手い人とかもいれば、ギャグみたいな替え歌にして歌ってるような人もいて、そういう自由なところが面白いなと思って聴いてました。それがまたニコ動とかと全部連動して、若い子たちにとっての、一つの場所になっていたと思います。

elabo編集部

なるほど。徐々にぱてさんの本の内容とも絡めていきたいんですけど、ぱてさんの本の中心テーマは「アンチ・セクシャル」としてのボカロ・カルチャーだと思うんですが、そのような問題意識というのは、地方の小学校、中学生でボカロを聴き始めた皆さんにはあったんでしょうか?特に当時ご自分を取り囲んでいたカルチャーとの関係でどういう意識だったんでしょう?

第一部のキーワードは「アンチ・セクシュアル」。ぼくの造語ですが、性や愛をめぐる通念を自明のものとせず扱う感性を広く指すものです。アンチ・セクシュアルな感性を担う「アンチ・ラブソング」がボカロシーンでは大きく支持されたのではないか。そのような感性があったのだとして、それはこの時代に固有の感性なのか。それはこの2020年代の時代精神なのか。 
第1章「ハチ=米津玄師論」、P13より

真嶋

まず時期的に被るのが、AKB48の大流行で、小学校高学年ぐらいだったと思うんです。「ヘビーローテーション」が出たのが2010年だったかな。いわゆる「神7」と言われていたメンバーがテレビ出ているのを目にしていた時期で、同時期に西野カナとかも出てきて、ラブソングが盛り上がった時期というのはあったと思うんですよね。そういう状況へのしんどさみたいなのはありました。「アンチ・セクシャル」っていうほどまでに自分の考えが性に否定的だったとは思わないんですけど、少なくともアンチ・ラブソング性を求めてボカロを聴いていたところはあるかなと思いますね。

木々

確かにAKBが全盛期の時で、そういうのをなんとなく受容しつつも、ワーッて乗っかれない自分みたいなのもいたんですよね。なんとなく趣味の領域の中でみんなと一緒のものに同じタイミングでハマれたっていう体験がなかったです。だからそういう意味でなんとなく寂しさっていうか、今は全然そんなこと思ってないんですけど、その時は本当に「これでいいのかな」みたいな漠然とした不安みたいなのがありました。そういう中で小中学生が集まるようなチャットのサイトにはまっていた時期があって、そこでボーカロイドが好きな人との出会いがあり、そのサイトで1人じゃないんだなとか、学校のクラスメイト全員と無理に仲良くする必要はないんだなとか、それこそアンチ・セクシャル的なものに繋げて言うなら「恋愛だけが全てじゃないよね」みたいなことも知ることができたっていうのは、今の自分の人生にもいろんな影響が残ってるなと思います。

elabo編集部

面白いですね。ぱてさんの本は、アンチ・セクシャルから、個(Individual)の否定、身体性の否定、クロノス的時間の否定のような図式で、一貫して西洋近代批判の図式でボカロを読み解いているように読めますが、今のお二人の話聞いていると、2010年前後の日本で、自分の周囲にある「これがノーマルだ」ってされている価値観に対して、「アンチ」ってほど強くないまでも、一旦「それが全てではない」ことを確認させてくれる場所として、ボカロが存在していたことがよく分かりました。

■アンチ・ヤンキー、アンチ・キャラクター

真嶋

確かにそうですね。2007年に初音ミクが出て、2010年前後に確実に特定の人たちに「刺さった」と言うよりは、広く「既存のもの」に当てはまらない人とか、違和感がある層の受け皿になっていた印象がありますね。そして、その「既存のもの」って何かっていうと、すごくざっくり言うと私の理解では地方のマイルドヤンキー的な価値観なんですね(笑)。そのマイルドヤンキー的な価値観を2010年前後に代表するものとして、最初に話した「会いたくて震える」西野カナとか、男性版だと「美味しいパスタを作ったお前に一目惚れ」する湘南乃風とかがある感じです。

elabo編集部

面白いですね(笑)、挙げてくださった例に対する違和感は世代が違う私にもよくわかります。ヤンキーって恋愛至上主義だと思うし、キャラ立ちを重視する価値観だと思うので、その辺もボカロをポスト・キャラクターとするぱてさんの指摘とも符号している感じがしますね。

この点において、未来はキャラクター的想像力と衝突するわけです。インディビジュアルであることを強調せざるをえないのがキャラクターの条件だとするなら、ミクは、その条件をひっくり返してしまっている。だから、ミクはアンチ・キャラクターなのだ。そう言えばそうですが、言ったそばから表現をアップデートするならば、僕はミクは「ポスト・キャラクター」であると考えます。
どうして単純にアンチ・キャラクターではなくてポスト・キャラクターと言うべきか。そのようなミクを許容できる想像力は、キャラクター的想像力が浸透した文化圏において出ないと成り立たないものだから。つまり、キャラクター的想像力意向のありかとして実現するキャラクターだからです。
  
第3章「厨二病はなぜ中2で発症するのか?〜初音ミク小論〜」、P93より

木々

すでに色々な方達が指摘していることだとは思うんですけど、AKBとか乃木坂とか秋元系列はやっぱり、徹底的に若い女性アイドルを「キャラ」として作り上げてきたと思います。その子が持ってる元々の性格とか趣味とか、あとはグループの中での立ち位置とかを全部、キャラとしてファンに消費させる構図があって、それに違和感を感じるというのはボカロを聴き始めた当時から確かにありました。ボカロには確かにぱてさんが言うように「キャラ消費」批判的な側面があると思っています。

elabo編集部

なるほど。初音ミクが出てきた時、多くの企業が萌えキャラのように消費しようとグッズ開発などをしようとしたのに対して、ミクを開発したクリプトン社が断ったという話を思い出しますね。初音ミクが起こしたムーブメントの核にあるのはキャラ消費ではなく、クリエイターの創作意欲だということで。★1

木々

そのキャラクター性を薄める傾向は近年ますます強まっている気もします。2016年にバルーンさんの「シャルル」っていう曲が出た時に、それまでのボカロの曲のMVって初音ミクとか、鏡音リン・レンとか、キャラクターが全面的に押し出されてるものが多かったイメージなんですけど、「シャルル」のMVにはそういうキャラクター的なものが一切なくて、文字の移り変わりとかで見せる、っていうのが自分の中では新鮮でしたね。キャラクターがあるとどうしてもキャラクターの魅力やバックボーンありきで伝わってくる面白さみたいなのもあると思うんですけど、それがなくなったことで、単純に曲としての面白さだけが伝わってくるような状況になったと思いますし、ボカロは日本のポップスではその先駆けだったんじゃないかと思います。

真嶋

ボカロは2014、15年ぐらいに下火な時期を越えて2016年にまたドカンと曲がいっぱい出たわけですが、そこで起きた展開が重要だった気がして、その一つがぱてさんや木々さんが指摘する、ポスト・キャラクター的な部分だったと思うんです。2016年頃に木々さんが挙げてくれた「シャルル」も歌っているflowerっていうボカロが出たんですよね。ぱてさんも本の中で言及してたんですけど、flowerは女声という位置づけではあるんですけど、中性的な、少年のような声も出る。初音ミクですって言われると初音ミクのビジュアルがみんなすぐに出てくると思うんですけど、flowerとか、あと最近流行ってる可不ってボカロがいるんですけど、これらのボカロについてはビジュアルが先行することってあまりなくて、「キャラクター」みたいなものがさらに透明化されていったと思います。ぱてさんは「ポスト・ポスト・キャラクターだ」みたいなことおっしゃってたと思うんですけど(pp.224~225)、それはボカロを聴く者として肌で感じる部分です。

elabo編集部

お話を伺っていると、2000年代以降、日本のカルチャーが「キャラクター」というアイディアに強く規定された時期があったからこその、ボカロの重要性、意義もあったのかなと思えてきます。こうした歴史的解釈は歴史化することに慎重なぱてさんの本の立場からは外れてしまうのかもしれないのですが、興味深いです。先程、ボカロは地方の主流であるマイルドヤンキー文化に馴染めない人たちの受け皿だったと真嶋さんが整理してくれましたが、かつて精神科医の斎藤環さんが、オタク(引きこもり)とヤンキーを対比して論じていたことを思い出しました。2011年に『キャラクター精神分析』でキャラの問題を扱い、2012年に『世界が土曜の夜の夢なら:ヤンキーと精神分析』、そしてキャラやスクールカーストとの関係で承認欲求に病んでいる若者について論じた『承認という病』が2013年。

斎藤環『世界が土曜の夜の夢なら:ヤンキーと精神分析』(2012年)

確かなのは2000年以降に「キャラ」概念が顕在化し、2010年前後に若者社会を支配する原理として相当問題になっていたってことですよね。斎藤さんの図式では、ヤンキーは、お笑い芸人のような「ノリ」重視のキャラでカーストをのし上っていく行動原理を持つわけで、対するボカロが同時期にむしろキャラを解体していく流れを作って行ったってのは、現代にも続く図式に思えて本当に面白いですし、考えさせられます。

真嶋

それは本当にそうだと思いますね。やっぱりスクールカーストとかキャラ的なものが顕著になって、そこからこぼれた人が集まっていたのが初期のボカロだと思うんです。実際に自分もその1人だったんですけど。それで、ボカロの曲が自分たちに「そういう原理で動いていない場所があるんだぞ」って教えてくれて、自分の居場所になってったというのは、私も実感としてあります。

■試行錯誤の2000年代フェミニズム

elabo編集部

ぱてさんがボカロやオタクカルチャーをフェミニズムの文脈で読み解いている点にお二人も共感なさっていましたよね。2000年代にAKBや秋元康的キャラ消費などの、あからさまな女性の若さ搾取が席巻していたのは間違いないとして、他方で、ボカロ以外にも、きゃりーぱみゅぱみゅのような「kawaiiは他人のためじゃない、自分のため」のようなフェミニズム的な実践はありましたよね。

木々

私は実はボカロ以外にも、つんく♂がプロデュースしていた★2ハロプロが好きで。ボカロとは違う仕方で活路を開いているようにも感じているんです。もちろんキャラ消費的な部分は完全には否定できないですし、価値観的にはマイルドヤンキーの範疇なのかもしれないんですが、家族や地元に言及する歌詞は、女性のリスナーに等身大の共感や励ましを与えてくれるものだったと思うんです。ぱてさんの本の第一部第6章の中に、はるまきごはんの「メルティランドナイトメア」を参照しながら、ラブソングの中に家族を登場させることはその背面にある生殖を示唆させ、恋愛と生殖の表裏一体性を思い起こさせることや、それ自体がアンチ・ラブソング的であると述べる箇所がありました。これに対して、つんく♂の詞に出てくる家族はボカロの描く「家族」イメージとは異なり、仲良しで、伝統的で、でも生活感があります。例としてわかりやすいのを挙げますと、モーニング娘。『まじですかスカ!』の「きっと私もママみたいな家族を持って で こう言うのよ『幸せ!』」とか、松浦亜弥『オシャレ!』の「内緒の話は内緒だから言わない だけどパパとママには話すの だってイザの時 頼れるのはパパとママよ」とかがありますね。伝統的な、「仲のいい父と母のもとで育った女の子」の生活の一部として異性との恋愛がある感じがします。この曲の主人公は幸せそうだな、と思いながら聞いているのですが、時々自分には合わない、自分はこうはなれないと思うこともあります。そういう距離感でつんく♂の歌詞を聴いてますね。ちなみに2007年は初音ミクが発売された年とのことですが、ハロプロが現状最後に紅白に出た年でもあって、一般的にはAKBに取って代わられた年だとされています。

elabo編集部

最近の和田彩花さん★3の様々な活動もそうですし、ハロプロには女性をエンパワーするフェミニズム的な側面がありそうだなと思っていましたが、マイルドヤンキー的範疇でのフェミニズムがあると思うと面白いですね。そして、昭和的な家族観に基づくハロプロから、AKB、ボカロに主導権が移行するのが2007年なのか。考えさせられます…

真嶋

ボカロの影響なのか、AKBの背後で展開していた様々な動きが実を結んでいるのかわからないのですが、少なくとも2020年代になって、「ラブソング中心」みたいのは変わってきたかなとは思うんですがどうでしょうかね。あとこれも既に言われていることかもしれないですが、秋元康でさえ欅坂の「サイレントマジョリティー」(2017年)とかでアンチな価値観を表現したように、メジャーVSマイナーというより、マイナーがかっこよくて、マイナーが沢山あるみたいな状況になってきているのかなと。少なくともボカロはその中で重要なポジションを占めているように思います。

木々

そうですね。私も中学ぐらいまではアニメとかボカロが好きであるってことが、なんとなく偏見にさらされてるっていう実感があったんですけど、今やそういう偏見を感じることがほとんどなくなってます。たとえばジャニーズが好きな人がアニメにも普通にはまってたりとか、逆に、元々アニメとかゲームとかが好きだった人がジャニーズみたいな三次元のアイドルにはまっていったりとか、そういうジャンルを越境するような感じの動きが出てきていて、ボカロもその一つのジャンルとして、選択肢として楽しまれ、消費されていっているのかなと思います。

■男性が非男性性を希求するレアなジャンル

elabo 編集部

ボカロに性を透明化する、あるいはフェミニズム的な実践があるとして、ボカロPには男性が多い印象が私にはあるのですが、その点はどう理解なさっていますか?

真嶋

ミクが出たのが2007年っていうのを考えても、その頃、日本の音楽シーンの主戦場はテレビだったし、CD出したらどこの誰がどんな姿でっていうのは必然的に出てきますよね。そんな中で、自分の曲だけれども「自分は何者か」という属性を開示しなくていいっていうボカロの世界は特殊だったと思うんです。というわけで、ボカロ初期には、ボカロPが男性か女性か意識することはリスナーとしてはあまりありませんでした。

その上で改めて男女比のことを考えてみると、ぱてさんの本によれば、ボカロのリスナーは男女半々くらいだということですが、確かにボカロPには男性が多い気が私もします。その上で、これまで確認してきたように、きゃりーぱみゅぱみゅが発信してきたような「自分の魅力は他人のためじゃなくて、自分のもの」だったりアンチ・セクシャルな価値観だったり、そういったメッセージを男性が発しているのって私はボカロ以外で見たことなかったですね。

elabo編集部

これもまた私よりもお二人の方が圧倒的に詳しいと思うんですけど、ボーイズラブ的なジャンルもシスヘテロの恋愛の不自由さを批判していると理解しているんですけど、作り手は主に女性だと思うんですよね。

真嶋

すごくざっくりした話になっちゃいますけど、『鋼の錬金術師』の荒川弘といった女性の少年漫画作家はいるけれども、少なくとも最近では男性の少女漫画作家ってほとんど見かけないなという実感があります。そして、それはBLに関してもそうなんです。性別を明言していない作家が実は男性だということはあるかもしれませんが、少なくとも「自分は男性だ」と開示している人は少ない。GLでは男性も多いのではっきりと言い切れるわけではないですが、きゃりーのようなメッセージを発する男性がメジャーなシーンに居ないということも考えると、男性がシスヘテロの恋愛中心主義を批判するというのは、相当画期的なジャンルなんじゃないでしょうか。

木々

私の場合は、男性とか女性とかを意識しないで、今、ボカロの声で歌われているものをそのまま受け取るっていうものをいう体験がボカロを聴くまでなかった経験でした。作家の願いとか欲望が透明化された状態で作品が出されるわけなので、その分自分の状況に当てはめて聴きやすい。これは、ぱてさんが「函数性」(pp.142~143より)という概念で指摘してたことでもあると思うんですけど、多分そういうふうに、自分を当てはめやすいからこそ、既存の男らしさ、女らしさがしんどいっていう人にフィットしやすいようなコンテンツになっていったんじゃないかなっていう感じはします。

elabo編集部

ボカロは歌詞がとても抽象的な印象があるのですが、それも関係ありそうですね。

真嶋

ぱてさんの「東京テディベア」批評の内容でもあるのですが、どうにもならないことってあるじゃないですか。その一つが性だったり、身体だったり、時間だったりするわけで。でも限界があるってことを認められない自分もいる。何かそういうどうにもならないことがあるよねっていうことを、歌ってくれると安心するというのが私自身がボカロを聴く原点かもしれません。

「『性の喪に服している』─アンチ・フィジカル〜」
サビの2行目に「脳みそ以外はもういらない」とあります。あるとき、このフレーズの重要性が急にわかって、そのとたんに出てきたのが今お話しした解釈です。「脳みそ以外もういらない」と言うのは、身体がいらないということです。そこにこの曲のコンセプトを見出すという点で、僕の議論は整形手術説と根幹を共有しています。
 なぜ、「いらない」のか。なぜそう言う必要があるかというと、それは目下意識させられているからでしょう。他者の声との対応物になってしまった自分の(社会的)身体。強迫的に自分に張り付いてくるその身体イメージを「切り取る」、「傷創」、「引き剥がされ」、「投げ捨てられ」、「引き千切れた」。自傷的な鋭いイメージが矢継ぎ早にモンタージュされています。ここに見られるのは、強い身体否定の感受性です。すなわち、アンチ・セクシュアルのバリエーションとしての「アンチ・フィジカル」な感性が噴出しています。

第9章「『東京テディベア』論〜あなたの身体は誰のものか〜」、P286より

elabo編集部

ボカロの主題の一つである物質性に対する葛藤は、ぱてさんが「天使」という形象で論じられていたことですよね★4。

木々

私も真嶋さんと同じで、ボカロを聴くと、思春期の時期の葛藤を思い出させてくれて、迷った中で、どれか一つを選び取るっていうのでもいいし、複数の選択肢があるままでも良いっていう、そういうものを確認させてくれると私も思います。

■ボカロの未来

elabo編集部

ボカロがどんどんメジャーになってきている今、ボカロの未来はどのようなものであってほしいですか?

真嶋

そうですね。10代の、初めて社会が見えてきて、そこに違和感がある人たちのための場として、まずはあり続けて欲しいですね。最近の曲で言えば、例えば、てにをはさんの「ヴィラン」は、トランス・ジェンダーについて歌った曲だと思うんですけど、それがヒットするということがボカロにはある。そういう曲をテレビで活躍するアイドルが歌うかと言われたら、残念ながらまだ歌わない時代ですよね。いずれそうなればいいのかもしれないですけど、やっぱり今はそうじゃない。それをボカロでやれているっていうのは、やっぱりボカロがマイノリティ性を持ち続けているジャンルだからだと思うんです。それが脈々と受け継がれてる部分もあるし、意識的にやってくださるボカロPの方もいると思うんですけど。常にそういう人たちが身を寄せる場であったらいいなと思います。

木々

私も同意見で、10代、20代の弱さとか、脆いところをずっと受け止めてくれる受け皿のようなコンテンツであってほしいっていうのはすごく思いますね。いくらマスメディアに出たり顔出ししたりするボカロPが増えても、やっぱり匿名だからこそ本音がポロッと言えるみたいな、そういうところは残り続けてるかなと思うので。そういう部分がメジャーになっても残り続けて、最終的に広くいろんな人に聴かれるようになっていったらいいのかなと思います。

elabo編集部

ボカロを2000年以降にオンタイムで聴いていらっしゃったお二人のお話はとてもリアルで、今の日本の状況を理解する上でも継続して考えたいテーマが沢山ありました。ありがとうございました。

★1――「やっぱり、萌えキャラというか、バーチャルアイドルというか、そういったものとして初音ミクを捉えている人がほとんどでした。実際のところは沢山のクリエイターが日々何かを創作している、その総体としての初音ミクなんですよね。そのことはなかなか伝わりませんでした」柴那典『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』 (Japanese Edition)(No.1543-1545). Kindle 版.
★2――つんく♂がハロプロの総合プロデュースをしていたのは2014年まで。2015年からは複数作家体制になっている。

★3――元・ハロー!プロジェクト及びアンジュルムのメンバー。現在はソロで活動するアイドル。ハロプロに在籍していた頃から、アイドルとしてフェミニズムや女性のアイデンティティに関するメッセージを発信し続けている。2020年にはフォーブス30アンダー30(日本版)の一人に選ばれた。

★4――中世のキリスト教神学をベースに、デジタル時代の身体、物質性への忌避を「天使主義」の名の下に考察した良書に以下のものがある。山内志朗『天使の記号学』岩波書店、2001年(新版は2019年)

culture
2022/09/24
座談 |
木々海々
(ききかいかい)

水瓶座。いろいろなエンタメをつまみ食いしている。座右の銘は「共感より共存だ」。

座談 |
真嶋要

22歳。食事と趣味に使うお金がいくらあっても足りない。

クラウドファンディング
Apathy×elabo
elabo Magazine vol.1
home
about "elabo"